第72話「あなたの友として」
【第72話】
* * *
アルツァー大佐の落ち込みぶりと、その後の妙な機嫌の良さに不安を感じた俺だったが、その不安はどうやら的中したようだった。
「ユイナー。私を母と呼んでみないか?」
「……閣下?」
執務室の机から穏やかに微笑んでいるアルツァー大佐を見て、俺はハンナを呼ぼうか迷う。彼女なら大佐を穏便に拘束できるだろう。
この世界にはまだ精神医学はないが、心のケアの専門家はいるはずだ。今から探した方がいいな。
「待てユイナー。私をそういう目で見るのはよせ。これは真面目な話で、少々込み入った事情がある」
「本当でしょうね?」
「直属上官をもう少し信用しろ。貴官の昇進の話だ。……ちょっと驚かせてみたかったのは謝る」
大佐は頬を赤らめてからコホンと咳払いし、仕事の表情に戻った。
「リトレイユ公の謀反を防いだ功績から、帝室は貴官を少佐に昇進させたいと考えている。ジヒトベルグ家、ミルドール家からも推薦状が来ている。もちろんメディレン家からも送った」
「光栄です」
なんだかポンポン昇進させてくれるな。
だが平民出身の俺はそのままでは佐官にはなれない。明文化されてはいないが、そういう暗黙の内部規定がある。どういう形でもいいから貴族の仲間入りをしないとダメだ。
「しかし閣下、俺は平民ですよ」
「わかっている。そこで貴官に貴族の仲間入りをしてもらおうと思ってな」
「ああ、それで俺を閣下の養子に……」
全然込み入ってなかった。単純明快な話だ。
平民出身でも貴族と縁組すれば貴族待遇を受けられる。一番多いのは貴族との結婚だが、養子になるルートもある。
あるにはあるのだが。
「閣下は独身でしたよね?」
「そうだ。お家騒動の火種を作らぬよう、これからも独身を貫くつもりでいる。だが養子ぐらいは別に構わないだろう。養子になったところで家督の継承権は得られないからな。我が国では信頼できる家臣を養子にすることもある。遺産の管理人としてな」
そういうものか。貴族社会はよくわからんな。
アルツァー大佐はクスクス笑いながら、悪戯っ子のような目で俺を見る。
「どうだ? 私に甘えてもいいんだぞ? 母上と呼んでみろ」
「閣下。俺は転生者ですから、前世分も含めると閣下よりだいぶ年上ですよ」
前世のプライベートな記憶がだいぶ曖昧になっているが、通勤電車に乗っていたことは覚えている。
あれは何色だったかな……確か第六特務旅団の制服と同じ色だから、マルーンの通勤電車だったはずだ。もう覚えていないが。
「閣下は母というよりは娘ですね」
「私の見た目で言ってるだろう、それは」
「いえ決してそんなことは」
大佐の見た目は確かに中学生ぐらいだもんな。初対面の人はみんな不安そうな顔をする。
大佐はふくれっ面をしながら、自分の胸や腰をぺたぺた触っている。
「ミドナもローゼルも『お年頃になれば大丈夫ですよ』と言っていたのに騙された。考えてみれば母上だって、未だに子供と間違われ……」
「その話長くなりますか?」
遮って悪いけど、今は仕事の話を優先してほしい。
大佐もそれに気づいたのか、渋い顔をしながら腕組みする。
「で、どうなんだ? 私の養子になって少佐に昇進するか?」
「やめておきましょう。別に階級は欲しくありませんし」
大佐は珍獣を見るような目をした。
「本気で佐官を蹴るつもりか?」
「大佐の参謀でいられるのなら、階級章の柄なんか何でも構いませんよ」
「無欲にも程がある」
深々と溜息をついた後、アルツァー大佐は俺を真面目な顔で見つめた。
「悪いがそうもいかんのだ。さっきも言ったように、五王家の各家から推薦状が出ている。れっきとした公文書だ。これを蹴られると各家の立場がない」
「俺の昇進なのに俺の自由にならないんですか」
苦笑してみせたが、帝国軍がそういう組織なのはわかっている。昇進すればするほど政治的な意味合いを帯びてくることも承知だ。
「仕方ありません。昇進は呑みましょう」
「相変わらず話が早くて助かるな」
「ですが気になる点がひとつあります」
「なんだ?」
身を乗り出した大佐に、俺は顔を近づける。
「閣下の養子になった後、閣下と結婚できますかね?」
「んなっ!?」
ぴゃっと小さく飛び上がった大佐が、みるみるうちに真っ赤になった。
少々卑怯だが、養子になるのは遠慮させてもらうぞ。こんなちっちゃいママなんて……ちょっと面白いけど、俺と大佐の関係性を誰かに変えられるのはお断りだ。俺たちの関係性は俺たちが決めればいい。
大佐はというと、難しい顔をして小声でつぶやいている。
「さすがに無理だろうな、養子を夫に迎えるのは……。しかし養子になってしまえば一緒に暮らせて同じ墓に入れる訳で、これはもう事実上の婚姻状態なのでは……いや待て倫理的にダメだろう、それは……」
しばらく放っておいても面白そうだったが、大佐をからかうのは本意ではない。代案があるのだ。
「閣下、あの……閣下?」
「なんだ、メディレン家の法務官たちに問い合わせるからちょっと待て」
「そうではなくてですね」
俺は深呼吸をして、あの恥ずかしい単語を口にする。
