第69話「ただひとつの名」
【第69話】
大佐を慰めているつもりだったのに、いきなり転生者だと言われた俺はさすがに戸惑う。
なんでわかったんだ!?
まずい。フィルニア教安息派は転生を認めていない。転生者だとバレたら異端審問だ。たぶん火あぶりになる。
とはいえ、別に信心深い訳でもないアルツァー大佐が俺を告発するとも思えない。そんなことしても何の利益にもならないしな。
落ち着け俺。これはたぶん……そう、きっと何かの隠喩だ。あるいは冗談。
すると大佐は俺に顔を近づけながらこう問う。
「クロムベルツ大尉。貴官はエチピアル産のコーヒー豆がどうやって熟成されるのか、知っていたな? あの独特の香りが生じる原因も」
「はい。まあ、想像ですが」
するとアルツァー大佐は不自然なほど優しく微笑む。
「エチピアル産コーヒー豆の香りはコーヒー商人たちの七不思議のひとつだ。輸入を仕切るメディレン家や仲買人のフィニス商人たちも、あの独特の風味がなぜ生じるのか知らない。貴官はなぜ知っている?」
しまった。
いやでも前世のエチオピア産のモカコーヒーはそうらしいし、名前も香りもそっくりだから熟成法も同じだって思うよな!?
俺の思考は前世の知識に引っ張られる。アルツァー大佐のミドルネームとかシルダンユーとかで半笑いになってたら、思わぬところで足元をすくわれた気分だ。
とにかくこの場を切り抜けないと。
「いやまあ、想像ですので……」
「シュワイデル人はコーヒー豆のことを何も知らない。そういえば私は、コーヒー豆が蔓に実るのか木に実るのかさえ知らないな」
「木ですね」
しまった。知ってることを全部しゃべりたい欲求に負けてしまった。
アルツァー大佐は獲物を仕留めた猟師みたいな顔をした。
「よく知っているな。貴官は実に博識だ。私の参謀にふさわしい」
まずい。まずいぞ。
アルツァー大佐はさっきまでの落ち込みが嘘のように、微笑みながらじわりじわりと近づいてくる。
なんでそんなに楽しそうなんだよ。
「やはり貴官、前世の記憶を持つ転生者か何かだろう?」
「そんなもの存在しませんよ。あんなものはフィルニア教転生派の妄想です」
俺はその、あれだ。敬虔な安息派教徒ですので。
だがもちろん、大佐の猛攻は止まらない。
「私を甘く見るなよ、ユイナー・クロムベルツ。貴官が私の参謀になった瞬間から、私は貴官の正体を探っていた。その知的な言葉、優しい眼差し、どこか蔭りのある横顔。何一つ見逃さないようにしてな」
それじゃまるでストーカーだよ。やめてくれ。
「路上暮らしの平民出身なのに、まるで高等教育を受けた者のように知的な言葉。無数の悪意と侮蔑に曝されてきてなお、他者に向ける優しい眼差し。誰にでも向ける笑顔とは対照的に、孤独なときに見せる蔭り。貴官は矛盾の塊だ」
おっと、意外とちゃんと見られていた。
「貴官は帝国領からほとんど出たことがないのに、まるで世界の全てを見てきたかのように多くを知っている。幼少期から路上生活をしていたはずだが、立ち振る舞いや考え方に品がある。平民なのに古式ゆかしい騎士たちの戦場剣術を使う。自分でもおかしいと思わないか?」
おかしいかおかしくないかで言えば、そりゃおかしいよな。
「思います」
「だろう?」
あっさり負けた。俺、もしかして参謀に向いてないんじゃないだろうか。
いやいや、これは本来なら異端審問直行だぞ。
しかしアルツァー大佐は腰に手を当てて満足げにうなずいただけだった。
「ようやく認めたな。だが積年の疑問が解決して満足だ。今後も頼りにさせてもらうぞ」
あれ? 今までの会話は何だったんだ?
