第66話「リトレイユ公の最期」
【第66話】
* * *
【空っぽの小瓶】
私は今、運命の岐路に立たされていた。
目の前の悪党……リトレイユ公ミンシアナの処遇だ。
彼女の前で報告書を読み上げる。
「先ほど、クロムベルツ大尉から早馬で報告が届いた。ベリューンの廃城に向かっていた第五師団の反乱軍を迎撃し、入城を阻止したそうだ。反乱軍将校たちの大半は射殺され、一部は捕虜となって尋問を受けている」
ミンシアナの顔色は悪い。唇が微かに震えているのは、あながち演技でもないだろう。
「まさか……。そんなはずはありません。嘘はおよしなさい」
「別に貴公が信じる必要はない。好きにすればいい。だがこれで貴公の手札は全て失われたことになる」
ミンシアナは即座に反論する。
「軍事力ばかりが私の力だとでも? 私はリトレイユ家の当主なのですよ」
「その件だが、貴公はもうリトレイユ公ではない。ただのミンシアナだ」
「それはどういう……」
私は事実のみを彼女に伝えた。
「貴家には皇帝の助言があった場合に当主を引退させる規定があるそうだな。リトレイユ宗家は皇帝ペルデン三世の助言に基づき、貴公を当主不適格と判断した。今後は実弟のセリン殿が家督を継承し、貴公の父君が後見人を務める」
「まさか!? 嘘です! そんな規定など聞いたことも……」
そう言いかけて彼女はハッとする。
私は小さく溜息をついた。
「そうだ。貴公も私も、そういった『隠された掟』を知らない。私たちは嫡男ではないからな」
五王家の次期当主となる者は、幼少期から貴族社会の知識を叩き込まれる。
その中には最高機密となる『隠された掟』も含まれる。たとえ当主の実子であろうとも、家督継承者と見なされていなければ教えられることはない。
「当主の地位を剥奪する方法など広く知られては困るからな。貴公のような者には教えないだろう。お家騒動の火種になるだけだ」
「そんな……」
ミンシアナの顔は真っ青だが、それでも私は言わなければならない。
「明日、父君が『迎えの者』をよこす。表向きはそれで領内の山荘に送られることになっている」
「ま、待ちなさい! 父が私を生かしておくとは思えません!」
「その通りだ。貴公は故郷に帰るが、生きて帰る訳ではないだろう。まあ死去の公表は半年ほど置いてからになるだろうが」
「なっ!?」
リトレイユ公ミンシアナは病気か何かで弟に家督を譲り、故郷の山荘で療養するも惜しまれつつ逝去した。そういうことになる。
別に彼女の名誉のためではない。リトレイユ家の名誉のため、そして帝国貴族社会の秩序を守るためだ。
「そのような無法、決して許しませんよ」
「許さなければどうだというのだ。既に皇帝もリトレイユ家も貴公を見放した。第五師団も貴公の子飼い将校どもを粛正し、反ミンシアナ派が返り咲く。ベリューン城の傭兵たちは支払いの見込みがなくなって解散した。終わりだ」
ここにいるのは何の権力も持たない、私と同い年のただの娘だ。
「後は貴公がいつこの世を去るかだが、皇帝陛下はなるべく早く逝去して欲しいと思っているらしい。護送中に逃げ出されないよう、処刑してからリトレイユ家に引き渡すことになった。私が銃殺隊の指揮を任されている。夜明け前に終わらせろとのことだ」
もはや言葉も出ないのか、顔面蒼白になっているミンシアナ。
私は彼女のことが嫌いだし、この女のせいでキオニス遠征軍二万人が死んだことを許すつもりはない。
だがやはり心が痛む。一人の人間として同情する気持ちは消せない。
それでも任務は任務だ。私は私の務めを果たさねばならない。
