第56話「裏切者たちの斜陽」(地図あり/再掲)
【第56話】
リトレイユ公の影武者・リコシェを味方に引き込んだことで、俺たちはリトレイユ公の詳しい状況を知ることができた。
「現リトレイユ公ミンシアナは、弟が生まれる五年前までは先代の一人娘だった。五王家の宗家では男系相続が伝統なので、彼女の叔父や従兄弟たちが継承候補になっていたようだ」
リコシェが帰った後、夕日が差し込む旅団長室でアルツァー大佐はそう話す。
俺も国内政治の基礎知識として知ってはいるが、貴族社会は秘密や裏事情が多いので深くは知らない。
大佐は続ける。
「だが妙なことに彼女の叔父は急死し、従兄弟たちも次々に当主の座を辞退した。何が起きたかは誰も知らないが、我がメディレン家ではミンシアナの政治工作があったと考えている」
証拠を残さないのが彼女のやり方だという。
ただ、強引なやり方は当然のように反発を生む。
「彼女の父は自分の代で女系になってしまうことをひどく嫌がったそうだ。だが他に継承権を持つ者がいないことから、仕方なく娘に家督を譲った。有力家臣や一門衆たちの一部が猛反発したらしいが、当主の決定では従うしかない」
俺はそれを聞いて、ふと疑問を抱く。
「もしかして彼女に歳の離れた弟がいるのは、先代当主の対抗策ですか?」
「だろうな。適当なタイミングで姉から弟に家督を譲らせれば、リトレイユ家は男系のまま存続していくことができる」
五王家の持つ権力と資産は国家に影響を及ぼすレベルなので、相続をめぐっては骨肉の闘争が繰り広げられるらしい。
それを少しでも減らすために家督相続の序列や資格要件が厳密に定められているのだが、リトレイユ公はそれを逆手に取ってライバルを蹴落としたとみられている。
「弟のセリン殿がいつ成人するかによって、政局は大きく変わる。一般的には十代半ばだな。成人前の彼には契約を結ぶ権限がないし、子を作ってもその子は嫡流とはみなされない」
子を作るって。
「……早すぎませんか?」
「未婚の嫡男との間に子を作って、それをネタに財産を掠め取ろうとする者が多いのだ。実際には法的にも慣習的にも無効なのだが、それを知らない女中などがやる」
幼い若君をメイドが誘惑して……という感じか。嫌な話を聞いてしまった。御曹司も楽じゃないな。
「貴族様というのは大変ですね」
「なに、そういうときのためにどの家も法学者と神学者を召し抱えているからさほどでもないだろう。堕胎の専門家もな」
また嫌な話を聞いてしまった。あんまり深掘りしない方がいいぞ、この話題。
俺は必死に話題の修正を試みる。
「とにかくセリン殿はまだ子供として保護されている期間で、この状態であればリトレイユ公の地位は脅かされないのですね」
「そうなるな。だが先代がセリン殿を早々に元服させようとするかもしれない。リトレイユ家には七歳で元服した先例があるそうだ。これは当主と嫡男が同時に戦死したからだが、何であれ先例があるのは強い」
「七歳というと、あと二年ですか……」
なるほど、リトレイユ公が性急な謀略を推し進める訳だ。さっさと地盤を固めてしまわないと、歳の離れた弟に全部持って行かれてしまう。
でも別に弟が家督を相続したところで、リトレイユ公が追放や処刑される訳でもないだろう。当主の姉なら一生安泰だ。
アルツァー大佐はメディレン家当主の叔母で、生活には困っていないし好きなことをやって暮らしている。
そんな俺の考えを見透かしたように大佐は苦笑する。
「彼女にしてみれば、一度手に入れた権力を手放すことなど考えられないだろう。彼女の自由は当主の権力によって守られている。世の中の人間が皆、貴官のように清廉だと思ってもらっては困るぞ?」
「承知しております」
