第81話「必至の皇帝」(地図あり)
【第81話】
* * *
【必至の皇帝】
「勅命を蹴ったと申すか」
シュワイデル帝国皇帝ペルデン三世は理解できないといった様子でつぶやいた。
「ありえぬ。帝室侍従武官にしてやると確かに伝えたのであろうな?」
紋章官は深々と頭を垂れる。
「間違いなく伝えております。かの者、アルツァー准将にひとかたならぬ恩義を感じており、その恩義に報いるまでは離れられぬと申しておりまして」
「うむ、忠義の者よな。そう申されては無理強いもしづらい」
ペルデン三世は腕組みし、ソファに腰掛ける。
「しかし帝都ロッツメルの近くまでブルージュの軍勢が迫っておるのだ。帝国軍人ならば馳せ参じるのが当然であろう?」
「ははっ、まことに畏れ多いことで」
何がどうとは言わないのが宮廷で長生きする秘訣だ。紋章官はよく心得ている。
一方、ペルデン三世は苛ついた様子で首を振っていた。
「ええい、もうよい。知恵を貸さぬ参謀には頼らぬ。近衛師団を帝都防衛に招集せよ」
「近衛師団の主力は国境地帯の警備に就いているはずですが……。まさか呼び戻すのでございますか?」
「そんなことはわかっておる。わかっておるが、その……ううむ、五王家にも援軍を要請せよ。リトレイユ家はどうした?」
「リトレイユ家と第五師団は、アガン軍の南下を食い止めるために臨戦態勢でございます。むしろ援軍を要請されているのはこちらでして」
紋章官の言葉にペルデン三世は拳を振り回す。
「では、ではメディレン家だ。第四師団を呼べ」
「第四師団の主力は海軍でございますし、リトレイユ領を守るために出撃中です。陸軍の大半はアルツァー准将の第六特務旅団に編入されました」
「そうであったな……。ならば帝室を守る兵はどこにいる?」
紋章官は頭を垂れたまま答えた。
「どこにもおりませぬ。後はもう傭兵や農民兵を徴募するしか……」
「それで勝てると思うのか?」
「それがしは紋章官ゆえ、お答えしかねます」
ペルデン三世は「ふーっ」と荒く息を吐くと、紋章官に告げた。
「もうよい、下がれ」
「ははっ」
恭しく一礼して紋章官が下がり、ペルデン三世は一人になる。
「どうすれば良いのだ……」
彼の机上には、近衛師団参謀本部からの具申書と門閥貴族たちからの陳情書が積み上げられていた。
参謀本部からは一時避難の具申。
「帝都は包囲される恐れがあり、帝都城壁は発達した火砲に対して脆弱であるため危険。帝都防衛は近衛師団に任せ、陛下は他家と連携を取りやすい東部で外交と内政を執り行うのが最善」という分析が添えられている。
一方、門閥貴族たちからは「我々を見捨てないでほしい。『帝冠は帝都に』が我が国の大原則であり、皇帝が帝都から離れれば我々は命を懸けて戦えない」という陳情。
帝都ロッツメルに拠点を構える豪商やフィルニア教ロッツメル教区大神官など、貴族以外からも同様の嘆願が届いている。
いずれも一理あり、ペルデン三世には判断がつきかねていた。
廷臣たちの間でも立場や考え方の違いから意見が分かれている。
「どうすれば良いのだ……」
決められない皇帝はソファにもたれかかり、やがてうとうとと居眠りをし始めた。
* * *
「軍人としての訓練を受けていない皇帝なんかいてもいなくても変わりませんので、帝都にいない方が楽ですね。身辺警護が面倒ですし」
俺はそう答えつつコーヒーを飲む。
「ただ政治的には皇帝の避難は大きな意味を持ちますし、軍の士気にも影響するでしょう。まあ大事なのは帝室の存続であって皇帝の命ではありませんから、陛下には帝都で死ぬ覚悟を決めてもらい、皇太子殿下を東部に避難させるのがリスク分散になると思いますよ」
