第71話「亡霊と死神」
【第71話】
城壁の尖塔で風に吹かれながら微笑む大佐は、今にも冷たい風にさらわれて消えてしまいそうに見える。
いや、本当に消えてしまう。確信がある。
なぜかわからないが、『死神の大鎌』の能力が発現している。辺りに満ちる死の気配。
だがそれは俺に向けられたものではない。
見えない死神は今、アルツァー大佐の喉笛に大鎌を当てているのだ。
俺が救わなければ。
戦場に立つときの何倍もの恐怖を感じながら、俺は大佐に声をかける。
「リトレイユ公が羨ましい、とは?」
「ああ。お前も見ただろう、検死のときの彼女を」
見た。丸裸にされ、髪を解かれた哀れな彼女の亡骸を。
「俺には無惨な姿に思えましたが」
「私もそう思ったが、同時にひどく羨ましく感じたのだ。命を含む全てのものを手放した彼女は、全ての苦悩からも解放された。どんな苦悩だったかは私にはわからないがな」
まあ確かにそう言えばそうだ。あのときの彼女は全ての因縁から解き放たれて、まっさらな状態だった。
自害した彼女をもう誰も傷つけない。激しく対立していた俺やアルツァー大佐でさえ、死んだ彼女には憐憫の情を覚えた。
アルツァー大佐は尖塔の窓枠にもたれかかりながら、どこか遠い目をする。
「私もいつかああなるのだと思うと、不思議と心躍るのだよ。待ち遠しい気分にさえなる。自分でもあまり健全ではないと思っているのだが、どうにも抑えきれなくてな」
俺は何か言おうと思ったが、うまく言葉が出なかった。
実は俺にも大佐の気持ちがわかってしまったからだ。
あのときのリトレイユ公は全てを失っていた。全てを剥ぎ取られた彼女に、俺は奇妙な美しさを感じた。芸術的というか文学的というか、とにかく無視できない何かがあった。
どう返せばいいかわからなかったので、俺は率直に言う。
「俺もあのときのリトレイユ公は不思議な安らぎに満ちていると思いました」
「わかってくれるか?」
大佐がちょっと嬉しそうに微笑むが、俺は参謀として上司に釘を刺す。
「ですが、それは見る者の主観です。死者は何も考えず、何も感じません。苦しむことはありませんが、安らぐこともないでしょう。生者が死者に意味を見いだすのです。リトレイユ公ではなく閣下自身の心の問題なんですよ」
俺の言葉に大佐は少し不思議そうだ。胸に手を当て、ややうつむき加減になる。
「私の心か」
「ええ。閣下は死に魅入られておいでです」
死神呼ばわりされてる男にそんなこと言われたら嫌だと思うが、大佐は微笑んでいる。
「それも悪くないな」
こりゃ重症だな。
俺は精神科医ではないし、宗教家でもない。ただの軍人だ。
それでもここには俺しかいない。俺が諦めたら死神に大佐を連れて行かれる。
絶対にさせるものか。
大佐がおかしくなったのは、リトレイユ公を自害させたときからだ。彼女の死が大佐の心に影響を及ぼしているのは大佐自身が認めている。
突破口があるとすれば、きっとそこだ。
でも攻略法がわからない。
こんなことなら前世で心理学を専攻しておくんだった。どっちにしようか迷ったんだよな。俺はいつも選択を間違えてばかりだ。
だがリトレイユ公の亡霊なんかに負けてたまるか。俺は死神と呼ばれた男だぞ。
俺は覚悟を決めて、大佐に思いっきり近づく。上司と部下の距離ではなく、家族や友人の距離だ。俺の鈍い嗅覚でも大佐のいい匂いがする。ちょっとドキドキしてきた。
いやいや、今は大佐の心のケアだ。
俺は物憂げな大佐に顔を近づけ、なるべく優しい声で心理的な揺さぶりをかける。
「閣下がお望みなら、今ここで御命を刈り取ってもいいんですよ」
「ふぁ……」
おっ、反応があったぞ! ここが突破口か!
