第62話「影裏に消ゆ」(地図あり)
【第62話】
各地に張り巡らされた監視網によって、リトレイユ公が本領から動き出したことがつかめた。帝都入りの少し前に影武者のリコシェと合流するようだ。
場所は帝室直轄領。リトレイユ公と懇意の豪商から、帝都近くの山荘をしばらく借り上げるらしい。
「五王家の一員ではあるが、改めてその力の凄まじさを感じさせられるな」
アルツァー大佐が苦笑しながら頬杖をつく。
「この国で成り上がるには、五王家のいずれかには接近せねばならない。それは貴族だけでなく、軍人でも商人でも同じことだ。だから全ての成功者は五色のいずれかの色に染まる」
親リトレイユ派の資産家なんて真っ先に監視対象になっていたから、リトレイユ公の動きはすぐに他家に察知された。
もちろんリトレイユ公側も最大限の隠蔽工作を行っていたが、さすがに残り四家の諜報力には勝てない。今回は山荘に近いミルドール家の情報網に引っかかった。出入り業者の噂話をつかんだのだ。
この国で五王家を敵に回すとこういう目に遭う。だから誰も逆らえない。
「怖いですな。小官はメディレン家の色でしょうか」
「そうあってほしいものだな。貴官に去られては困るから、もっとしっかり染め上げておこう」
大佐の冗談はときどき本気に聞こえるから困るんだよな。曖昧に笑っておく。
あんまり冗談ばかり言ってられない。これから俺たちも出立だ。俺史上最大の作戦に従事することになる。成否がどうなろうとも歴史に残る大作戦だ。
大佐もそれはわかっているので、スッと真顔になる。
「リトレイユ公の兵力を確認しておきたい」
「今回は皇帝との秘密会談ですから、麾下の第五師団は表向きは動かせませんし、動かす必要もありません。ただ実際には領内の兵がいくつか動いているようです」
俺はついさっき入ってきた報告も含め、卓上の小さな地図にマーカーを置いた。
「リトレイユ公子飼いの大隊長たちが、兵を率いて帝室直轄領との境界に移動しています。確認できたのは歩兵三個大隊、およそ千五百名。名目は演習や巡回警備となっています」
「実際にはもっといそうだな」
「全ての動きを把握できている訳ではありませんから、当然いるでしょう。騎兵も動かしていると見るのが妥当です」
騎兵の動きは察知しづらい。騎馬より早く情報を伝達する方法が限られているからだ。
「確認できた三個大隊は別個に動いていますが、おそらくどこかに集結するでしょう。リトレイユ公は呼び出しが罠だった場合を考慮し、この兵力を領内への撤退に使うはずです」
「戦列歩兵千五百では近衛師団の追撃を防ぐには全く足りないな。時間稼ぎにもならないだろう。やはりもっと動いているとみるべきか」
チェスや将棋と違って、盤上にどれだけの駒が存在するのか俺たちにもわからない。見えているのが三個大隊というだけの話だ。
ただ、ある程度の予測はできる。
「リトレイユ公の子飼いになっている将校はリストアップしています。彼らが動かせる兵を
総動員したとしても一万には届きません。若手将校ばかりで階級が低く、抜擢された今でも大半がまだ大隊長や中隊長です」
近世にもなると軍隊にもいろいろな行政上のルールが増えてくるので、王侯といえども勝手な人事はなかなかできない。子飼いの部下を昇進させるのにも順序というものがある。
彼女の子飼いは若手の貴族将校たちで、まだ尉官が多い。連隊や旅団を率いる階級ではない。五百人ほどの大隊を指揮するのが限界だ。
アルツァー大佐が微笑む。
「あの女に時間を与えなかったのは正解だったな。あと数年放置すれば子飼いの将校たちが佐官になり、指揮する兵が格段に増えていただろう。それで、こちらの対応はどうなっている?」
「表立って兵を動かせないのはこちらも同じです。ほんのわずかな気配も見せられませんから、全ての師団が通常通りの動きをしています。例外は我々だけですね」
第六特務旅団は行軍演習の名目で、ほぼ全兵力が出動する。
「全軍の行動に大きな変更はありません。ただ閣下の指揮を離れて独立行動を取る部隊が多いため、予期しない事態が発生したときは対処が困難です」
俺の説明に大佐がうなずく。
「不安は残るが仕方ないな。即時通信できる魔法の鏡でもあれば別だが」
あるんだよな。科学のスキルツリーを伸ばしていって電信技術を取ればの話だけど。
今は考えても仕方ないので、俺は軽くうなずいておく。
「各部隊には適任の下士官を割り当てています。彼女たちに任せましょう」
もちろん作戦失敗時には速やかに帰投できるよう、判断基準と撤退手順を伝達しておいた。最悪の結果になったとしても兵の大多数を生還させることが最低条件だ。俺は参謀だからな。
大佐はうなずくとコートを手にした。
「矢は既に放たれた。私にできることといえば、せいぜい二の矢を手挟むことぐらいだ。貴官も矢筒を持ってついてきてくれ」
「はっ」
俺は敬礼すると、ちっこい大佐にコートを羽織らせた。こういうのは参謀じゃなくて当番兵の仕事だが、みんな忙しいので俺が着せておこう。
小学校に行く娘にコートを着せてるお父さんみたいだな。
と思った瞬間、大佐がじろりと俺を見上げた。
「今何か、とても失礼なことを考えているだろう?」
「いえ何も。ちゃんと袖を通してください、閣下」
「ぶかぶかなんだよ、これ」
「袖まくってあげますから」
