第82話「帝冠は帝都に」
【第82話】
* * *
【帝冠は帝都に】
今日も皇帝の元に報告が入る。
「陛下、ミルドール領と帝室直轄領の境界にてブルージュ軍の活動が活発になっております。参謀本部の分析では大規模な攻勢の準備中ではないかと」
「ミルドール公はそれを看過しておるのか。帝室直轄領は帝国の聖域であるぞ。なんと嘆かわしい」
側近たちは無言だ。
誰も「ミルドール公はブルージュ公と手を組んだんだから、看過どころか援助してるんじゃないですかね?」などとは言わない。
この皇帝はそういう類の助言を好まない。
「やはりミルドール公とジヒトベルグ公に親書を送り、翻意を促すしかあるまい。両名とも五王家の一員、本心では帝国への思慕の念があろう。両公が戻ればブルージュなど恐れるに足りぬ」
すると帝室侍従武官がやんわりと制した。彼は退役した老将軍だ。
「お言葉ですが陛下、それだけはおやめください。陛下のお言葉は両公の心に慈雨のごとく染み渡りましょうが、もはや両公の意志ひとつでは旗幟を動かせぬのです」
「しかし彼らの意志なくしては帝国はあるべき姿を取り戻せぬ」
「それは……」
皇帝に直言できる侍従武官といえども、その先は言えなかった。
――皇帝ペルデン三世が在位している限り、彼らが戻ってくることは決してない。
その代わりに侍従武官は奏上する。
「物事には手順がございます。まずは近衛師団がブルージュ軍を撃退できるよう、惜しみない助力をなさいませ」
「そうであったな。帝室の財産にて戦費を調達いたせ。兵糧や弾薬など不足のものがないか、近衛師団本部に聞いて参れ。前線に送り届けるのだ」
「陛下の御深慮に感服いたしました。ただちに手配いたしましょう」
心なしかホッとした表情になり、侍従武官は恭しく一礼した。
数日後、次の報告が入る。
「帝室直轄領の要塞が攻撃を受けております。前線への輸送で兵が手薄になっている隙を狙われました」
「死守せよ。何としても守り抜くのだ。敗北は許されぬ」
厳かな、指示のようで指示ではない発言。
だが将校たちは何も言わない。この皇帝に戦争指揮能力があるとは誰も思っていないからだ。
さらに次の報告。
「要塞と兵糧弾薬を敵に奪取されました。防衛線を後方の要塞まで後退させます」
「ならぬ。すぐに奪い返せ」
「承知いたしました。最善を尽くします」
退出した将校が廊下で深い溜息をついていたことに、皇帝は気づかなかった。
そして次の報告。
「帝室直轄領の門閥領主たちが救援を求めております。領地がブルージュ軍に脅かされているそうです」
「近衛師団はどうなっておる?」
「ブルージュ軍は火砲を巧みに操り、我が軍は防戦一方にございます。割ける兵はございませぬ」
「ではそのように伝えよ」
このとき皇帝は、独立した砲兵科すら持たないブルージュ軍が巧みに火砲を操っている不自然さに気づかなかった。
もし気づいていれば正しい選択肢を選べたかもしれない。
しかし歴史に「もし」はない。
また次の報告。
「帝室領を預かる門閥領主たちが次々にブルージュ側に寝返っている模様です」
「なんという恩知らずだ。この戦が終わり次第、処罰を下さねばなるまい。それよりもブルージュ軍はまだ撃退できぬのか」
「前線では将軍たちが最善を尽くして奮闘しております」
「うむ、よい」
報告。
「陛下、ブルージュ軍は帝都ロッツメルまでわずか半日の距離に迫っております。もはやここは危険です。どうかお逃げください」
「それはできぬ。『帝冠は帝都に』が帝室の伝統である。早く敵を撃退せよ」
「御意……」
「無論、余も座視はせぬ。ミルドール公とジヒトベルグ公に親書を送ろう」
「前線に向かわれた侍従武官殿が、それだけはおやめくださいと重ねて申しておりましたが……」
「捨てておけ。侍従武官が余を使うのではない。余が侍従武官を使うのだ。帝国は五王家が共に力を合わせるのが正しい姿である。余の説得があれば二人とも必ずや正道に立ち返るはずだ」
そして次。
「昨日から軍からの報告が途絶えておるな。戦況はどうなっておる」
すると侍従長が申し出る。
「帝都の将校たちの大半が欠員補充で前線に出払っておりまして、なかなか報告が参りません。おそらくかなり苦戦しているのではないかと……」