大佐が俺を見上げて硬直しているので、俺はすかさず二の矢を放つ。
「閣下の心をリトレイユ公に奪われるぐらいなら、いっそここで殺めて閣下を永遠に俺のものにしてしまった方がいいかもしれませんね」
死に魅入られているなどと言っても、人間の生存本能は強い。死を目の前に意識すれば、ほとんどの人は生存のための行動を取る。
尊敬する上司を脅かすのは俺としても不本意だが、荒療治で目を覚ましてもらおう。
……と思ってたんだけど、なんか大佐の反応がおかしいぞ。
冷たい風で白くなっていた大佐の頬が、みるみるうちに紅潮してくる。大佐の目にも力が感じられる。
もしかして怒らせちゃったか? まずいぞ、上官への脅迫は重罪だ。
大佐はぷるぷる震えていたが、やがて震える唇からかすれた声が漏れ出す。
「ず……ずるいだろう……そ、そういうのは……」
この言葉、どう解釈したらいいんだろう。わからん。
もしかしたら、いろいろやっちまったかもしれない。
もう仕方ないので肚をくくって微笑んでいると、アルツァー大佐は「ぷはぁ」と大きな溜息をついた。クソデカ溜息だ。怖い。
そして大佐は俺をキッと睨むと、凄みのある表情で迫ってくる。
「お前、そこまで言ったのなら責任は取れよ!?」
何の責任を? たぶん二択なんだろうけど、正解がわからない。どっちだ、どっちの責任なんだ。
わからないけど、撤退可能なタイミングはもはや過ぎた。交戦中に敵に背を向ければ死ぬように、この状況で大佐に背を向けることはできない。
だから答えはひとつだ。
「もちろんです。俺は閣下の参謀ですから」
参謀たる者、自分の発言には最後まで責任を持たなくてはいけない。そうでなければ多くの将兵を無駄死にさせることになる。当然のことだ。
当然の発言をしただけなのだが、アルツァー大佐は急にそっぽを向いてしまった。
「そ、そうか……。ならばよし」
どうやら虎口を脱したようだ。虎の口よりヤバいものに頭から突っ込んだ気がしなくもないが、たぶん気のせいだろう。
その証拠に、アルツァー大佐からは『死神の大鎌』がもたらす死の気配が完全に消えている。俺はリトレイユ公の亡霊に打ち勝ったらしい。ひとまずのところは、だが。
少しホッとしつつも、用心深い俺は大佐に念を押しておくことにする。
「死んだ彼女より、生きている俺の方を見てくださいね」
「……ああ」
大佐は俺にそっぽを向いたまま、ぽつりと答えた。
心配だ。俺は大佐を救えるだろうか……。
* * *
【死神の掌で】
私は執務室に戻る途中、隣を歩く長身の参謀を見上げる。落ち着き払った彼の横顔を見るだけで頬が熱くなる。
あれは……あんなのは反則だろ!?
今でもミンシアナを自害させたことに負い目は感じている。この負い目はたぶん一生消えないだろう。
彼女を自害させることは皇帝からの勅命だったが、誰の命令だろうが関係ない。これは私が墓場まで背負っていく罪だ。
こんな重荷、できればさっさと私ごと墓穴に投げ込んでしまいたい。そう思っていたのだが、我が参謀には全て見抜かれていた。さすがだ。
そしてあの口説き文句。あんな良い声と言葉でドキドキさせられたら、死ぬことなんかどうでも良くなってきた。
「どうされましたか?」
しらじらしく尋ねてくるユイナー。実に心地良い声だ。おまけに顔がいいんだよ、貴官は。どうせ自覚していないのだろう。この無自覚な大悪党め。
私は五王家のひとつ、メディレン家の先々代当主の実子だ。だが現当主の年下の叔母でもある。宗家嫡流にとってあまり好ましくない存在だ。お家騒動の火種だからな。
当然、私に言い寄る命知らずもいなかった。
だがユイナーは五王家の威光など全く恐れない。こいつは異世界からの転生者だからな。
あれから少し話を聞いたが、ユイナーの国には貴族はおらず、平民の代表が要職に就いているらしい。だから彼は他の者と違い、貴族への恐怖心が薄いのだ。
そんなユイナーだからこそ、私にも大胆に接してくる。
そして私は恋愛経験こそないが、書物や演劇で様々な恋物語を見てきた。ロマンスへの憧れも人並みにはある。
さっきのユイナーの態度は、まさに……まさにだ! まさにそれだった。
恋物語の中にしかないと思っていた、殿方からの甘い誘惑。しかも「ちょっといいな」と思っていた、ユイナー・クロムベルツ参謀大尉からの誘惑だ。
あれはまさに、優しい死神。
中世シュワイデル文学の『ウルカの亡霊騎士』の主人公・復讐の騎士ディベルハウトや、『魔弓の狩人』のライバル・黒弓卿イースティンみたいだった。
さっきのやり取りを思い出すだけでクラクラしてくる。
「閣下、まだお加減が良くないようですが」
「いや、むしろ絶好調だ」
私は貴官を一生推挙するぞ。推せる。
だがユイナーは私を案ずるような表情で、妙に優しく言う。
「無理はなさらないでください。閣下は大切な御方です」
「あ、ああ」
無自覚イケメンが殺人的な優しさを無償提供してくれる。ここが安息の地か。だったらわざわざ死ぬまでもないな。
私は大事な参謀を心配させないよう、少し無理をして笑ってみせた。
「私はリトレイユ公の死を抱えて生きていくが、その死に押し潰されたりはしない。心配するな」
「閣下……」
ユイナーが心打たれたような顔をしている。この男は本当に表情豊かだ。
地獄の業火に焦がれるミンシアナには悪いが、私はまだまだそこへは行かないつもりだ。
ここには私に優しくしてくれる、素敵な参謀がいる。