やっぱり学校指定のコートを着せてるみたいだ。
* * *
【影裏に消ゆ】
「ふう……」
リコシェは広々とした部屋の片隅で、そっと溜息をつく。
今日は変装を解いているので、護衛は二人だけだ。どうせリコシェの監視も兼ねているのだろう。
侍女たちも本物のリトレイユ公に付き従っており、ここにはいない。
(気楽でいいけれど、御前が何を考えているのかが気になる)
ジヒトベルグ領での調略工作中にリトレイユ公の急な呼び出しを受け、帝室直轄領の山荘で任務の経過報告を行った。
『調略は順調です。既に三名の重臣から内応の確約を得ました』
『そうですか』
『ただ、彼らの態度からは裏切り者に特有の必死さが感じられません』
『裏切り者の心理に詳しいのですね?』
微笑みの中に紛れる殺意を感じつつ、リコシェはこのときも冷静さを失わなかった。
『調略に応じるのは追い詰められた者だけですので』
『確かに。では調略は一時中断し、お前は別命あるまでここに残りなさい』
『はい、御前』
このやり取りの後、リトレイユ公は山荘を発ってどこかに行ってしまった。
どこかの貴族か資産家の別荘なのだろう。山荘には使用人たちもいるが、リトレイユ家の者ではない。リトレイユ家の使用人といえば、無口で無愛想な衛士が二人だけ。
(最近付けられたあの二人、私と同じように素性を偽っている者の気配がする)
貴族が召し抱える衛士には二通りある。
ひとつは「私はこんなに大勢の護衛を引き連れている」というステータス誇示のための衛士。
彼らは若くて長身で顔立ちが良いが、戦士としての技量はほとんどない。平民でも構わないので安く雇える。
もうひとつが実用的な衛士で、こちらは歴戦の古強者たちだ。
多くが騎士や郷士の家系で、幼少期から厳しい鍛錬を積んでいる。銃はもちろん、乗馬や剣術も達者だ。礼儀作法も心得ている。数は少なく、特に忠誠心の高い者は替えがきかない。
今ここにいる衛士二人はおそらく後者だが、変装の名手であるリコシェには微妙な引っかかりがあった。
(わずかに猫背気味なのが気になる。剣術ではなく格闘術寄りの足運び。鉄兜を目深に被る癖も、顔を隠したいように見える)
もちろん猫背でレスリング名人の騎士もいるだろうし、顔にコンプレックスを持っている郷士だっているだろう。
だがひとつひとつの小さな違和感が積み重なった結果、リコシェは彼らに警戒心を抱くようになっていた。
(名誉ある戦士の階級でないとすれば、名誉なき戦士の階級。傭兵か暗殺者だろうか。ずっと私に付けられているということを考慮すれば、可能性が高いのは後者)
本職の殺し屋二人に監視されているとすれば落ち着かないが、影武者の宿命だ。受け入れるしかないだろう。
そのとき、不意に部屋の外が騒がしくなった。
「なんだ?」
「わからん、見てこよう」
衛士たちがドアを開いた瞬間、銃を持った兵士数名がなだれ込んできた。
「動くな!」
そう叫んだ声は若い女性のものだ。そして特徴的な深い赤茶色の軍服。
リコシェ自身も目を疑ったが、間違いなく第六特務旅団の女子戦列歩兵だ。
衛士たちが自分に向き直ったのを見た瞬間、リコシェはソファの陰に伏せながら叫ぶ。
「そいつらを撃って!」
「えっ!?」
「どういうこと!?」
リコシェは第六特務旅団の兵士たちに対して「この衛士たちを撃って」と頼んだつもりだったが、気が動転して言葉足らずになってしまった。
リコシェの立場や状況を考えれば、衛士たちに対して「この侵入者を撃って」と頼んだように聞こえるだろう。
内心でしまったと思ったリコシェだったが、頭上に乾いた銃声が響く。
「ぐあっ!?」
「何をしてる、総員撃て! そいつらの仕事は口封じだ!」
男の悲鳴と、それに続く女性の号令。誰かがドサリと倒れる音が聞こえ、さらに銃声がいくつも覆い被さる。
恐る恐るソファから顔を覗かせると、衛士に偽装した暗殺者たちが床に倒れていた。至近距離から数発の銃弾を浴び、既に事切れている。
ホッとしたリコシェの前に、凜々しい顔立ちの女性下士官が立った。
「リコシェだな? リトレイユ公の影武者の」
「そうです。あなたは?」
するとその女性軍人はリコシェに敬礼した。
「私は第六特務旅団所属のライラ下士補だ。あんたを保護するよう命令されている。この山荘は制圧したが、長居は無用だ。すぐに仕度を」
事情がわからないリコシェは呆気にとられてしまったが、ライラの顔には見覚えがあったので彼女を信用することにする。リトレイユ公の衛士が射殺される非常事態になった以上、今までのように影武者を務めることはどのみちできない。
「わかりました。……でも、なぜ急に?」
ライラ下士補は流れるような動作でマスケット銃に弾を込めながら、そっけなく答える。
「私だってわからないよ。ああ、参謀殿から伝言を預かってた」
ライラは銃を担ぐとこう告げる。
「『君は君に戻れ』だってさ。意味わからんけど」
「私は私に……」
その言葉を噛みしめ、不意に目頭が熱くなるリコシェ。
「お、おい。どうかした?」
ライラが動揺するが、リコシェは目頭を拭って笑いかけた。
「なんでもありません。仕度なんか結構、早く行きましょう」
たとえ這いずってでもクロムベルツ大尉のところまで辿り着いてやる。
密かな決意を秘めつつ、リコシェは笑ってみせた。
* * *