とはいえ、命令をこなして給料をもらう生活を前世から続けている俺には、どうにも理解しがたい。
職場の雰囲気が良くて給料がしっかり払われていれば、それ以上望んでも仕方ないと思うんだけどな……。
俺に政治力が皆無なのは、たぶんこんな考え方のせいだろうな。命の危機でも迫らない限り政争なんかやりたくもない。
大佐はそんな俺の顔を、困ったような表情で嬉しそうに見ている。矛盾した表現だが、そうとしか言いようがない表情だ。
「まあいい、とにかくリトレイユ公の立場は複雑だ。家中も先代派と当代派で分裂していて、互いに牽制や調略を繰り返している。そのせいでリトレイユ公は領内からあまり動けないようだ」
「留守中に何が起きるかわからないのでは、対外工作の余裕はありませんね」
「そうだな。だからこそ領外で政治工作ができる影武者が必要だったのだろう。リコシェの努力はリトレイユ公の需要と見事に合致していた訳だ」
そう言って大佐は窓の外の夕日を眺め、そっと溜息をつく。
「おかげでリトレイユ公の陰謀が軌道に乗ってしまったのだが、リコシェにとっては生き延びるために必要だったことだ。皮肉なものだな」
有能な影武者を得たことで、リトレイユ公はそれを他家に派遣して政治工作を行うようになった。
しかもリコシェはリトレイユ公と違って、他者への思いやりがある。
彼女の気配りや思いやりは全てリトレイユ公の行いとして観測されるので、リトレイユ公の弱点を補う形になった。
俺は少し考える。
「この政争に時間をかけても良いのなら、リコシェ殿が離反した時点で勝負はついていましたね。彼女はリトレイユ公にとって最強の外交官ですし、リトレイユ公の人物面での評価も支えていましたから」
「確かにな。リコシェは『もう一人のリトレイユ公』と言って差し支えない存在だ。彼女が裏切ればリトレイユ公は家中の政争で手一杯になり、他家への干渉力は徐々に弱まるだろう。だが貴官も条件をつけているように、時間をかける余裕はない」
大佐は険しい表情で腕組みした。
「既にジヒトベルグ家とミルドール家はリトレイユ公を潰すつもりで動いている。両家は政治力も軍事力も衰え、もはや自力では隣国との領土紛争にも対処できない。となれば性急で過激な政略も躊躇しないだろう」
「帝国の西半分がその有様というのは困ったものです」
かつての大帝国も領地を磨り減らされ、すっかり衰えてしまっている。これ以上ガタガタになったら俺の給料と寝床すら危うい。おまけに旅団の女の子たちを守ることもできなくなる。
「では閣下、二年……いえ一年以内に決着をつけるおつもりですか?」
「さすがに貴官は察しがいいな。その通りだ。今の状況が長引くとキオニス遠征の惨劇が繰り返されることになる」
大佐はそう言い、そっと声を潜めた。
「ミルドール家が今、メディレン家の仲介で帝室に接近している。リトレイユ公がブルージュ公国に攻城砲を提供した件を告発するそうだ」
敵国への内通となれば、さすがにあの皇帝も知らん顔はできないだろう。放置すればミルドール領が危うい。
最悪の場合、ミルドール家がブルージュに降伏してしまう可能性もある。そうなればミルドール家は帝室の敵だ。
でもあの皇帝、ボンクラっぽい感じなんだよな……。
「それで帝室が動いてくれればいいのですが、あの偉大なる皇帝陛下が正しい判断を下せるかどうかが問題です。参謀としては次の手を用意すべきかと」
「貴官は皇帝に対しても容赦しないな。だが私も同意見だ」
大佐は苦笑し、俺に言う。
「この告発が失敗に終わった場合、ミルドール家は追い詰められるだろう。貴官はどうなると考えている?」
「私がミルドール公なら転生派に改宗してブルージュ側に寝返りますね。ブルージュも元は五王家の一員でしたし、悪いようにはしないでしょう。……何か?」