「俺を閣下のシルダンユーにして頂ければ、問題は解決しませんか?」
きょとんとした後、大佐の顔がみるみるうちに明るくなる。
「ああ、シルダンユーか! すっかり忘れていた! いいな、シルダンユーは!」
会心の笑みで何度もうなずく大佐。やめて、そんな言葉を口にしないで。
「お前はジヒトベルグ公のシルダンユーだし、私のシルダンユーにもすれば格として十分に足りる。ひとつなら大した価値はないが、『五指』の複数からシルダンユーを許された者といえば、当代一流の才人ばかりだからな。よし、お前は今日から私のシルダンユーだ」
だからやめて。
俺の表情を敏感に察したのか、大佐が首を傾げる。
「どうした、名参謀?」
「ええと……」
「もしかして、何かまだ問題があるのか?」
大佐が心配そうな顔をし始めたので、誤解を招かないよう正直に打ち明けておくことにする。
「実はですね、『シルダンユー』というのが、前世の言葉では別の意味を持っていまして……」
「どんな意味だ?」
「知りたいですか?」
「とてもな」
もう仕方ないので、なるべく婉曲的な表現で手短に説明をした。
「説明は以上です」
「そ……そのような職分が存在するのか……異世界は凄いな……」
顔を真っ赤にした大佐がうつむいてしまったので、俺は犯罪者になった気分で視線をそらす。どうすりゃいいんだよ、こんなの。
「ええと、あれだ。お前、そういうシルダンユーにも興味があるのか?」
「それを聞いてどうしようというんですか」
もうやだ。せめて発音が「シュルダンユエ」とか「シルドゥンユフ」とかだったら良かったのに。
ともあれ、俺はこうしてアルツァー大佐の「裏口の友人」となり、ジヒトベルグ家とメディレン家から客分としての地位を得た。
これは両家の外交的なパイプになったことを意味する。もはや「ただの平民」ではない。
愛人にも認められるなど乱発気味の客分待遇だが、五王家の複数の宗家筋から認められたとなれば単なる偶然ではない。
これならさすがに陸軍上層部も昇進を認めるだろう。認めなければ第二師団や第四師団から「うちのボスが認めた人材を認めないつもりか?」と苦情が来る。
どうにも生臭い話だが、栄光あるシュワイデル帝国軍は生臭い組織だから仕方がない。帝国軍に限らず、大きな組織というのはだいたいそうだ。
数日後、帝都から少佐の階級章が送られてきた。これで俺も少佐だ。
同時にアルツァー大佐も昇進した。見慣れない階級章をつけた大佐が苦笑している。
「新しく創設された『准将』という階級だそうだ」
「将官と佐官の間の階級ですか」
「各師団の将軍連中が『孫や娘ぐらいの小娘が将軍になるのは我慢ならん』とゴネたそうでな。将軍に準ずる階級として准将が作られた。私が第一号だ」
帝国軍には大将や中将といった階級がなく、将官は全員「将軍」だ。
この階級は貴族にとっても容易なものではなく、たゆまぬ努力と長年の精勤、そして派閥闘争の末に勝ち取ることができる。
出世欲と権力欲が強いタイプにとって将軍の地位は聖域も同然だから、下手にいじると冗談抜きで反乱を起こしかねない。
俺は溜息混じりに苦笑してみせる。
「呆れた話です。他人の階級などどうでも良いでしょうに」
「そんなことを言うのはお前だけだ、我が転生者よ」
所有格ついてるのが気になるけどまあいいや。
「ともあれ閣下、これでようやく准将閣下とお呼びできますね」
前世の日本でもそうだったが、帝国でも「大佐閣下」とは呼ばない。大佐は旅団長でもあるので「旅団長閣下」とは呼べる。
だが准将になったことで、今後は役職を離れても閣下と呼べる訳だ。尊敬する上司の出世は純粋に嬉しい。
アルツァー大佐……いや准将は呆れた顔をしている。
「お前、自分の昇進には無頓着なくせに、私の昇進は嬉しいのか?」
「当然です」
「今さっき、他人の階級などどうでも良いと言ったのは誰だ?」
「誰ですかそれは」
いいから早く准将の階級章を見せてくれよ。
大佐じゃなくて准将は深々と溜息をつき、それから立ち上がった。
「リトレイユ公ミンシアナの乱は鎮圧したが、国内外の政情はますます不安定になっている。私は准将として難しい判断を迫られることが多くなるだろう。そのとき、お前が私の傍らにいてくれれば心強い。これからも頼むぞ、ユイナー・クロムベルツ参謀少佐」
このまっすぐな信頼が心地良い。異性としても魅力的なアルツァー准将だが、上司としても人間としても魅力がある。
俺は直立不動の姿勢でビシッと敬礼した。
「お任せください、准将閣下。全身全霊をもってお仕えいたします」
「ありがとう」
ちっこい准将閣下はニコッと笑い、俺もつられて笑い返した。
これから帝国はどんどん落ちぶれていくだろうが、俺と准将がいれば第六特務旅団ぐらいは何とか守り抜けるだろう。
だが事態は俺の想像を超えて、急速に悪化していた。
数日後、「ミルドール家残留派とジヒトベルグ家がブルージュ公国に寝返り、新たな国境地帯に所属不明の軍勢が集結しつつある」という通達が帝都から届く。
帝国の崩壊が決定的になった瞬間だった。




