第85話「激動する『世界』の始まり」
【第85話】
――帝都ロッツメル陥落せり。
メディレン公ハーフェンとの会議直前に届いた急報によって、情勢の天秤は一気に危機へと傾いた。なんせ皇帝まで捕虜になったのだ。
メディレン公はフッと笑う。
「この情報は当家の密偵がもたらしたものだが、情報源は帝室紋章官ブレッヘン卿だ」
誰だっけ? あ、思い出した。
以前、俺に帝室侍従武官の話を持ってきた人だ。
紋章官は紋章学の専門家であり、同時に外交官でもある。紋章を識別して捕虜や戦死者の身元を保証でき、捕虜交換の使者も務めるからだ。
こういう人材とのコネは持っておくに限る。だからブレッヘン卿に話をもちかけた。
帝室が没落したときにはメディレン家で再び紋章官として召し抱えるので、メディレン家にも情報を流してほしい、と。
帝室の将来に不安を感じていた彼は快諾し、今も帝都近郊に留まって情勢を伺ってくれている。
メディレン公は続ける。
「それに近衛師団や帝都の豪商、ロッツメル教区神官にも当家の協力者はいる。貴官が驚くような人物も協力者だ。協力者を保護せねばならぬので、誰かは明かせぬが」
予想はしていたことだが、やっぱり五王家はおっかないな。
「彼らの話を総合すると、帝室関係者か近衛師団に内通者がいたらしい。帝都包囲の混乱に乗じて軍の指揮系統に介入したようだ」
ジヒトベルグ公かミルドール公か、それともブルージュ公かはわからないが、「こういうとき」に備えて帝都に人員を配置していたらしい。
近衛師団は実戦経験こそ乏しいものの、装備・士気・練度・規律の全てが高水準だ。皇帝を守る軍隊が弱い訳はない。まともに戦えば激戦は避けられない。
そうなれば帝都は荒廃し、ジヒトベルグ公たち新支配者は帝都の有力者たちの支持を失う。
それを避けるため、ジヒトベルグ公たちは慎重に戦争計画を練っていたようだ。
なんとなくメディレン公が発言を求めているような顔をしているので、俺は小さく咳払いする。
「おそらく無傷で帝都を手に入れるため、謀略を巡らせたのでしょう。武力で帝都を攻略するとみせかけて、皇帝と帝都を無傷で手に入れたのです」
「貴官もそう思うか」
アルツァー准将も発言する。
「思えば我が旅団をブルージュの傭兵団が執拗に付け狙っていたのも、クロムベルツ少佐を帝都やジヒトベルグ公に近づけないためだったのでしょう」
あの爺さんは准将を捕虜にしたがっていたが、最後はやけにあっさり退いた。
軍事には「必ず達成しなければならない」必成目標と「できれば達成しておきたい」望成目標があり、准将捕縛は望成目標だったと考えれば納得がいく。
メディレン公は深くうなずいた。
「ミンシアナの乱を阻止したクロムベルツ少佐が帝都に入れば、そのような企みなど即座に露見してしまうであろうからな。またジヒトベルグ公の元に逃げ込めば、情に篤いあの御曹司の心が揺らぎかねぬ」
今ひとつ悪党になりきれない雰囲気があるんだよな、あの人。育ちの良さだろう。
さて、そうなるとブルージュ公国の次の戦略がうっすら見えてきたな。俺は口を開く。
「ブルージュ公国は無傷で帝都ロッツメルを占領しました。近衛師団もブルージュの軍門に降るでしょう。皇帝が捕虜になってしまっては戦えません」
メディレン公は腕組みする。
「そうだ。皇帝が虜囚となり、帝室の権威は失墜した。だが帝室門閥貴族たちにとって、転生派のブルージュ公は受け入れがたい。ブルージュ家に忠誠を誓うぐらいなら、ジヒトベルグ家を序列一位と認め、門閥に入る方がまだマシであろうな」
俺もそう思うが、懸念事項もある。
「手続き的にも心情的にも可能なのですか?」
この辺りの心情は平民で異世界人の俺にはわからない。
するとメディレン公は薄く笑った。
「なに、そんなものはどうとでもなる。どこの家も、家系図の上の方には不自然な空白があるものだ。そこに適当な名前を書き入れれば、シュワイデル門閥であった家系がジヒトベルグ門閥に早変わりする」
俺は思わず口走ってしまう。
「いいんですか、そんなので」
「良くはなかろうが、誰しも自分の代で領地と身分を失いたくはあるまい。そのぐらいは妥協の範疇だ」
するとアルツァー准将が口を開く。
「もともと政略結婚で実際に親戚関係になっていることも多いからな。一人の当主には二人の親がいて、四人の祖父母がおり、八人の曾祖父母がいる」
メディレン公も深くうなずいた。
「叔母上の言う通りだ。五代遡れば三十二人の先祖がいる。遡れば遡るほど先祖は増え、上流でつながりがあれば由緒正しい流れを汲む者と言い張れる。門閥などと言ってもそんなものだ」
割といい加減なんだな。だが融通が利くのは良いことだ。
だからメディレン公は沿岸部の領主たちを取り込むつもりなんだな。あれこれ理屈をつけてメディレン家の血脈ということにしてしまい、傘下に収めてしまう気だ。
メディレン公は俺を見た。
「ということで当家も周辺領主の取り込みに腐心しておる。だがミンシアナの乱以降、復位したリトレイユ公との関係がぎこちなくてな……」
俺のせいじゃないよ?