「我が近衛師団は精強にして忠実な、帝国最強の師団ではないのか?」
「もちろんにございます。しかし敵がそれ以上に強ければ敗れます」
「侵略者に敗れるような我が近衛師団ではないはずだ。他家の援軍は来ぬか?」
「リトレイユ家はアガン軍との交戦中ですし、メディレン家は流血海で航路を守っております。どちらも援軍の余裕はございませぬ」
「承知しておる。ミルドール家とジヒトベルグ家はどうなのだ? 翻意して戻ってはこぬか?」
「それは……」
そこに新たな「報告」が、足音高く駆け込んでくる。
「申し上げます! 南西より帝都に接近する軍勢が確認されました! 軍旗はジヒトベルグ家です!」
「おお、来たか!」
皇帝は立ち上がる。
「すぐに使者を送れ! 余は貴公を待ち望んでおったとな!」
「は? ……ははっ!」
すぐに使者が帝都を発つ。
このとき、皇帝の周囲には上級将校が一人も残っていなかった。
経験豊富な侍従武官たちも与力として前線の近衛師団に出向しており、帝都には近衛師団の尉官が連絡将校としてわずかに残されているだけだった。帝室門閥の下流に属する彼らに発言力はほとんどない。
使者が戻ってくる。
「ジヒトベルグ公より返事を頂戴してきました。『我、ただ正義を行うのみ』とのことです!」
「そうか、うむ。正義を行うとな。では安泰だ」
軍事とは無縁の侍従長が、恐る恐る皇帝に問う。
「近衛師団や他家に救援を要請しますか?」
「必要あるまい。この帝冠ある限り、帝都は守られる」
翌日には帝都のすぐ近くにジヒトベルグ公の軍勢が現れた。かつては第二師団だった部隊だ。
「ようやく『人差し指』が帰参したか。これまでの離反は赦そう」
満足げにうなずいた皇帝だったが、近衛師団の新米少尉は青い顔をしている。
「陛下、何か変です。キオニス遠征によって壊滅的な損害を受けた第二師団に、あれほどの兵力があるとは思えません」
「それこそがジヒトベルグ公の誠意と能力の表れだ。そなたはまだ若いゆえ、そういった機微がわからぬのであろう」
皇帝は自分の命じたキオニス遠征の話題を意図的に避けた。
「それよりも城門を開けて軍勢を迎え入れよ」
「お待ちください、陛下! 軍勢の動きが妙です! 行軍隊形から包囲隊形に展開しています!」
少尉の言葉通り、ジヒトベルグ軍は帝都ロッツメルを半包囲する形で布陣を始めた。
皇帝も初歩的な軍学は修めており、その陣形の意味するところはすぐに理解する。
「なんということだ!? おのれジヒトベルグ! 正義を行うという言葉は嘘だったのか!」
その場にいる全員が無言だ。
(ジヒトベルグ公は「正義を行う」としか言ってないんだよなあ)
(彼にとって陛下は親の仇も同然だからな。キオニス遠征で先代が死んだのは、陛下の命令が原因だ。親の仇討ちは正義だろ)
(あーあ、ハズレクジ引いた……)
侍従や将校たちが何となく顔を見合わせている間、皇帝は絶望の表情で天を仰いでいた。
「正義は! 正義はいずこにあるのか!」
醒めた目でチラチラと目くばせする側近たち。
(少なくともここにはねえよ)
(ダメだこりゃ。ジヒトベルグ軍に投降するか……)
(そうだな。当代当主は穏和な人物らしいし、同じ安息派だから悪いようにはしないだろ)
彼らは一刻も早くこの場を立ち去りたくて、なんとか退出する理由を探している。
その間、暗黙のやり取りは続く。
(いや待て、包囲される前に逃げるのも手だぞ)
(そうだな。口頭で命令を受領したことにして、どさくさ紛れに逃げるか)
(逃げるとしたら東だな。リトレイユ領かメディレン領か)
(そんなもんメディレン領一択だろ? あそこには「死神クロムベルツ」がいる)
(昇進して今は少佐だったよな。何とかしてくれそうだな)
やがて帝都を包囲するように大砲が並べられる。狙いは脆弱な城壁だ。近衛師団の参謀たちの意見書通りだった。
しかしその後の展開は、意見書通りにはならなかった。
最初の砲弾が城壁を叩き壊すよりも早く、帝都の城門が開いてしまったからだ。
皇帝の最初の命令がそのまま実行されてしまったのか。それとも内通者がいたのか。
誰が開いたのか。
誰も知らない。
* *