「とはいえ、陛下とて五王家の前当主が平民の兵士に撃たれるのを心苦しく思っておられる。貴公は平民嫌いだからな。そこでこれを預かっている」
私は机上に小瓶を置いた。
「これは大変貴重な薬で、一切の苦痛なく眠りながら逝けるらしい。皇帝から直々に死を賜るなど、近年では希なことだ。誇っていいぞ」
「冗談じゃないわ!」
ミンシアナは逆上して立ち上がった。
「私が嫡男だったら、こんなことにはなってなかったでしょうに! 女に生まれただけでこんな目に遭わされて! 貴方も女なのに何も思わないの!?」
「思うことはある。だから私は実家を離れて軍人になり、階級の力でどうにか世間を渡ってきた」
貴族の女に生まれれば、政略結婚の道具になるしかない。それが嫌なら俗世を捨てて神殿で暮らすか、私のように軍人としてお飾り部隊の長になるか。
いずれにせよ選択肢はほとんどないだろう。
「だが貴公は貴族の身分を甘受し、何不自由ない生活を送った。クロムベルツ大尉のように道端のパン屑を拾い、石畳で眠ったことなど一度もあるまい。生まれの不幸ならクロムベルツ大尉の方が遥かに上だ」
私はミンシアナを睨みつける。
「私と部下たちは砲弾の下をくぐって砦を死守し、砂塵にまみれながら異教徒の騎兵と殺し合った。大事な部下を四人失ったぞ。全員女だ。女に生まれたことを呪う貴公が、その呪いで同じ女を殺したのだ」
「何を言っているのです? 死んだのは平民でしょう? 同じではありませんよ」
何が悪いのか本当にわからないという顔をしているミンシアナに、私はもう怒る気も湧かなかった。
この女にどんな言葉を尽くそうが何も伝わらないのだろう。話し合うだけ無駄だ。
そう思わせてくれた彼女に感謝する。おかげで心の痛みが少し薄れた。
「ではこの問題は男女ではなく貴賤の対立だな。貴公を撃ちたい兵士は大勢いるから、銃殺隊は多めに用意した。楽に死ねるだろう。これから処刑を執行する」
私が机上の小瓶に手を伸ばすと、ミンシアナは叫んだ。
「待ちなさい! リトレイユ家の当主が平民に……それも獣のように銃で撃ち殺されるなど、許されないことですよ!」
私は小瓶を手に取ると、それをミンシアナに差し出した。
「なら皇帝から賜った死を持って逝け」
ミンシアナは額に汗を浮かべながら、机上の小瓶を凝視する。
「私が……これを……」
「これが貴公にできる最後の選択だ。処刑か自害か好きな方を選べ」
「で、ですが……。ところでクロムベルツ大尉はどこです?」
「ここにはいない。あの男の優しさに縋ろうとしても私が許さん。貴公は彼を謀殺しようとしたからな」
あの男は優しすぎるから、不可能だとわかっていても「死んだことにして隠棲させられないか」などと検討するだろう。
だがそれは軍人として許されない行為だ。我々軍人は殺すべきときには必ず殺さねばならない。
クロムベルツもそれはわかっているから、結局は任務を優先させる。そして割り切ることができずに心に傷を負う。そういう男だ。
私の参謀は優しすぎるからな。
「死神クロムベルツ」の異名など、彼の本質を何ひとつ表現できていない。
だから私がこの女の死神になる。
「貴公がこれを飲むなら最期まで見届けよう。その程度の慈悲と義理はある」
「の……飲めばいいのでしょう、飲めば……」
目に見えて震えながら、ミンシアナは小瓶を手に取った。
凝った細工のガラス瓶は、まるで香水瓶のようだ。この女の最後を彩るには相応しい小道具かもしれない。
ミンシアナは食い入るように小瓶を見つめ、震える指で封を切る。息が荒い。
「全部……飲めばいいのですか?」
「その方が確実だろうな」
同情していい相手ではないとわかってはいるが、それでもやはり可哀想になってきた。自害を強要されるなど、彼女の性格では耐えられない屈辱と恐怖だろう。