「それでしたら、准将閣下のリコシェ秘書官が適任でしょう」
「ん? ああ、ミンシアナ殿の影武者だったという者か。叔母上から話は聞いている。事実上の代理人であったそうだな」
リコシェはメディレン公にとっては末端も末端の人物だが、彼はちゃんと覚えていた。
「その者がどうした?」
「嫡男セリン殿はどうやら、リコシェ秘書官を姉と慕っているようなのです」
「なんと」
目を丸くしているメディレン公に俺は笑いかける。
「ミンシアナは実弟とほとんど面会しませんでした。理由はわかりませんが、ほぼ全ての面会でリコシェ秘書官が影武者として出席しています」
酷薄どころか弟の命まで狙っていたミンシアナと違い、影武者のリコシェは幼いセリンに優しく接していたそうだ。リコシェには故郷に弟妹がおり、幼い子供に冷たくするなどできなかったのだという。
そのため嫡男セリンはリコシェにとても懐いている。
「その後リコシェ秘書官は自分の身元を明かしましたが、セリン殿は幼すぎて事情がよくわからなかったようです。まだ五才ですから、『お姉ちゃんの名前と服装が変わった』ぐらいの認識なのでしょう」
俺の説明にメディレン公は微笑んだ。
「心温まる話だ。身分や血が違えども姉弟なのだな」
「はい。セリン殿はリコシェ秘書官を今も慕っており、リトレイユ公の目を忍んで交流を続けています」
「ふーむ」
目を閉じてしばし考え込むメディレン公。
「ではリコシェ秘書官に相応の待遇を与えねばな。『姉』がメディレン家で厚遇されていると知れば、セリン殿も好感を持とう。リコシェ秘書官を一代貴族に任じるか」
俺は彼が何を考えているのかわかってしまった。
この世界の君主たちは自らが身元保証人になることで、平民を一代限りの貴族に叙任することが可能だ。
ただし乱立を防ぐため、五王家では帝室のみがその権限を行使するという暗黙の了解がある。
メディレン公が俺を一代貴族に叙任すれば、数百年におよぶ帝国の慣習を破ることになる。明確な反逆行為と受け止められるだろう。
だから俺は苦笑して言う。
「今後は殿下のことを『陛下』とお呼びすべきでしょうか?」
「甘美な響きだな。だがそのための準備が必要だ」
やっぱりこの人、「メディレン王」として帝国東部に君臨するつもりだ。
右を向いても左を向いても悪党しかいないぞ、この国。
メディレン公は表情を引き締める。
「もはや帝室に力はない。それでも帝国の政治は五王家の誰かが担わねばならぬ。私が帝国の新たな屋台骨となろう。クロムベルツ少佐よ、貴官の知謀で私を本当の王にしてくれ」
そう言って彼は俺に頭を下げた。
彼の表情や仕草が半分演技だというのはわかっているのだが、それでもこうやって真摯に頼まれるとグッと来てしまうな。会話の運び方といい、人心掌握が本当に巧い。
それにメディレン公は帝国で五指に入る実力者だ。その人物から頭を下げられては断れない。
アルツァー准将の顔をちらりと見ると、軽くうなずいている。敬愛する上官殿の裁可も下りたことだし、協力しよう。
「お任せください閣下。帝国よりマシな国を作るためなら、小官は人生を賭して尽力いたします」
真面目に答えたつもりだったが、メディレン公は大笑いした。
「ははは! 確かにな! どうせ壊すならもっとマシな国にせねばならぬ。良い国を作って子々孫々まで繁栄するとしよう。頼んだぞ、クロムベルツ少佐」
国家的陰謀に首までどっぷり浸かってしまった……。
* * *
【流血海の王】
アルツァー准将とクロムベルツ少佐が退出した後、メディレン公ハーフェンは会議室でしばらく佇んでいた。
(帝国よりマシな国、か……)
目を閉じて黙考するハーフェン。
(確かに私が知る帝国は酷いものだ。生活に苦しむ民衆に怨嗟が満ち、その矛先が我ら貴族に向けられている。帝室が隣国と戦争を続けているのも、近年では不満を逸らす意味合いが強い)
窓のない防諜会議室の壁には、精緻な「世界地図」が掛けられている。最盛期の帝国領を中心とする周辺世界だ。数千キラム彼方の交易地や、帝室すら所持していない流血海の全容も描かれていた。
それをじっと見つめてハーフェンは考える。
(帝都陥落で貴族の間には動揺が広がっているはずだ。この混迷を逆に好機と為し、メディレン家が歴史の覇者となれば痛快であろうな。不要な戦が止めば、皆が今より豊かに暮らせよう)
メディレン公は極秘書類を取り出す。
書類の表紙には、メディレン家に伝わる秘密の文字で「メディレン王国独立案(帝国分割案)」と書かれている。
メディレン公はその書類を一枚めくり、人事欄の空白部分にこう記した。
――初代宰相、ユイナー・クロムベルツ・メディレン。
「うむ。義理の叔父が転生者というのも面白い」
満足げにうなずいたメディレン公だったが、ふと不安そうな顔になって再びペンを手にした。名前の下に小さく書き加える。
――※本人が受けてくれれば。




