第54話「裏切りの香り」
【第54話】
第六特別旅団司令部に冬が訪れた。俺がここに来て、ちょうど一年経ったことになる。
この一年間で二度の出兵を経験したが、第五師団のときはもっと頻繁に戦場に出ていたので穏やかなものだ。
以前に第六特別旅団には戦力拡充の通達が来ていたが、諸々の手続きがようやく終わって新兵たちがやってきた。メディレン領からやってきた女子志願兵だ。メディレン領には弱者の駆け込み寺となっているフィルニア神殿がいくつもあり、そこから紹介されてくるらしい。
帝国軍が身元の引受人になれば、周囲の虐待から逃れられる。おまけに赴任地はメディレン領外だ。追ってくる心配はない。仮に追ってきても旅団司令部には入れない。
そんな訳で、今回新たに百人ほどの女性がやってきた。これで二百五十人ほどの戦闘集団になるな。
ただ問題なのは、彼女たちはまだ素人だということだ。
「ここに来れば屋根の下で寝られるし、ご飯も食べさせてもらえるって聞いたんですけど……」
真新しい制服に身を包んだ女の子たちは、みんな不安そうにしている。
不安なのはこっちも同じなんだが、受け入れ側としては堂々としているしかない。
「その通りだ。第六特務旅団にようこそ。これから貴官たちには軍人として訓練を受けてもらう。有事の際にはもちろん戦場に出る。給料と衣食住の保証は貴官たちの命の代価だと思ってくれ」
なるべく穏やかに言ったつもりだったが、これだけでみんな真っ青になってしまった。
ハンナが呆れたような顔をしている。
「参謀殿、何してるんですか」
「いや、まず説明をだな」
甘い言葉で死地に向かわせるのは不誠実だし、戦場で「話が違う」と文句を言われても困るんだ。
でもハンナは首を横に振った。
「怯えさせちゃまずいですよ……」
「俺もまさかこの程度で怯えるとは思ってなかった」
「参謀殿みたいな筋金入りの軍人とは違うんですから」
俺だって前世は普通の民間人だよ。
でもまあ、ここはハンナの意見を素直に聞いた方が良さそうだ。俺は軽く咳払いをしてごまかす。
「もちろん、我々も貴官たちを死なせるつもりはない。どんな状況からでも生き残れるよう、徹底的に鍛え上げる」
「参謀殿、参謀殿」
「なんだハイデン下士長」
ハンナが微妙な苦笑をしている。とうとう困るのを諦めたらしい。見放されたようだ。
「あの、せっかくなので私が続きをやってもいいですか?」
幼児をあやすような笑顔だ。俺をダメな子みたいに言うなよ。
ちょっと落ち込んでしまったが、ハンナの方が新兵たちの価値観に近いだろう。俺はうなずく。
「すまない、よろしく頼む」
「はい、お任せください」
ハンナはとても良い笑顔で敬礼して、それから新兵に向き直った。
「私はハンナ・ハイデン下士長です。砲兵隊で隊長代行をしています。で、こちらの方がクロムベルツ参謀大尉殿です。第六特務旅団で二番目に偉い人です」
まあ……そうなるか。ロズはまだ中尉だもんな。
「参謀殿は怖く見えるかもしれませんけど、この旅団で誰かを殴ったことは一度もありません」
「殴る訳ないだろう」
俺は思わず呆れて言い返したが、新兵たちの反応が少し変わった。「えっ、そうなの……?」みたいな視線が俺に向けられる。
ハンナはニコニコしながらさらに言う。
「おまけに読み書き計算も丁寧に教えてくれますし、面倒見がいいんです。と言っても信じられないと思うから、詳しい話は後で古参兵の子たちに聞いてみてね」
まあ嘘は一切ないので、古参の子たちも同じことを言うだろう。
それにしても、こんな保育園みたいな導入で本当にいいのか? ここは軍隊だぞ?
だが考えてみれば新兵の子たちもいろいろあってここに来てるんだよな。書類上では紛れもない「志願兵」だが、他に選択肢がないから志願しただけだ。
俺は余計なことは言わずにハンナに任せることにしたが、照れくさいので制帽を脱いで頭を掻く。居心地の悪さが凄い。
「参謀殿は旅団の子たちの味方だから、何かあれば命懸けで守ってくれます。実際に前の戦争ではサーベル一本で騎兵を斬り伏せて、みんなを守ってくれたんだよ」
まあ……嘘ではない。嘘ではないけど居心地がますます悪くなってきた。
そろそろ止めよう。
「ハイデン下士長、俺のことはいいから」
「ここからが本番なんですよ!?」
何の本番だ。やめなさい。
俺は暴走しかけている部下をなだめる。
「ありがとう、だが十分だ」
それから俺は再度新兵たちに向き直り、なるべく穏やかに語りかけた。
「新兵諸君は、まず軍隊の雰囲気になじんでくれ。どうしても合わない場合は軍を去って帰郷するか、神殿で働くという選択肢もある。無理強いしても満足には戦えないから、まずはお互いの相性を確かめよう。困ったことがあればハイデンたち下士官に相談してくれ」
最低限の教練を終えるまで半年ぐらいかな。その間に何割か脱落するだろう。
焦っても仕方がないので、人材育成はのんびりやることにする。
* * *
『陰謀の裏表』
教練場で新兵たちがクロムベルツ参謀の話を聞いている頃、旅団長室のアルツァー大佐は険しい表情をしていた。
「なるほど、事情は確かによくわかった」
「信じていただけますか?」
そう微笑むのは糸目の美女だ。
大佐は軽くうなずく。
「そういうことであれば同情するしかないな。我が旅団の兵士たちと何ら変わらない」
「ですが、あの方にもそう思って頂けるでしょうか」
「なんだ、そんな心配か」
大佐はフッと笑うと、窓の外を見た。
「私はあの男を帝国史上最高の参謀だと確信している。それが答えだ」
* * *
俺は新兵たちの基礎教練をハンナたち下士官に任せて、旅団長室にやってきた。大佐に呼び出されたのだ。
もうすっかり気安い間柄ではあるが、公私のけじめをつけてドアをノックする。
「クロムベルツ大尉です」
「御苦労、入ってくれ」
「失礼します」
ドアを開けて入室した瞬間、俺はギョッとした。
リトレイユ公がいるじゃないか。何で? リトレイユ公が何で?
