第80話「薬指の王」
【第80話】
「本職の工兵の仕事は丁寧だな」
俺は急斜面を滑り落ちていく白い奔流を見下ろしつつ、感心しながら腕組みした。やはりあの爺さん、いつも良い仕事師を集めてくる。人を見る目は確かだ。
おそらく他の山岳猟兵たちも選り抜きだったんだろう。まともに戦わなくて正解だった。
「参謀殿、准将閣下がお呼びです」
ここまで登ってきた伝令の子がハアハア言いながら敬礼してきたので、俺も答礼で返す。
「すぐ行く。わざわざすまないな」
「だ、大丈夫です。すぐ呼んでこいと閣下が……それはもう……」
息を切らしながら彼女が言うので、俺は苦笑する。
「少し休むといい。みんなと一緒に降りてきてくれ」
俺が百メートルほど下って山道に戻ると、アルツァー准将が待っていた。
「無事で何よりだ。上からの追撃はなさそうか?」
「そうですね。途中に断崖があるので、山頂側からの迂回は不可能です。追撃はもうないと思っていいでしょう」
前世の登山家なら装備と技術で攻略してしまうかもしれないが、こちらの世界の登山用具はどれも素人の手製だ。それに猟兵たちは重い銃と弾薬を携行している。
ライラたち山育ちの面々に聞いたところ、全員から「無理です。死にます」と簡潔なお返事を頂いたので、それを信じることにする。
「さて、ここからはエオベニア領にいったん抜けて、そこからまた帝国領に戻ります。戻ったところで補給を受けられるよう、以前から第四師団とは連携していますので。……大丈夫ですよね?」
「そこで心配するな。私を誰だと思っている」
第四師団を擁するメディレン家の一員。現当主の叔母上だ。
准将は馬にまたがるとバッとマントを払いのけ、一同に号令をかけた。
「諸君の働きのおかげで、一兵も失うことなく窮地を脱した! だがまだ目的地に着いた訳ではない! ベッドで寝られる生活を取り戻すために、今しばらく歩みを続けろ!」
みんな准将のことを慕っているので、表情がキリッと引き締まる。
いいぞ、さすがは俺の准将閣下だ。
准将は満足げに兵士たちを見回した後、俺を見てふと怪訝な顔をする。
「なんでそんなに嬉しそうなんだ?」
「嬉しそうですか?」
「娘の成長を見守る父親みたいな顔をしているぞ。そういう目で見るな」
そんなこと言われても……。
* *
こうして俺たちはエオベニア領にちょっとだけ失礼して、翌日には無事に帝国領に入った。エオベニア領でも多少のトラブルはあったが、ここからはもう敵襲を警戒する必要もない。
辺境の山村で補給を受けた後は街道をのんびり行軍し、俺たちは無事にメディレン領の城塞都市パッジェに到着することができた。
そして今、俺は再び人生最大の正念場を迎えていた。
「貴官がクロムベルツ少佐か。我が叔母をよく支えてくれたそうだな」
パッジェ要塞の会議室で俺を見ているのは、五王家の「薬指」メディレン家の当主だ。
四十代半ばだが宝飾品や礼服を自然に着こなしており、ジヒトベルグ公やミルドール公弟と比べるとオシャレだ。
さぞかし海上交易で潤っているのだろう。武人というよりは敏腕経営者といった印象で、物腰は穏やかだ。
しかし不思議な威圧感がある。さすがは五王家の当主というべきか。
「失礼、先に名乗らねばな。私がメディレン家当主、ハーフェン・シャハー・モンツォ・ユン・ポルトリーテ・アウグレン・ゼッツァライヒ・メディレンだ。……いや待て、何か抜けているな」
威圧感が一瞬で消え、その辺にいそうなおっさんになった。親しみやすいぞ。
「まあよいか。このような長い名は貴官には滑稽であろう。『薬指』のハーフェンとでも呼んでくれ」
「お心遣い感謝いたします。それと正式な名乗りを頂いたのは生まれて初めてです。大変光栄です」
