第36話「元帥杖の罠」
【第36話】
* * *
「では甘いものを買ってくればいいんですね? ですが、焼き菓子ならそこに……」
「昨日、食堂勤務の御婦人たちが焼き菓子を焼いていたはずだ。あれを少し買ってきてくれ。口の中が苦くてたまらん」
「わかりました」
クロムベルツ参謀中尉が頭を掻きながら退出した後、アルツァー大佐はスッと真顔になる。さっきまで苦い苦いと子供のように言っていたのが嘘のようだ。
「シュタイアー中尉」
「はっ」
大佐の真面目な表情と声に、ロズ・シュタイアー砲兵中尉は背筋を伸ばす。ふざけているように見えるが彼も生粋の軍人、今が「そういうとき」だというのはわかっていた。
大佐はカップの縁を指でなぞりながら問いかけてくる。
「クロムベルツ中尉が初めてコーヒーを飲んだときの様子を聞かせてくれ」
「え? はい」
なんでそんなことを聞くのか疑問だったが、ロズは士官らしくすらすらと答える。
「初めてなのに最初から淹れ方も飲み方もよく知っているようでした。もっとも、何も入れずに飲み始めたので笑ってしまいましたが」
軽く笑いを誘おうとしたロズだったが、アルツァー大佐は笑わなかった。
「なるほどな」
それから大佐は少し優しい表情をして、こう質問してくる。
「シュタイアー中尉はコーヒーがどこで栽培されているか知っているか?」
「いえ。ミルドール家が他家から仕入れているぐらいしか」
「遠い南方から航路で運ばれてくるのだ。それもずいぶん遠回りをしてな」
大佐はそう言い、目を細める。
「輸送費が莫大なものになるため、コーヒーを口にできるのは富裕層だけだ。そして帝国の富裕層は砂糖でも牛乳でも好きなだけ入れられる。だから本邦では甘い飲み物として定着した」
「小官もそう聞いております」
「だろう? 何も入れずに飲む者はまずいない。だがクロムベルツ中尉は当たり前のような顔をして、何も入れずにコーヒーを飲んだ」
「それが何か?」
「コーヒー豆は帝国領から数千キラムも南に下った灼熱の土地でのみ栽培できるそうだ。その土地では庶民もコーヒーを飲むが、砂糖も牛乳も満足には手に入らない。だから何も入れずに飲む」
その言葉にロズはハッとした。
「砂糖も牛乳も入れないのは『本場の飲み方』のひとつなのですね」
「そうだ。おかしいとは思わないか、シュタイアー中尉?」
アルツァー大佐は不思議がるような口調だったが、表情はキラキラと輝いていた。とても楽しそうだ。
「クロムベルツ中尉はいったい『いつ』『どこ』で、その飲み方を知ったのだ? 彼は貧しい平民の出で、コーヒーを飲む機会はない。彼の生まれ故郷は港から遠く離れている」
「本で読んだのでは? あいつはとんでもなく博識です」
「帝国内にあるコーヒーの本は、いずれもシュワイデル人向けに書かれたものだ。そこには必ず砂糖と牛乳をたっぷり入れて飲むよう記してある」
ロズは返答に窮し、新しい上官を見つめる。
「では閣下はどのようにお考えなのですか?」
「わからないのだ。彼の経歴と能力はつじつまが合わない。だが彼の経歴に嘘は一切ない。能力は貴官も知る通りだ」
「凄いでしょう、あいつは」
「ああ、認める」
大佐はフッと笑い、それから頬杖をついた。
「そして彼は何も教えてくれない。私にもハンナにも。おそらく貴官にもな」
「そうですね。まあ聞く気もありませんが」
ロズは肩をすくめてみせる。
「あいつはいつでも平民将校の味方で、小官たちの期待を裏切ったことは一度もありません。勇敢で誠実で有能です。たぶんこれからもそうでしょう」
「私もそう思う」
「ならば、それで良いのではありませんか?」
「そう思いたいのだがな」
腕組みをして眉間にしわを作るアルツァー大佐。
ロズは上官の表情と仕草を観察し、彼女の悩みが軍人としてのものなのか、それとも女性としてのものなのかを慎重に見極める。
そしてこう答えた。
「あいつが言いたくなれば、そのうち勝手に話してくれるでしょう」
「そうだな。口を開かせるよりも心を開かせるとするか」
「その方が閣下の悩みも解決しそうですしね」
軽い気持ちでそう言うと、アルツァー大佐がじろりと睨んでくる。
「なるほど、貴官が『おしゃべりロズ』と呼ばれている訳だ」
「おっと、失礼しました」
敬礼してごまかす。
ちょうどそのとき、クロムベルツ参謀中尉が自室に戻ってきた。バスケットいっぱいにクッキーを抱えている。
だがその表情は険しかった。
「閣下」
「聞こう」
アルツァー大佐もロズ中尉も真剣な表情になる。
