第74話「消えた旅団」
【第74話】
俺は山間部の集落で旅団のみんなを休憩させつつ、折りたたんだ地図を広げていた。
「エオベニアとの国境地帯にもブルージュ軍が展開していたのは、少々予想外だったな」
「お前にも予想外ということがあるのだな」
白い息を吐きながらアルツァー准将が微笑んでいるので、俺は黒パンを頬張りながらうなずいておく。
「当然です。予想が当たったことの方が少ないぐらいですよ。ただし」
「ただし?」
俺は黒パンを水で流し込むとニヤリと笑ってみせた。
「予想が外れても問題ないようにしておくのが参謀ですので」
「頼もしいな。では今回も安泰か」
「安泰からは程遠い状況ですが、まあ何とかしましょう」
俺は地図を指でなぞる。
「どのみち街道を南下し続ける予定はありませんでした。街道を通ってエオベニア側に出てしまうと、一瞬でエオベニア軍に捕捉されます」
「エオベニアは帝国と同じフィルニア教安息派の国だが、逆に言えばそれだけの関係でしかないからな。同盟国ではない」
「ええ。事前に話を通す余裕がありませんでしたから、エオベニア軍に見つかると少々面倒です。そこで山岳地帯を踏破する訳ですが……まあ見つかると面倒なのはこれも同じですね」
この時代の領土は、都市という「点」と、それを結ぶ航路や街道といった「線」で構成されている。
城壁に囲まれた都市の周辺には農村が散在しており、農村から先には君主や軍の力は及ばない。人が住んでいないからだ。
もちろん山岳地帯にも炭焼き職人や木こり、猟師などがいる。あと修行者や山賊もいる。ただいずれも世間から距離を置いて暮らしているので、領主に通報したりはしないだろう。たぶん。
打ち合わせ中の俺たちの周囲では、第六特務旅団の子たちが同じように黒パンを食べていた。出発前にありったけ焼いておいた貴重な黒パンだ。
酸っぱくてボソボソしてて未だに食べづらい主食だが、雑穀入りで栄養だけはある。しばらくこれで食いつなぐことになるだろう。
俺は昼飯を済ませると、軍服についた雪を払って立ち上がる。幸い、積雪は大したことない。
「さて、敵もこちらの動きを捕捉した頃合いでしょう。中隊規模の歩兵と砲兵では包囲されたら終わりですので、そろそろ雲隠れといきましょうか」
タイミング悪く、うちの上官は黒パンを口に放り込んだ瞬間だった。目を白黒させて咀嚼し、苦労して飲み込む。
「あ、すみません閣下」
「いや大丈夫だ。水をくれ」
素朴な木のマグカップで冷たい水を飲み干した准将は、口元を拭いながら俺に問う。
「雲隠れはいいが、この山を登るのか?」
「軍人や農民にはわかりませんが、ここはエオベニア方面に抜ける登山ルートの入り口だそうです。ラーニャ下士補が言っていました。あまり雪が積もらないので冬でも歩きやすく、山賊や獣の危険も少ないそうです」
准将は納得したようにうなずく。
「旅楽士だった彼女は、関所を迂回する秘密の抜け道にも詳しいだろう。メディレン領でも通行税を払わない連中が多くてな」
「ははは」
帝国貴族の力は強大で、あらゆるインフラを掌握している。そして通行税を課し、さらに力を蓄える。
だが平民は平民で逞しい。あらゆる方法で税を回避し、わずかな力を温存する。
この国は……いや、支配者と民衆はどこでもそういうものだ。
「ジヒトベルグ公はこの抜け道を知っているのか?」
「知らないか、知っていて黙認しているかのどちらかでしょうね。ちなみにここの領主は知った上で黙認しています」
これは説明するまでもないだろう。准将はすぐに言葉の意味を理解した。