アルツァー大佐が目をまんまるにしているのが可愛かったので、俺は首を傾げる。
彼女はしばらく驚いた顔のままだったが、急に笑いだした。
「ぷっ、あはははは! 面白いな、貴官は! 実は私も同じことを考えていたのだが、言い出すのが不安でな。貴官の考えを先に聞きたかった」
ブルージュ家の裏切りは歴史の闇に葬り去られており、その事実を知る貴族たちでさえ「あんなことは二度と起きない」と本気で信じている。そう教育されるからだが、「起きない」と「起きてはいけない」は全く別の話だ。
しかし実際には寝返りなど日常茶飯事だ。条件さえ揃えば何度でも起きる。
大佐は御機嫌な表情で声を弾ませる。
「よしよし、貴官が私と同じ考えで安心したぞ。私の考えは決して妄想ではなかったな」
いや、二人そろって妄想してるだけという可能性もあると思います。
しかし大佐はよっぽど嬉しかったようで、興味深そうに俺を見つめてきた。
「なぜ貴官はミルドール家が寝返ると踏んだ?」
「以前に閣下から教えて頂いた情報が確かなら、ミルドール家はおそらくブルージュ家と何らかの裏取引をして証拠を得たのではないかと思います」
リトレイユ公とブルージュ公国の間に密約が存在するなら、ブルージュ公国にはその証拠がある。陰謀告発の材料はブルージュ公国から入手するのが一番手っ取り早い。
ミルドール家とブルージュ家は領地をめぐって戦争を続けているが、一方で戦争を激化させないための方策も用意しているだろう。欲しいのは血ではなく領地だ。共倒れになっては意味がない。
外交交渉を行うためのパイプは絶対にあるはずなので、それを通じてリトレイユ公を告発する証拠を揃えた可能性が高い。
一方、ブルージュ公国にとってはリトレイユ公も敵だから失脚しても困らないはずだ。帝国に内紛が起きれば都合がいいから、せいぜい高く売りつけるだろう。
もっとも、ブルージュ公国は同じ転生派の隣国であるアガン王国とも不仲だ。隣国というものはだいたい仲が悪い。
そういう意味では、リトレイユ公が失脚するとブルージュ公国は対アガン工作がやりづらくなるかもしれないな。リトレイユ家はアガン王国と戦争を続けており、ブルージュにとっては「敵の敵」になる。
この辺りは山奥暮らしの参謀大尉には読みきれないので、あまり深読みはしないことにする。わからないものを無理にわかろうとすると誤った推論をしてしまう。
「確実なのはミルドール家は非常に追い詰められているということです。告発が失敗すれば帝室とリトレイユ家が完全に敵に回り、味方はジヒトベルグ家だけになります」
「そうなんだ。だが頼みの綱のジヒトベルグ家は、キオニス遠征の大敗で発言力が地に落ちている。もう打つ手がない」
「ええ。後はブルージュと手を組むしかないでしょう。先々代ブルージュ家はもともと五王家の一員ですし、当時の政略結婚で共通の先祖がいます」
もちろんそう簡単に和解する気にはなれないだろうが、お互いに帝国内や転生派諸国内で苦境に立たされている。土壇場になれば為政者として決断するはずだ。
大佐は俺をじっと見ている。
「さて、リトレイユ公はどう出るかな?」
「帝国のために殉じるような人物ではありませんから、ミルドール家が寝返っても知らん顔でしょう。帝室はそうもいかないでしょうが」
大佐はすぐにうなずいた。
「ではリトレイユ公と皇帝の間に楔を打ち込めるな。ただちに政治工作を始めるとしよう。その間、貴官は兵の教練と選抜を頼む」
「了解しました」
俺は敬礼した。
さあ、ますますきな臭くなるぞ……。
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