「お前は皇帝の命が大事ではないのか」
アルツァー准将は呆れ顔で激甘コーヒーを飲み、それから苦笑した。
「だが面白い。もっと話を聞かせてくれ」
「もちろん皇帝陛下にも一人の人間として幸福を追求して頂きたくはあるのですが、逃げたいのなら譲位してからですね。皇帝が逃げたら士気が下がり、門閥領主たちが降伏してしまいます。この国では帝冠は動かせません」
俺たちの机の上にはシュワイデル版将棋である「五王棋」の盤が置かれている。駒も配置されていた。
五王棋マニアのハンナが用意してくれた盤面だ。よく知らないけど歴史的な対局の再現らしい。かっこいいな。よく知らないけど。
「この盤面と同じです。『皇帝』の駒がここから一歩でも動くと、護衛する『近衛』や『門』との連携が断たれて自陣が崩壊します。逃亡が破滅につながるんですよ」
俺はコーヒーを飲み、それから溜息をつく。
「俺たちが逃避行をしている間、帝都では政治的な動きが何もありませんでした。信じられません。あの皇帝はアホです」
「おい、不敬参謀」
准将が笑いながら俺の額とツンとつつく。大変だ、鉄拳制裁されてしまった。
もっとしてくれ。
俺は笑いながら続ける。
「ブルージュ公が新しい国境に沿って軍を展開したとき、すぐに皇太子や重臣を東部に派遣して統治システムを構築させるべきでした。非常時ですから簡単な指揮系統で構いません。東部にあることが重要です」
「ふむ」
「その後で皇太子に譲位し、『帝冠は帝都に』の原則に従って新帝を帝都に呼び戻してもいいんです。自分は先帝として東部に移り、皇太子が構築したシステムを使って政治を続ければいい。誰からも文句は出ません。ただ皇太子殿下が気の毒ですから、個人的には父親が在位して帝都に残れと思いますね」
「確かに合理的な案だ。時間はかかるが、その猶予はあった。しかし今はもうない……と。そういうことだな?」
「その通りです。こうすれば帝都が陥落しても東部の政治機能で戦い続けられますから、ブルージュ公も無理はせずに外交決着を図ったかもしれません。もう手遅れですが」
策なら他にもあった。ミルドール家などの外交ルートを通じて交渉を始めても良かったし、同じ安息派のエオベニア王国に支援を求める選択肢もあった。
だが誰も何も提案しなかった。皇帝に決断力も指導力もなく、彼がすぐに責任を発案者に押しつけるからだ。責任を取らない最高責任者なんか役に立たない。
「正直、あの爺さんにしてやられましたよ。山岳地帯で逃げ回ってる間にこんなに状況が悪化してるとは思いませんでした」
あのとき帝都方面に脱出できていたら、皇帝に拝謁して今の案を具申できていた。もちろん俺たちはそのまま東に逃げるが、策ならいくらでも考えてやる。
「俺は参謀としては三流です。目の前の戦いにはどうにか勝てますが、いつも知らないところで負けています」
「それは将軍たちの仕事だからな。少佐のお前が悩むことではない。気にするな」
直属上官が気にするなと言っているので、俺は気にするのをやめる。
『皇帝』の駒を指でつつきながら俺は言った。
「この盤面はもはやひっくり返せません。あと数手で詰みます」
准将はフッと笑う。
「では次の対局を用意せねばな。駒と違い、私たちの人生は続く」
「そうです。俺たちは人生を続けねばなりません」
「そうだな」
准将が力強くうなずいたので、俺も同じぐらい力強くうなずき返す。
「旅団の皆の人生のために策を尽くしましょう」
「……そうだな」
急に渋い顔になった准将が、ズズッと音を立ててコーヒーを飲んだ。
なんなのもう。