「エオベニアからの旅人がここを通れば、街道から外れた何もない村に金が落ちる。人員を割いて取り締まるぐらいなら、黙認する代わりに村の顔役連中から上納金でもせしめた方が得だ」
「御慧眼です」
うちの上司は話が早くて助かる。
「そのせいか、この村にはなぜか立派な雑貨屋と酒場があります。いずれも経営者は領主の元使用人です」
「ははは、それなら安心だな。領主も荒事は望むまい」
准将はそう笑った後、不意に表情を引き締めた。
「だがそうなると、このルートの存在は『公然の秘密』ということになる。長居は無用だ」
「同感です」
俺はうなずき、准将に報告する。
「この登山道は馬は通れますが馬車はさすがに無理です。雑貨屋で事情を話して格安で売り払いました。馬車馬の一部は売らずに残しています」
「荷駄は必要だからな。ところで野戦砲はどうするつもりだ?」
「あれは軽いので馬車馬に直接牽引させてはどうでしょうか。敵に渡す訳にはいきませんので、運べなくなったら破壊して雪か藪に隠しましょう。あくまでも人員の生存が第一です」
「わかった、それでいいだろう」
兵士は戦闘に必要な装備を持ち歩くため、そこらの登山者よりも生存力が低い。重い銃は杖としては使いづらいし、ポーチに詰めた弾薬は食べられない。
だから無理はさせられない。
「地元民の話では、当面の天候は穏やかで遭難の危険はないそうです。とはいえ山の天候は急変しますので、備えは十分にしておきました」
前世はインドア派だったんだけど、今世はインドアどころか住む家にすら困っていたので、アウトドア経験は豊富に積んでいる。貴族の山林に不法侵入して密猟もしていたので、軍隊に入る前から野営にも慣れていた。
本当は前世の知識で楽をしたかったんだけど、人生ってなかなかうまくいかない。
俺は周囲をざっと見回し、みんなの食事があらかた済んでいるのを確認する。
「さて、行きますか」
「そうだな。早く野営地に着いて寝よう」
アルツァー准将は立ち上がると、皆に命令した。
「さあ出発だ! 諸君の演習の成果を見せてくれ!」
* * *
【ジヒトベルグ公の苦笑】
「アルツァー准将がいない? しかも第六特務旅団ごと行方不明なのか?」
ジヒトベルグ公は居城の一室で報告を受け、振り返って苦笑いを浮かべる。
「やられました。まさか降伏勧告の使者が着くよりも早く撤収していたとは」
「さすがと言うべきですな」
視線の先では、ミルドール公弟が柔和な笑みを浮かべていた。
彼は兄の元に帰参した後、与力としてジヒトベルグ公と行動を共にしている。ジヒトベルグ公は先代当主の父を喪っており、経験豊富なアドバイザーがいないからだ。
ジヒトベルグ公は軽く溜息をついて前髪を掻き上げる。
「退去の安全と引き換えに少しばかり恩を売るつもりでしたが、こうも鮮やかに撤退されるとは思いませんでした。やはり本職の軍人は動きが違います」
「おおかた例の参謀でしょう。ユイナー・クロムベルツ少佐」
「まず間違いありません。配下の者たちに捜索させているのですが、行方がつかめないのです。エオベニア方面に向かったことはほぼ間違いないのですが……」
ジヒトベルグ公はそう言い、執務用のイスに腰掛ける。
「ブルージュ公の配下が一個大隊ほどエオベニア方面に展開しているらしいので、いずれブルージュ軍が捕捉するでしょう。少数ですが手練れの傭兵団も雇っているようです」
ブルージュ公はフィルニア教安息派のミルドール公やジヒトベルグ公を信用しておらず、連合国家となった今でも情報の共有は不完全だ。
もちろんジヒトベルグ公もブルージュ公には余計なことは教えていない。お互い様だった。
ミルドール公弟は思案の表情を見せた。