貴族は偉くなればなるほど名前が長くなる。家系だの地位だのを示すのに必要だからだ。
もちろん長すぎて不便なので、正式な名乗りは家督継承などの儀式でしかやらない。
逆に言えば、この親しみやすいおっさんは俺との面会に儀式と同等の格式を示してくれたことになる。
だから礼を言っておく。
するとメディレン公はフッと微笑んだ。
「やはり機微を解するか。さすがは叔母上の見込んだ男ですな」
メディレン公の隣に座っているアルツァー准将が渋い顔をする。
「『叔母上』はやめていただきたいのですが、ハーフェン殿?」
「良いではありませんか。うちの子たちも『大叔母様』と呼んでおります」
「シュライト殿は私よりも年上ですし、マリエ殿やメルク殿も私とそう変わりません」
家族ぐるみで仲が良いらしい。ほっこりしてきた。
しかしさっきの名乗り、さりげなく俺を試していたのか。こういうところは非常に貴族的だな。まあでも褒められたので悪い気はしない。
年下の叔母とのやり取りの後、メディレン公はこちらに向き直った。
「貴官の忠誠と能力はよく知っている。少なくとも五王家に知らぬ者はいないだろう」
そんなに。
「敵地から無事に叔母上を連れ帰ったことで、貴官には借りができた。普通ならミルドール家に頼んで身柄を引き渡してもらうしかないところを、旅団ごと堂々の凱旋だからな。まったく大したものだ」
そう言われると照れくさい。
少し気が緩んだ俺だったが、メディレン公はスッと目を細める。
「それも転生者ゆえ、かな?」
おおっと……。
フィルニア教安息派にとって、生まれ変わりは信仰の否定だ。生まれ変わりを認めているのは転生派で、ここがどうしても妥協できないらしくて対立している。
公の場で転生者だと名乗れば異端審問直行だろうが、これは非公開の会見だ。
それに俺が転生者だと知っているのは、アルツァー准将ただ一人だ。彼女がメディレン公に教えたのだろう。
准将が俺を陥れるようなことはしないから、素直に認めてしまって大丈夫だ。
「そうです」
その瞬間、メディレン公の表情が変わった。
「ほう……。転生者と認めるか」
「准将閣下からお聞きになったのでしょう。ならばいちいち隠し立てする必要はありません。時間の無駄です」
そう答えるとメディレン公が苦笑する。
「その通りだが、即答する判断力と度胸が凄まじいな。筋金入りの強者だ。貴官ほどの男を小隊長にしていた第五師団は見る目がない」
それからメディレン公はアルツァー准将を振り返る。
「この者、恐ろしいほどに有能ですな。転生するだけで人間の力はこれほどまでに高まるものでしょうか?」
「この男の場合、転生する前から有能だったと思いますよ。本人は決して認めませんが」
変な誤解が発生しているので訂正しておこう。
「前世では平民の子でも十年以上、ほぼ無償で学業に専念できます。その違いでしょう」
「羨ましい世界だ。だがそんなに賢い平民たちを統べるのは大変そうだな。私には自信がない」
メディレン公はまた苦笑した。
「いいだろう。貴官の器量と前世の知識、紛れもなく本物だ。旅団ごと第四師団に来るがいい。旅団に相応しい規模の兵を与える。参謀少佐に相応しい待遇もな」
受けちゃっていいのかな。
ちらりとアルツァー准将を見ると、彼女は少し呆れていた。
「ユイナー、なぜそこで躊躇う。さっさと承諾しろ。転生者だと認めることよりも重大な決断か?」
「小官にとってはそうです。閣下のお側を離れたくありません」
すると准将の顔が真っ赤になる。
「心配しなくても私がお前を手放す訳がないだろう。お前を師団本部になどやるものか。何を言い出すかと思えばまったく馬鹿馬鹿しい」
