第53話「平民大尉と貴族社会」
【第53話】
* * *
【欺瞞の微笑み】
宮殿を警護する近衛大隊長は謹厳実直そのものの表情で、厳めしく敬礼した。
「お申し付けにより警備を強化しておりましたが、何も起こりませんでしたな。我々は失礼いたします」
「そうですね、取り越し苦労だったようです。お疲れ様でした」
上級貴族出身の大隊長にリトレイユ公は穏やかに応じ、彼と部下たちの退出を見送る。
それから紅茶を一口飲み、控えていた年配の従者に微笑みかける。
「ずいぶん粗末な茶だこと。もっと良い『茶葉』を取り寄せなさいな」
「申し訳ございません。『産地』を選んでいる余裕がございませんでした。それに……」
「何ですか」
白髪の従者は微かに口元を歪める。
「なかなかに難しいお客様でしたので、『おもてなし』がうまく参りませんでした」
「……それは認めましょう」
クロムベルツ参謀中尉。
平民出身で第五師団の日陰者だったが、軍功は抜群だった。命知らずの勇敢な軍人。
だが本人に出世欲や野心はなく、私生活も品行方正そのもの。他家の影響も全くなく、政治的には真っ白な男だ。
まさに使い捨てるにはうってつけの人材。
そう思っていたのだが。
「危険を嗅ぎ分ける嗅覚は戦場以外でも敏感、ということですね」
いくら勇猛な軍人とはいえ、下賎の輩だから失脚工作には簡単に引っかかると思っていたのだが、予想以上に手強かった。
従者が質問する。
「新しい『茶葉』をお取り寄せいたしましょうか?」
「いえ、やめておきましょう。無理にお勧めしても無作法というもの」
謀略戦において不用意な攻め手は自滅の元だ。敵が隙を見せるまで待つ。
リトレイユ公には敵が多い。平民の中尉なんかにいつまでもこだわっている場合ではない。あの男の政治力などたかが知れている。
それに彼の上官であるアルツァー大佐の力を削げば、クロムベルツ中尉を警戒する必要もなくなるのだ。
「放っておけばいいのです。……そう、放っておけば」
だが妙に引っかかるものを感じて、リトレイユ公は逡巡する。
本当にこのままでいいのだろうか?
不安感は拭えなかったが、深追いしてアルツァー大佐との関係が険悪になるとまずい。これ以上は危険だ。
ここはいったん狩りを断念するべきだろう。獲物が隙を見せるまで待つべきだ。
「クロムベルツ中尉を大尉に昇進させるよう、皇帝陛下に進言します。第五師団長に連絡を取りなさい」
「はい、御前」
すかさず従者がペンとインクを取り出す。
上質の紙にサラサラとペンを走らせながら、リトレイユ公は尋ねた。
「アルツァー大佐からの手紙、ジヒトベルグ公は受け取らなかったのですね?」
「はい。宮中の衛兵たちからも証言を得ております」
「大変結構です」
リトレイユ公は蜜蝋の封印に意味があることを知らない。彼女は父親から家督を強奪したが、当主に必要な知識を継承していなかった。
「第六特務旅団が他家と接近する事態は防げたようですが、監視は続けなさい」
すると従者が首を横に振る。
「お言葉ですが、手の者が足りません。あのような僻地では連絡員も必要です」
「では買収した農民どもを使いなさい。この様子なら監視は最低限で良いでしょう」
「はっ」
リトレイユ家といえども密偵には限りがあり、全方位に完全な監視網を張り巡らせることはできない。有能で信頼の置ける人材は貴重だ。
「当面はジヒトベルグ家の動向を監視しなさい」
「承知いたしました」
これでしばらくは大丈夫だろう。リトレイユ公は安堵の溜息をつくと、手紙に香水を一滴垂らした。香りは文字にならないが、本人の証明になる。専門の調香師が秘密のレシピで調合した、特別な香水だ。
「ところで、私の『替えの服』はどこですか」
「今頃は『六番』に届いている頃合いかと」
「よろしい」
* * *
俺はアルツァー大佐と共に第六特務旅団の司令部に無事戻り、その直後に「キオニス戦役での戦功抜群と認め、大尉に任ずる」という辞令を受け取った。
なんだか今更なので、たぶんジヒトベルグ公かリトレイユ公の口添えだろう。
ジヒトベルグ公なら単純に恩返しだし、リトレイユ公なら俺を油断させるためだ。
リトレイユ公は俺を失脚させるのに失敗したので、もしこれが彼女の差し金なら俺を泳がせておく意図とみていい。
どちらにしても俺には何にもできないので、ありがたく昇進しておく。アルツァー大佐もニコニコだ。
「おめでとう、クロムベルツ大尉。今後ともよろしく頼む」
「お任せください、閣下。引き続き精勤いたします」
びしっと敬礼した後で、俺は苦笑する。
「できればキオニスから戻ってきた直後に昇進したかったですね。これは素直に喜べません」
そう言って俺はピカピカの階級章を眺める。中尉だった期間が短すぎて少し名残惜しい。なんだか位打ちをされているみたいだ。
すると大佐も苦笑いする。
「まあそう言うな。平民の身分のまま、二十代前半の若さで大尉になった者などほとんどいないぞ。若き俊英として帝国軍人たちの模範となるだろう」
「政治的な意図が見え隠れしてますから、模範にはなりそうにもありませんよ」
それに前世分と合わせるともう結構な歳なので、若き俊英と言われてもピンとこない。気分的にはそろそろ隠居したい。
そんな俺の心中を見抜いたのか、大佐が首を傾げる。
「貴官はときどき、私の亡父のような表情をするな。人生に疲れたか?」
「まあ、多少は」