「閣下」
「なんだ?」
「小官の素性を調べなくてもいいんですか?」
「ん、調べてほしいのか?」
意地悪な笑みを浮かべるアルツァー大佐。からかうような視線に絡みつかれ、俺はドキッとしてしまう。
彼女はソファにもたれかかり、長い黒髪を背もたれに流す。
「貴官の誠実さと能力は知っている。今後もそれは変わらないだろう。これ以上、何を詮索する必要がある?」
つまり彼女は、俺の正体が何であろうが俺を信じて今後も参謀を任せると言っているのだ。
そんなに信頼されているのか。
すると大佐は前髪を弄びながら、ちょっと照れたように笑った。
「ま、本当は貴官の正体を知るのが怖いのだがな。転生者ならまだいいが、噂通り本当に死神だったら怖いなと思ったものだ。だがそう信じたくなるほどに、貴官は生と死の岐路をよく知っている」
大佐にまで死神だと思われるのはちょっと嫌だな……。
どうしようか迷っていると、大佐は気弱に微笑んだ。
「貴官の正体は言わなくていい。だがもし死神だったら、私の最期は看取ってくれ。貴官が連れて行ってくれるのなら、地獄の道行きも楽しかろう」
「なんでそんなことを……」
すると大佐は視線を落とす。
「私はリトレイユ公の……ミンシアナの最期を看取った。あの悪女め、私の手を握ったまま幸せそうに逝ったよ。私もいつか地獄に落ちる。そのときはせめて、あんな風に穏やかに看取ってもらいたい」
なんか胸が苦しくなってきた。
「閣下のように心美しい方は地獄になど行きません。もし地獄行きなら小官もお供します。閣下のいない世界に転生しても退屈でしょうから」
「転生?」
俺は転生以来、絶対に秘密にしようと誓ってきたことを口にする。
「俺は転生者、前世の記憶を持ったまま生まれ変わった者です。それもこことは全く異なる世界の住人で、文明としては三百年ほど進んでいました」
あーあ、言っちゃったよ。異端の告白だ。
アルツァー大佐は目をまんまるにして、俺の顔をまじまじと見上げていた。口が半開きなのが可愛い。そんな表情は初めて見た。
この顔を見られただけでも、危険を冒す価値はあったな。
しかし大佐が驚いていたのは一瞬だった。やがて心の底から嬉しそうな顔をすると、大佐はコホンと咳払いをする。
「なるほどな。それが事実なら全ての疑問が綺麗に解決する。突拍子もない話だが論理的だ」
「そんなに簡単に信用しちゃっていいんですか?」
すると大佐は顔を赤らめて、やや早口で返す。
「だってお前が言うことに嘘は一度もなかっただろう。こんな真面目な話をしているときに、お前が嘘をつくはずがない」
いつもの「貴官」ではなく「お前」と呼ばれているのが何だか面白い。相当慌てているな。
じゃあ俺も一人称変えちゃおうっと。
「俺だって閣下に嘘なんかつきませんよ。前世の俺がいた国は日本。剣術も学問もそこで学びました」
大佐は珍しく躊躇するような口調で、ぼそりと問う。
「名前は?」
「名前ですか?」
「お前の本当の名前だ。……知りたい」
可愛いこと言う人だな。
だが俺は頭を掻く。
「記憶がだんだん薄れているせいで、自分の名前が思い出せません。サイトウとかマツイとか、それっぽいのがいくつか思い浮かぶんですが、どれが自分の名前だったのかわからないんです」
これは本当だ。俺自身の実体験と、本などで得た知識との区別が曖昧になっている。転生以降、両者の境界線がどんどんぼやけていた。
俺の本名も「名前だけ知ってる人」のリストの中に埋もれてしまったようで、もはや区別できない。
俺は苦笑してみせる。
「だから俺はユイナーです。日本には漢字という表意文字があって、漢字だとこんな風にも書けますね」
俺は手帳に「唯名」と書いてみせた。
大佐が呟く。
「ずいぶん四角い文字だな……。表意文字ならキオニス文字と同じか。確か文字そのものに意味があるのだろう?」
「はい、これは『ただひとつの名前』ぐらいの意味です。もうこれでいいでしょう」
「なるほど、それはちょうどいいな」
クスクス笑う大佐。
「では私の参謀はニホン生まれのユイナーだった訳だ。それを知ったところで何かが変わる訳ではない。これからも私のそばにいてくれ」
「はい、誠心誠意お仕えします」
俺は敬礼した。
なんだか変なタイミングで、しかも拍子抜けするほどあっさりとカミングアウトできちゃったな。肩の荷が下りた気分だ。
そう思っていると、アルツァー大佐がハッと思い出したように質問してきた。
「とっ、ところでユイナー!」
「なんでしょうか」
「お前、前世では恋人はいたのか? いや、もしかして既婚者……?」
それ聞くの?
俺は跪いて大佐の手をそっと取り、微笑んでみせる。
「あいにくとさっぱりモテませんでしたので、妻はおろか恋人すらいませんでした」
「そうか! それは残念だったな!」
大佐の表情がパアアッと明るくなった。もう少し残念そうに言ってほしい。
アルツァー大佐はふんふんと鼻歌を歌いつつ、とてもいい笑顔になった。今にも小躍りしそうだ。
すっかり元気になったようだな。告白して良かった。
「お前が三百年も先の学問や技術を知っているのなら、これまでの活躍も納得できる。今後はますます頼りにさせてもらうぞ、ユイナー」
俺は膝をついたまま、苦笑して敬礼する。
「これからも変わらずお役に立ちますよ、閣下」
すると大佐も苦笑した。
「ありがとう。だが少しは変わってほしいのだがな」
「そうなんですか?」
何か不満があるなら言ってほしい。
しかし大佐は溜息をつき、俺の制帽を取って頭をくしゃくしゃ撫でた。そして制帽を乱暴に被せてくる。
「そういうところをだ」
だから何を!?
こうして俺は初めて、深い秘密を共有する仲間を得たのだった。
政情はどんどん怪しくなってきたけど、この仲間を守るためにも頑張ろう。