めちゃくちゃ早口だな。
まあいいや、准将やみんなと一緒ならどこでも行く。
「准将閣下にお仕えすることが小官の望みであります。それさえ叶えられるのでしたら、いかようにでもお使いください」
「肝の据わった男だな。なるほど、ジヒトベルグの若君が惚れ込む訳だ。よかろう。では第四師団に転属し、メディレン家を支えてくれ」
「はっ!」
メディレン家は准将の実家だからな。できる限り力になろう。
* *
俺たちはメディレン家の庇護下に置かれることになったが、旅装を解いてパッジェで休息している間に妙な雲行きになってきた。
皇帝の使者が来たのだ。
それも俺のところに。
「皇帝陛下から直々の招聘です。それも近衛師団への転属ではなく、帝室侍従武官です。国家規模の戦略について皇帝陛下に助言する立場ですぞ。御存知でしょうが待遇は将軍と同格です」
使者を務める貴族階級の紋章官は「どうだ嬉しいだろう」と言わんばかりの表情で俺を見ていた。
確かに嬉しいし、昔の俺なら喜んで拝命していただろう。なんせ侍従武官は兵を率いて戦場に行く必要がない。
皇帝に直接会って物を言う立場なので身分も相応に高くなり、儀礼上は将軍たちと同格の扱いを受ける。
平民としては最高の地位だろう。
だから俺は紋章官に丁重に返事した。
「大変光栄なことです。しかし小官は第四師団への転属が内定しております。お引き受けしかねます」
「第四師団……?」
紋章官が首を傾げる。
「皇帝陛下は貴官を高く評価しておいでです。それを無下にして第四師団に行かれるというのですかな?」
「小官はそのような器ではありません。どうか御容赦を」
丁重かつ断固としてお断りさせていただく。俺はアルツァー准将と一緒に仕事がしたいんだ。他国への無謀な侵攻なんてクソみたいな仕事ではなく、もう少しマシな仕事を。
紋章官は渋い表情で俺をじっと見つめる。
「これは勅命です。勅命に従えぬのなら、本当の辞退理由をお伺いせねばなりますまい」
俺は軽く笑う。
「お答えすれば不敬罪に問われましょう」
ますます渋い表情になる紋章官。
彼とてバカではない。帝室の使者を任される程度には信任されている人物だ。
俺が皇帝に対して畏敬の念を持っておらず、帝室侍従武官という役職に魅力を感じていないのはとっくに理解している。
紋章官はしばらく黙っていたが、最後に大きく溜息をついた。
「えー……では建前でよろしい。差し障りのない理由を頂戴したく」
「承知しました。アルツァー准将に恩義を感じており、この難局を切り抜けるまでお支えせねば武人の誇りに傷がつきます。まあ難局を切り抜ける頃には帝国は滅びているでしょうが」
紋章官は額に手を当てて嘆息する。
「最後のは聞いておりませんので、前半だけお伝えしておきます。余計なお世話でしょうが貴官は正直すぎる」
「同感です。准将閣下に見いだされるまでずっと少尉のままだったのも、たぶんそういうことなのでしょう」
俺が笑うと紋章官も苦笑した。
「やれやれ、正直すぎて憎めない御仁だ。陛下が何と仰るかはわかりませんが、個人的に御武運をお祈りしております。帝国が滅びたときにはこちらで雇ってください」
「ありがとうございます。その旨、メディレン公にお伝えしておきます」
なんだこの会話。
だがこの様子からすると、帝室直属の紋章官ぐらいになると帝国滅亡の不安を感じているのだろう。外交官として多くの機密情報を握っているからだ。
やはり帝国は危ういか。だとしたら次の手を考えないとな。
俺は帰りかけている紋章官に声をかける。
「では今後のことを踏まえた上で、少しお願いがあるのですが」
「おや、なんなりと」