この人、妙に鋭いから怖いんだよな。さすがは五王家の一門というべきか。人物眼がしっかりしている。
大佐はフッと微笑む。
「では亡父のように頼りにしているからな。亡父より長生きしろよ」
「努力します」
いや待て、大佐のお父さんって晩年に再婚してるから相当長生きしたはずだぞ……。
* *
それから俺はしばらく平穏な日々を過ごすことになった。今日も旅団長と幹部たちでミーティングをする。俺以外の幹部というと、だいたいロズ中尉とハンナ下士長だ。
大佐はどうやらハンナを平民女性初の将校にするつもりらしく、将校たちのミーティングにも積極的に参加させている。
ロズ中尉によると、政情はどんどん不穏になっているようだ。
「ミルドール家とジヒトベルグ家の間で水面下で動きがあるようだな」
「ええまあ……仰る通りです、閣下」
アルツァー大佐の問いかけに、ロズ中尉が困ったような顔をしている。
俺は大尉の階級章をちらつかせつつ、ロズに迫った。
「俺たちは階級が違っても友達だよな、ロズ中尉?」
「おいよせ、冗談に聞こえないぞ」
留守番役で昇進を逃したロズは、コホンと咳払いをする。
「義母上から妻宛ての私信に、それらしい内容が多少ありました。これを」
ロズの奥さんはミルドール公弟の娘だ。従って実家からの手紙はミルドール家からの手紙、ということになる。
ただミルドール公本人ではなく、その弟の妻が娘の一人に宛てた手紙だ。
さすがにこのレベルになるとリトレイユ公も監視しきれないだろう。膨大な数になるのでリトレイユ家の諜報網といえどもカバーしきれない。
内容的にも娘や孫の様子を尋ねる、ごくごく普通の手紙だった。裁縫や育児のちょっとしたコツなど、娘を気遣う内容が温かみを感じさせる。
だがロズがわざわざ見せたということは、これも何か仕掛けがあるに違いない。
案の定、アルツァー大佐が真剣な表情をしている。
「『緑の仕付け糸』……これは『ベルンゲン叙事詩』のアレだな。こっちの『金毛羊の刺繍』はグスター大帝の逸話だろう」
つまり……どういうこと?
大佐は得意げな顔をして俺を見る。
「古典に通じた者にしかわからない暗喩だ。ミルドール公弟の奥方はエオベニアの後期王朝文学がお好きらしい」
よくわからないのでロズの方を見ると、彼も首を横に振っていた。
「俺が読んだことのある本は『辻占いの冒険』とか『大商売記』とかだぞ」
庶民に人気のあるヤツだ。といっても貸本屋に通うような、かなり裕福な都市部の庶民だが。
ハンナも大きな体を縮こまらせて、申し訳なさそうに言う。
「私は五王棋と砲術の教本しか読んでません……」
彼女は読み書きすら学ばずに軍隊に入ったから、むしろそこまで読んでいるのが凄いと思う。
とにかく俺たち平民にはわからない。
これだから貴族は嫌なんだよな。自分たちしか知らない身内ネタがあるから。
なるほど、これなら内通者や密偵には理解不能だろう。彼らのほとんどは平民だ。
「で、結局何なんです?」
平民トリオの代表として質問すると、大佐は若干険しい表情で答える。
「ミルドール家はジヒトベルグ家と積極的に情報交換をしているようだ。だがどうも少々不穏な気配がするな。ブルージュ公国やキオニス連邦を暗示する言葉が散見される。この陰謀からは距離を置いた方が安全そうだ」
思っていた以上にヤバそうな内容だった。他国の影がちらつく謀略となると、深入りは危険そうだ。
ロズが手紙をヒラヒラさせながら溜息をつく。
「貴族様ってヤツは、いろんな方法で意思疎通するんですな」
大佐はコクリと素直にうなずいた。
「そうだ。貴族と平民、上級貴族と下級貴族、一門と他家。ありとあらゆる方法で垣根を作り、余所者を遮断する。そして身内だけで利益を独占する。それが帝国貴族だ」
俺は平民の社会が野蛮すぎて好きになれないのだが、貴族社会も相当に歪そうだ。俺はどこに身を置けばいいんだろう。
ともあれ、俺はこう発言しておく。
「そしてリトレイユ公は現当主ですが、当主としての教育を受けていません。だから『当主筋が知っていることを知らない』のですね?」
「そうだ。例えばあの女はエオベニアの後期王朝文学など知らんだろう。帝国内では評価が低く、帝国貴族の基礎教養とはされていない」
シュワイデル人は自国の文化をやたらと持ち上げる傾向があり、他国の文化を一段低いものと見ている。隣国エオベニアの古典など読んでいる者は貴族でも少ないらしい。
「閣下はご存じなんですよね?」
「これでも文学少女のつもりだからな。だがエオベニアの王朝文学なら前期の方が好みだ。私は悲劇よりも明るい結末の方がいい」
どうやら後期王朝文学は悲劇が多いらしい。当時の世相を反映してたんだろうか。興味がある。
「興味がありそうな顔をしているな。翻訳本を貸そうか?」
「お願いします。できるだけ明るいヤツを」
「任せておけ。貴官なら『ウルカの亡霊騎士』か『魔弓の狩人』辺りが好きそうだな」
「それ本当に明るいヤツですか?」
「もちろんだ。どっちも凄くいいぞ」
大佐が急に御機嫌になったな。何なんだこの人。
それはさておき、リトレイユ公は少しずつ包囲網を狭められているようだな。このままおとなしく勢力を削がれていくとも思えないし、まだ何か起きるだろう。
「帝国の未来も明るい結末だといいのですが」
「少なくとも悲劇は回避せねばな。悲劇の主人公はあの女一人で十分だ」
俺の言葉に大佐がそう答え、俺たちは深くうなずいた。




