第100話「羊丘会戦(後編)」(※図解あり)
【第100話】
* * *
【群狼の咆吼】
そのとき、ヒューゲンス将軍は望遠鏡で戦場を眺めていた。眼下では後詰めの歩兵連隊と騎兵連隊が左右に展開し、瀕死の帝国軍を殲滅しようとしている。
「何かあるはずだと思ったが、何もなかったか」
参謀のミッセル大尉が苦笑する。
「またお偉方に『心配性』だの『理屈屋』だの言われてしまいますね」
「それで結構。心配性の理屈屋でなければ軍事顧問は務まらんよ。最後まで油断はせん。周辺におかしな動きはないか?」
「いえ、今のと……」
ミッセル大尉の言葉は轟音で遮られた。
城館の壁が崩れ、石材や木材が滝のように流れ落ちてくる。地図や書類を置いた作戦テーブルが梁の下敷きになり、真っ二つに割れた。
「うわぁっ!?」
「落ち着け、ドアから廊下に出ろ! 建物の陰から外に出るのだ!」
よろめくミッセルの背中を庇いながら、ヒューゲンス将軍は廊下に出る。
続けざまに遠くで砲声が轟き、城館のあちこちで破壊音が響く。木が裂け、ガラスが割れ、石が砕ける音だ。
砂埃だらけになったミッセル大尉が泣きそうな顔をしている。
「せ、先生! これはどういうことですか!? 敵に砲兵はいなかったはずです!」
「その通りだ。よしんば伏兵があったとして、この距離に届く砲など確認でき……」
その瞬間、ヒューゲンス将軍は踵を返して部屋に飛び込んだ。
「まさか!?」
「あっ、先生! どちらに!? そちらは危険です!」
ぽっかりと壁に穴の空いた部屋で、ヒューゲンス将軍は「子羊の丘」を睨む。
通常の砲なら絶対に届かない距離を隔てて、「子羊の丘」から砲煙が立ち上っていた。
「なんということだ……敵は新型砲を開発していたのか」
「先生!」
駆け込んできた参謀に、ヒューゲンス将軍は落ち着いた口調で告げる。
「ミッセルよ、ただちに帝都ロッツメルに戻れ。公王陛下にお伝えするのだ。『我が軍は敵の新型長射程砲による奇襲を受け、敗北した』とな」
「敗北!? ですがまだ我が軍が圧倒的に優勢です!」
だがヒューゲンス将軍は首を横に振る。
「いや、勝負は決した。私はこの場に留まって最後まで指揮を執るが、この情報は一刻も早く陛下にお伝えせねばならん。私の代わりに行ってくれ。死ぬなよ」
ヒューゲンス将軍の言葉に、ミッセル参謀は無言で敬礼する。目に涙が浮かんでいた。
「先生も、どうか御無事で」
「できる限りのことはしてみよう。さあ急げ」
* * *
【戦場の女神】
その頃、「子羊の丘」では少尉の階級章をつけたハンナ・ハイデンがサーベルをかざしていた。
「よし、城館はほぼ破壊しました! 一番砲と二番砲は城館への砲撃を継続! 敵の伝令を近づけさせないで!」
丘の各所には偽装された仮設砲台があり、ライフル砲の砲口がブルージュの軍勢を睨んでいた。
大柄なハンナは砲声に負けないほどの大声で叫ぶ。
「他の砲は攻撃目標を敵歩兵連隊に変更! 三番砲、四番砲、五番砲は行軍の先頭を照準! 六番砲、七番砲は最後尾を狙ってください! 残りは隊列中央に着弾を分散!」
すぐさま女子砲兵たちが大砲を操作し、次弾を装填しながら照準を合わせる。
「撃てえええええっ!」
丘が震えるほどの轟音が轟き、数瞬遅れて平原に土煙が舞い上がる。ばたばたと兵士が倒れていくのが見えた。
「おっかねえなあ、お嬢ちゃん。こりゃ護衛なんかいらなかったかもな」
そうつぶやいたのはヴィルゲント提督だ。海軍陸戦隊の猛者たちを率いての参陣だった。
ハンナ少尉は振り向いてニコッと笑う。
「少佐殿のためなら、これぐらいは頑張ります!」
「おおっと、そりゃ俺のことかい?」
冗談で返したヴィルゲントに、ハンナは真顔で応える。
「いえ、クロムベルツ少佐殿ですけど?」
「わかってるよ。あーあムカつくぜ、あのモテモテ野郎」
近くの木の幹をげしげし蹴っていると、陸戦隊の将校がそっと声をかける。
「何も閣下までついてこなくても良かったと思うんですが。鮫は陸には揚がりませんよ、鮫嵐提督」
だがヴィルゲント提督は木を蹴りながら吠える。
「バカ野郎、鮫は陸でも暴れるし、何なら空も飛ぶんだよ! なんたって『鮫嵐』なんだからな! それにハイデン少尉は海軍士官学校の後輩だ、活躍を見届けてやんなきゃ可哀想だろうが!」
女子砲兵たちがそれをチラチラ見ている。
「なにあの人」
「海軍の偉い人だよ。隊商に偽装して大砲を運べたの、あの人のおかげなんだって」
「じゃあ良い人なんだ。あ、着弾ちょっとズレてる。次弾装填お願い」
てきぱきと装弾しながらおしゃべりを続ける女子砲兵たち。