クロムベルツは静かに言った。
「第二師団より通達がありました。勅命により、ジヒトベルグ公が元帥号を授与されたそうです」
「ジヒトベルグ公が!?」
* * *
ジヒトベルグ公とその門閥は、西方のキオニス連邦の国境地帯を守っている。そしてジヒトベルグ家が擁する第二師団はキオニスの一氏族と紛争中だ。
「キオニスでは有力氏族が次々に参戦しており、推定兵力は一万を超えたとみられています」
場所を旅団長室に移し、俺は参謀として資料を読み上げる。将校三人に加え、ハンナたち下士長三人も同席していた。
ネットもコピー機もない時代の軍議なので、全部俺が読み上げなくてはいけない。
「第二師団の兵力はおよそ三万。未だ兵力では優勢ではありますが、敵の大半はキオニス騎兵です。第二師団の参謀部が苦戦は必至との結論に至り、皇帝陛下はジヒトベルグ公を元帥として第一・第三師団の一部を指揮下に加えることを命じられました」
アルツァー大佐は俺を見る。
「参謀、この裁定に関して軍事的な評価を」
「戦列歩兵や砲兵にとって熟練の騎兵は脅威です。兵力を結集するのは極めて合理的な判断かと」
本当、我が帝国にしては珍しくまともな判断をしたもんだ。
もちろん額面通りに受け取ってはいけない。アルツァー大佐が微笑んでいる。
「ジヒトベルグ公の元帥就任にはリトレイユ公の強い進言があったと聞いている。あの女が帝国や他家のためにそんなことをするとは思えん」
えーと……言っちゃっていいのかな。まあハンナは大丈夫だし、他の下士長二人もアルツァー大佐の元使用人だから大丈夫か。
「リトレイユ公にとっては他家は引きずり落とすべき存在です。であれば、ジヒトベルグ公は政敵の罠にかかったと見るべきでしょう」
「やはりそう思うか。私も同意見だ」
アルツァー大佐はそう言い、前髪を払う。
「複数の師団を統帥できる元帥号、てっきりリトレイユ公自身が渇望しているのかと思ったが、どうやら違ったようだな。政敵を潰す罠にするとは」
そして大佐は嬉しそうに笑う。
「貴官の読み通り、リトレイユ公はまだ切り札を隠し持っていた訳だ。まったく貴官は頼れる参謀だな」
何かありそうだとは思ってたけど、阻止できなかったんだからあんまり意味はないよ。とりあえず無言で微笑んでおく。
アルツァー大佐は立ち上がると、壁に掛かった地図を示す。
「第三師団はブルージュ公国との一戦で大損害を受け、兵力の再編中だ。本領を守る兵力にすら事欠いている。だが勅命では逆らえん。おまけにジヒトベルグ家は隣邦、共に西方を守ってきた兄弟分だ」
大佐の背だと地図の上の方に届かないので、俺が代わりに指示棒で指し示す。
「そこでミルドール公は第三師団の穴を埋めるため、リトレイユ公に再度の援軍を要請しました」
「義父上の話では、ミルドール公があんなに怒っていたのは六歳のとき以来だそうだ」
ミルドール公弟の婿であるロズ中尉が溜息をついている。大変だなお前も。
そう。ミルドール公は一度、リトレイユ公の第五師団を追い返している。第五師団が勝手な真似ばかりしたのが原因らしいが、追い返した相手に頭を下げれば面目丸潰れだろう。
それでも領主は本領を守らねばならない。どんなに屈辱にまみれてもだ。
アルツァー大佐は俺から指示棒をひったくると、つま先立ちになって地図を示した。
「帝国北部を守るリトレイユ公には、本領から遠く離れた南西部への出兵を拒む合理的な理由がある。だが隣のミルドール領になら兵を派遣できるという訳だ」
指示棒届いてないよ。そこ帝室領だよ。
みかねたハンナがよっこいしょとちっこい大佐を持ち上げ、リトレイユ領に届くようにしてあげる。保育士さんに向いてそうだな。
「リトレイユ家の第五師団は現在、北部の守りを一手に引き受けている。対ブルージュ戦を受け持っていた第三師団がこの状況では、第五師団はアガン・ブルージュ両国を引き受けねばならない」
話はとても真面目だし非常に論理的なんだが、ハンナに抱っこされてる大佐が面白すぎて話が頭に入ってこない。まあ俺は理解してるから目の前の光景を面白がっておこう。
「おそらく第五師団は今後、大幅な兵力増強が認められるだろう。リトレイユ公の発言力も増すことになる。これが彼女の狙いということでいいか、参謀?」
いきなり話を振られた。えっ、なに!?
俺は慌てて思考を切り替え、デキる参謀スタイルで答える。
「ジヒトベルグ元帥率いる第一から第三までの師団は、対キオニス戦争に敗北すると思われます」