だが私の死んだ部下たちは、死を受け入れる猶予すらなかった。
憐憫の情を強めぬよう、私は敢えて非道な笑みを浮かべてみせる。
「貴公は静かな部屋でソファに腰掛けたまま死ねるのだ。私の部下たちは冷たい砂の上で死んだぞ」
「平民と一緒にするなんて、あなたはどうかしているわ……」
ミンシアナは小瓶を手にまだ震えていたが、私が腰のサーベルに手を伸ばした瞬間に慌てて飲み干した。
「んっ……うぐっ……」
毒薬の瓶を一気に飲み干し、その瓶を絨毯の上に投げ捨てる。
「の、飲みましたよ! さあ私の覚悟を讃えなさい!」
「……そうだな。それは認めよう。やはり貴公は貴族だった」
ここで自棄になられても困る。礼儀として一応褒めておく。
解毒薬も治療法も敢えて作られなかった『皇帝の毒薬』だ。今すぐに毒薬を吐き出しても間に合わない。
ミンシアナの死は確定した。彼女はもうすぐ死ぬ。
ミンシアナは冷や汗で全身びっしょりと濡れていたが、やがて視線を彷徨わせながらフラフラと立ち上がる。
「この部屋でなら、どこで死のうと同じなのでしょう? せめて休みたいわ」
「寝台に行くか?」
「そうですね……」
ミンシアナは天蓋付きのベッドに横たわる。私は彼女の肩を抱き、それを介助した。道連れにされないよう、攻撃を警戒しながらだが。
汗に濡れた前髪を払い、仰向けになったミンシアナがつぶやく。
「死ぬのね、私……」
「苦しくはないか?」
「ええ。ただ少し、息苦しい気がしますわ」
それを裏付けるように、ミンシアナの呼吸がハアハアと荒くなってくる。
ふと気づくと、ミンシアナが私を見ていた。今までに見せたことのない、すがるような目だ。
「怖いの……。逝くまで、手を……手を握っていてくださる……?」
私の部下たちを死なせておいて、そんなことをよく頼めたものだ。
だがそれを拒むだけの強さは私にはなかった。
渋々ではあるが無言で手を握る。
「わ……私の、最期の見届け人が、五王家の……だなんて、悪くな……」
ようやく意識が薄れてきたようだ。このまま眠りに落ちれば、安らかに最期を迎えられるだろう。
大勢の人間の人生を狂わせてきた大悪人だが、無駄に苦しめる必要もない。
「ねえ、アルツァー……」
「なんだ」
「もし、生まれ変わったら……今度は友達に……なってくださる……?」
お断りだ。
そう思ったのに、全く違う言葉が口から出た。
「私の言うことを素直に聞くのならな」
無意味な約束だ。フィルニア教安息派には生まれ変わりなどない。死後の行き先は冥府の安息の地と決まっている。
だがミンシアナは童女のようにあどけなく笑った。
「ありがとう……じゃあ良い子にする……。踊り疲れてとても眠いわ……ちょっと寝て、目が覚めたら……冬離宮のお庭を散歩しましょう……砂糖菓子もいっぱい……」
意識が混濁して昔の夢を見ているのだろうか。
ふと視線を床に向けると、空っぽの小瓶が月光に濡れていた。
リトレイユ宗家の家督を奪い取り、戦乱と政争の果てに彼女が得たものがこの毒薬の小瓶ひとつだ。
愚かとしか言いようがないが、これが彼女の望んだ人生だったのだろうか。
そうだ。彼女に聞いておきたいことがあった。
「貴公はなぜ、わざわざ当主の座を奪った? あれほどまでに権力に固執した理由は何だ?」
返事はなかった。彼女は二度と醒めぬ眠りに落ちていたからだ。
それからしばらくすると、微かに上下していた胸も止まる。
絡めていた指がほどけて、するりとシーツに落ちた。
「……おやすみ、ミンシアナ」
私は制帽を被り直し、典医たちを呼ぶために立ち上がった。