「ここでアルツァー准将やクロムベルツ少佐がブルージュ軍の捕虜になっては、我々の描く外交戦略が頓挫しかねませんな。ミルドール家の力で少しばかり撹乱しましょうか?」
「いえ、ブルージュ公は我々を信用していません。何かあれば我々の策謀だとすぐに気づくでしょう。公国の主導権を握るまでは雌伏せねばなりますまい」
「それがよろしいでしょうな。危険を冒すのはもう少し先です」
権謀術数を指南するようにミルドール公弟はうなずく。事実上、彼はジヒトベルグ公の顧問だった。
「ではどうなさいますかな? このままでは中隊規模の戦力しかないアルツァー准将たちが、ブルージュ軍の一個大隊と遭遇してしまいますが」
するとジヒトベルグ公はフッと笑った。
「キオニス騎兵の大軍と渡り合ってほぼ無傷で生還した男が、ブルージュ軍の一個大隊ごときに捕まるはずがありません。けろりとした顔で帝国領に帰るでしょう」
「はっはっは。男の中の男のような貴公が、クロムベルツ少佐の話になるとまるで騎士に恋い焦がれる姫君のようですな」
ミルドール公弟の微笑みにジヒトベルグ公は苦笑する。
「あの男は紛れもなく英雄ですよ。智仁勇全てを備えています。私の将軍にしたかった」
「それは私も同感です。彼が第三師団の参謀本部にいれば、ブルージュの侵攻をはねのけていたかもしれません。もしそうなら帝国の分断も起きなかったでしょう」
ミルドール公弟は溜息をつき、白髪を撫でつけた。
「思えばシュワイデル帝国は、有能な人材を適所に就けられなくなっていたのですな。そのような国が滅ぶのは神の御意志でしょう」
「神の意志、ですか。便利な言葉だ」
ジヒトベルグ公は考え込みつつ、その眼差しを帝国の地図に向ける。
「では神の御意志に従い、敬愛する帝室を滅ぼすしかありますまい。帝室直轄領をブルージュ公にくれてやる訳にも参りません。流血海に通じる道を遮断されれば、我らに未来はありません」
「となりますと、やはり近衛師団は無傷で手に入れたいですな。ブルージュ公とはいずれ一戦交えることになりましょうから」
「はは、恐ろしい御方だ。仇敵と手を組んだかと思えば、その手を切り落とすことを考えておられる」
ジヒトベルグ公は笑うと、不意に真面目な表情をした。
「帝室直轄領を手中に収めたところで、我ら両家だけでは周辺勢力と対抗できません。やはりメディレン家とリトレイユ家を味方につける策謀が必要ですな」
「ええ、そうなります。リトレイユ家はアガン王国の南下に怯えているでしょうから、懐柔は可能でしょう。後はメディレン家ですが、あそこは遣り手揃いで交渉材料に乏しい。『五指』がこれだけ傷ついても『薬指』だけは無傷です」
ミルドール公弟がそう言い、ジヒトベルグ公が後を継ぐ。
「円滑な交渉のためにも、アルツァー准将とクロムベルツ少佐には無事にメディレン領に帰還してもらわねば困る。そうですね?」
「そういうことです。とはいえ今は表立って動けません。彼らの力を信じましょう」
ミルドール公弟は微笑みつつ、イスからゆっくり立ち上がる。
「彼らが動きやすくなるように、私が少しばかりブルージュ公の御機嫌を伺ってきます。何か良い手土産はありませんか?」
「でしたらブルージュ公への親愛の証として、我が領地の適当な鉱山をひとつ差し上げましょう。採掘技師団ごとどうぞ」
「おや、これはまた随分と奮発されますな。よろしいので?」
するとジヒトベルグ公はニヤリと笑う。
「いずれ一戦交えるのでしょう? そのときに取り返せば済む話です。宝石や美術品を贈っても取り返せませんが、手の者を潜ませた自領の鉱山なら造作もありません」
「良いお考えです。頼もしくなられましたな」
ミルドール公弟はにっこり微笑んだ。