俺を失脚させ、たぶん亡き者にしようとしてた張本人だぞ。どうして大佐は事前に教えてくれなかったんだ?
俺は一瞬混乱するが、大佐への信頼感が俺を冷静にさせた。リトレイユ公がここに来ているなら、俺を呼び出すときにその旨を伝えてくれるはずだ。
ということは、この人物はリトレイユ公ではない。
俺は何でもないような顔をして、大佐に問いかける。
「来客中でしたか。この方はどなたです?」
「ほう……」
大佐が驚いたように目を丸くしたが、すぐにその目を輝かせる。
「やはり貴官は帝国史上最高の参謀だな」
話がよく見えないのですが。
見るとリトレイユ公そっくりの女性も驚いた顔をしていた。
「そんな、まさか……私がリトレイユ公ではないと一目で見抜いたのですか?」
いや、そういう訳ではないのですが。
どう答えようか迷ったが、ふと妙なことに気づく。
このリトレイユ公のそっくりさん、服装も髪型も顔もメイクも本物そっくりだが、匂いが違う。あの甘ったるい香水の匂いがしない。
リトレイユ公の香水はおそらく特別製で、転生後には一度も嗅いだことのない匂いだ。複雑で奥行きのあるフローラル系の香りで、「爛熟」という言葉がぴったりくる。
ただし転生前の記憶でいうと、トイレの芳香剤が一番近い。ちょっと高級なヤツ。
これは俺の前世が香水とは無縁だったせいなので、リトレイユ公はたぶん悪くないと思う。
一方、こっちのそっくりさんからも良い匂いがしたが、シトラス系に近い爽やかな香りだ。
こちらも前世では制汗剤などで馴染みがあったが、この香りは転生後にも何度か嗅いだ。平民の富裕層にも普及しているヤツで、香水や抹香などの形で売られている。
今世の俺は嗅覚が鈍くなっているようなので、この違いはあまり気にしたことがなかった。コーヒーの香りもよくわからなくなってるぐらいだからな。
まあいいや、それを指摘しておこう。
「本物のリトレイユ公は香水の香りが違います。それにリトレイユ公がお越しになっているのなら、旅団長閣下が私にそのことを伏せたまま呼び出すとは思えません」
俺の言葉に、二人の女性はそれぞれ違った反応を示した。
リトレイユ公のそっくりさんは、何やら考え込むような表情だ。
「やはり香水の違いは決定的ですね……。そのことは御前にも申し上げていたのですが、決して使わせて頂けなかったのです。以前からお気づきだったのですか?」
ちょっと待て。この話ぶりと出で立ち、どう見てもリトレイユ公の影武者だよな?
だが影武者は正体を悟られないことが大前提だ。この会話はおかしい。
一方、大佐は嬉しそうだ。
「ふふ、論理的に考えればそうなるだろう。私が貴官に隠し事をするはずがないからな」
大佐はちょっと黙ってて。
俺は記憶を必死にたどり、リトレイユ公との初対面までさかのぼる。
そういえば最初に会ったときは、本物の香水の香りじゃなかった。てことはあのときから影武者と会っていたのか。
本物と会ったのは……。そうだ、旅団長室で最初に会ったときだ。香水の種類以前に、本物は香りがキツすぎるんだよな。
思い返してみると影武者と会ってる回数の方が多い。平民将校の相手なんか影武者で十分ということなんだろう。
そこまで考えた俺は、落ち着き払った口調で影武者にうなずいてみせた。
「最初に馬車の中でお会いしたときには、もちろんわかりませんでしたよ」
「では、いつからお気づきに?」
今だよ。今。
話の流れ的に本当のことが言いづらくなってしまったので、俺は微笑みながら答える。
「軍事機密です」
ごまかせたかな?
リトレイユ公の影武者は俺をじっと見つめていたが、やがて同じように微笑んだ。
「なるほど、アルツァー様がクロムベルツ様を信頼しておられる理由がよくわかりました」
何がどうわかったんだろう。不安しか感じない。やっぱり下手なごまかし方はよくないな。正直な参謀を目指そう。
そんなことを考えていると、リトレイユ公の影武者は背筋を伸ばして優雅に会釈した。
「クロムベルツ様。私はリトレイユ公の影武者で、本当の名はリコシェと申します。リトレイユ領出身の平民で、実家は髪結いをしておりました」
親戚とかじゃないんだ。それにしてもそっくりだな。
「私は最初、リトレイユ家の奥女中として召し抱えられたのですが、化粧の技術を認められて影武者に抜擢されたのです。背格好もほぼ同じですし、声や顔立ちも似ていましたので」
ああ、メイクで本物そっくりに近づけてるのか。
そこでアルツァー大佐がさりげなくフォローを入れる。
「彼女は聡明な人物で、やがて側近としても重用されるようになったそうだ。外見が似ているだけでなく、交渉事などの実務も任せられるからな」
確かに彼女からは知的な雰囲気を感じる。平民だとは思わなかった。
そしてリコシェは俺に深々と頭を下げる。
「不忠の恥を忍んでクロムベルツ様にお願い申し上げます。どうか私を主君からお守りください」




