第89話「祖父からの贈り物」
【第89話】
「ようユイナー、元気そうだな」
メディレン領のパッジェ城塞の長い廊下を歩いていたら、とんでもないヤツに声をかけられた。
俺は立ち止まり、懐かしい顔をじろりと睨む。
「よく俺の前にノコノコ出てこられたな、爺さん。いや、ヨーゼフ・フォンクトハウトだっけか?」
すると元相棒の老人は手をヒラヒラ振ってみせた。
「よしてくれ、偽名に決まってるだろ。『密猟師シュレイバー』や『三番通りのパゾ』とかと同じヤツさ」
ああ、あれな。会う人ごとに違う名前を名乗ってて、しかもそのどれも結構長い付き合いっぽかったから驚いた。この爺さんは、複数の偽名を長期間に渡って使い分けているらしい。
俺は呆れつつ苦笑する。
「で、今は『大クロムベルツ』って訳か」
「好きな名前を自由に名乗ってたら、とうとう向こうから名前をつけてきやがった。こんな生活も年貢の納め時かもな」
山ほど偽名を持っている老人はそう言って、人懐っこい笑みを浮かべる。
「だが感謝してるぜ。あのお姫様は俺の部下たちを雇用してくれたからな」
「俺は反対したんだがな……」
これは厳密に言えば嘘だ。小隊長や下士官クラスのベテランは喉から手が出るほど欲しかったし、彼らは雇う価値のある人材だった。
ただし以前は敵対していたから、警戒は怠っていない。
「はは、用心深いな。あいつらを教導隊の教官にしたのは、それが理由か?」
「そうだよ。爺さんの部下なんて、いつ裏切るかわからないからな」
新兵や下士官候補生を訓練する教官は、前線での作戦行動には参加しない。
もしかすると後方でスパイになるかもしれないが、メディレン家の防諜能力を舐めてもらっては困る。妙な真似をしたら鮫の餌になってもらうからな。
だがもちろん、それだけが理由ではない。
「それに戦争が長期化すると人材が不足する。ベテランの損失は軍の弱体化を招くからな。経験豊富な軍人には後進の指導を任せて、軍全体の練度を底上げしてもらうつもりだ」
「相変わらず優等生だな、お前さんは」
老人は苦笑したが、目は笑っていた。
「ま、その方がいいさ。あいつらは退役後に傭兵としてもう一度戦場に立ち、今度は立派に任務を果たした。しかも実力を敵方にも認められて、教官として職を得たという訳だ。俺は好きだぜ、そういう結末」
……今ちょっと、感慨のようなものがにじみ出てなかったか?
俺はこの老人に得体の知れないものを感じている。心の奥底に何かを隠し持っている気がする。さっきの瞬間、それがチラリと見えた気がした。
俺は老人を見る。
「あんたは仕官しなかったんだよな? どのみち雇う気はなかったが、そろそろ隠居か?」
「そうやってチクチク皮肉るのは良くねえって、昔教えただろ? まったく底意地が悪いったらありゃしねえ」
老人はそう言ってニヤリと笑う。
「俺の戦争はまだ終わっちゃいねえ。次に会うときはまた敵同士かもな」
一緒にいると油断がならないが、いなくなると思うと寂しさもある。複雑な心境だ。
「またどこかで傭兵をやるのか?」
「そうだな。ブルージュ公の野心に付き合うのはもう終わりだ。手持ちの情報をどう読み解いても、最後はお前が邪魔してブルージュは負けるからな。負け戦はもう懲り懲りだ、どうせなら勝ちたいね」
この爺さん、兵隊時代は負け戦続きだったらしいんだよな。
「といってもキオニスはフィルニア教徒を雇わないだろうし、エオベニアやフィニスは内外の政情が安定してる。後はアガンぐらいか?」
「んーまあ、その辺は行ってみて考えるさ。別に帝国を滅ぼしたい訳じゃねえ。意趣返しならもう済んだ」
行き先は明かさないつもりだな。相変わらず用心深い爺さんだ。それにしても今、ちょっと気になる発言をしたな。意趣返し?
俺はわざとしかめっ面をしてみせて、老人をじろりと睨む。
「次はいきなり襲ってくるなよ。こないだは久しぶりに再会した瞬間に襲ってきやがって」
「そりゃ仕事だからしょうがねえだろ。まあ悪いとは思ってるよ。ほら、手ぇ出しな」
なんだよ、飴でもくれるのか? そんなんじゃ買収されないぞ。
本来なら警戒すべき相手だが、俺は無造作に手を出した。大した危険がないのは『死神の大鎌』でわかっている。
そんな俺の様子が面白かったのか、老人は笑う。
「偉くなってもお前は変わってねえんだな。安心したぜ、これをやるよ」
掌に転がされたのは、飴……ではなくて指輪だった。五粒の小さな宝石が嵌め込まれた、金の指輪だ。あちこち摩滅していてかなり古い代物に見える。
「なんだこれ」
「鈍いヤツだな、あのお姫様に渡すんだよ。平民将校の給料じゃ指輪ひとつ買えねえだろ?」
ああこれ、婚約指輪のつもりか。一応、こっちの世界でも婚姻の証として指輪や首飾りを贈るんだよな。
「ちょっと待てよ、なんだか薄汚れてるぞ……それに女性の指には大きすぎないか?」
「ああ、そういや男物だった」
「おいおい」
アルツァー准将は手が小さいから、親指でもスポスポ抜けそうな気がする。どうすりゃいいんだ、こんなもの。
俺は突き返そうと思ったが、何となく引っかかるものを感じてポケットにしまった。
「ま、いいや。あんたからの贈り物はだいたい役に立つ。これも役に立つものなんだろう」
「信じてくれるのか?」
「『大クロムベルツ』は俺の元相棒だからな」
俺がニヤリと笑うと、老人は頭を掻きながら俺に背を向けた。
「やれやれ、からかい甲斐がねえよ。だがまあ、そういうヤツが幸せに近いんだろうな。あの不器用そうなお姫様を幸せにしてやりな。お互い好き合ってるんだろ?」
「平民と貴族ってのは、そう簡単じゃないぞ」
だいたい俺、前世分も含めるともうだいぶおっさんだからな……。肉体の年齢はともかく、実際の年齢は准将とずいぶん離れている。いろいろ躊躇してしまうところだ。
しかし老人は遠ざかりながら、軽く片手を挙げてみせた。
「それは俺もよくわかってるさ。貴族ってのはいけ好かねえ。だがお前のおかげでようやく一勝できたぜ。……いや、一笑ってとこか」
「何言ってるんだよ?」
俺は爺さんの言葉に妙に引っかかるものを感じていたが、彼は振り返らなかった。
「気にするな、独り言さ。じゃあなユイナー」
「ああ、またな」
参謀としては彼をここで拘束した方がいいのはわかっているのだが、どうしてもそれができずに俺は彼の背中を見送った。彼の背中が昔より少し小さくなった気がする。つくづく甘いな、俺。
彼が去った後、俺はポケットをごそごそやって指輪を取り出した。なんか……見覚えがあるような……?
よく見ると、指輪の内側に刻印がある。手垢がこびりついてて生理的に嫌なんだが、これは帝国の古代文字だな。士官学校でちょっとだけ習ったぞ。
「えーと……『我は』『至高なる』『フィルニアの』……『加護と』『信託によりて』?……『五指を』『握る』……『王の中の』『王』?」
なんか大層なことが書いてあるな。やっぱりちょっと気になる。
俺は指輪をアルツァー准将に見せることにして、旅団長室に向かって歩き出した。