「なんかね、うちの参謀殿と仲が良いみたい。右に一目盛り修正するね」
「あー、そういう感じ? 待って、砲身少し冷やす」
「どういう感じよ。はい、濡れ布巾」
「いやあ尊い尊い。じゃあ点火するよ。耳塞いで」
放たれた砲弾はほとんど放物線を描かずに直進し、ブルージュ歩兵連隊の一個小隊を貫通する。
たった一撃で下士官以下十数人が死傷し、この小隊は作戦遂行能力をほぼ完全に奪われた。
* * *
俺は望遠鏡を覗き込みつつ、ホッとした気分で笑った。
「敵の第五十四歩兵連隊は大混乱です。ハンナの砲撃は的確だな」
「嬉しいか?」
アルツァー准将がニヤリと笑うので、俺は苦笑する。
「彼女の実力が評価されそうなので嬉しいですね。できればもっと違う分野でも開花させてあげたかったんですが」
前世だったら軍人だけでなく、女流棋士とかモデルとか格闘家とかにもなれたと思うんだよな。この世界では軍人以外の選択肢がなかったのが惜しい。
准将も小さくうなずいた。
「そうだな。だが今は彼女の実力に救われたことを喜ぼう。これより攻勢に移る。敵の第五十二、五十三歩兵連隊を包囲せよ!」
敵は包囲攻撃の命令を受け、両翼の部隊が移動している瞬間に司令部を砲撃された。
彼らは司令部の城館が破壊されたのを見て混乱し、包囲攻撃を続行するかどうかで判断に迷う。指示を仰ごうにも司令部はもうない。
そして包囲攻撃は各部隊の連携が命なので、足並みが少しでも乱れればそこに突破口が開ける。
今回は敵の騎兵連隊が崩壊の糸口となった。
騎兵突撃を中止し、後方に退いたのだ。
「連隊としては正しい判断だ。だが軍としてはどうかな」
アルツァー准将は微笑みつつ、麾下のライフル式マスケット中隊に命令を下す。
「敵騎兵が退いたことで、敵左翼は動揺している。女子戦列歩兵中隊は最右翼に展開し、味方の戦闘を支援しろ!」
長距離の狙撃ができるライフル式マスケット銃は、側面から十字砲火を浴びせるのに最適だ。多少距離があっても十分に届くし、少数の兵で大きな打撃を与えることができる。
旅団長の命令に、中隊長たちがサッと敬礼した。
「了解しました。行こうか、レーン少尉。鴨撃ちを教えてやる」
「はい、お供します!」
歴戦のフォルトン中隊長と美貌のレーン中隊長がただちに命令を実行する。
マルーンカラーの軍服が横隊を組むと、パパパッと銃火が光った。もうもうとたなびく白煙。
わずか二個中隊の銃撃だが、敵の左翼大隊がバタバタ倒れていく。命中率がまるで違う。おまけに敵の反撃は弾が届いていない。
「これで敵左翼は抑えました。敵右翼はライフル砲兵中隊が叩きます」
「敵は驚いただろうな。あの距離からの砲撃など、どの教本にも載っていない」
「大砲に詳しい戦術家ほど驚くでしょうね。この数十年、大砲の構造に大きな進歩はありませんでしたから」
敵が司令部を置いた「羊の丘」はそこそこの高さがあり、平地から砲撃しようとするとかなり肉迫する必要があった。もちろん敵の歩兵に阻まれるだろうから、砲撃は難しい。
しかしライフル砲は従来の砲の三倍以上の射程を持ち、威力も命中精度も段違いだ。
まさに今回限りの切り札、必殺の隠し武器だ。
望遠鏡で敵が砲撃に翻弄されているのを確認した後、准将は俺を振り返る。
「正面はどうなるかな?」
「両翼が潰されて背後が急斜面の上り坂なら、残された道は正面突破しかありません。しかし突破したところでその先に何がある訳でもありません」
敵の中央にいる部隊は、戦術的には完全に死んだ部隊になっている。戦闘能力をまだ残してはいるが、効果的に運用する方法がもうない。
それは敵の連隊長たちも理解しているだろう。どこの国でも連隊長クラスは相応に優秀だ。
敵の各連隊はじりじりと後退を始め、丘の斜面を迂回するようにして後方に退いていく。だが大半の兵は逃げることができず、大隊や中隊単位で降伏してきた。
無駄な殺し合いを避けられたのは嬉しいが、ちょっと困るので准将に教えておく。
「うまい方法です。降伏されたら殺す訳にもいきませんが、かといって戦場に置き去りにもできません。彼らの処遇で足止めされます」
「兵を死なせずに我々を足止めする良い方法だな。私も今度使おう。いや、お前がいれば負けることはないか」
プレッシャーになるからやめて。パワハラですよ閣下。
早朝に始まった戦闘は昼過ぎには完全に終息し、ブルージュ側の白旗があちこちに掲げられて戦闘は終了した。
死傷や逃亡で失った兵力は、帝国側が九百人ほど。結構な痛手だ。
幸い、女子戦列歩兵は遠距離からの狙撃が中心だったので、数名の死傷に留まった。とはいえ戦死者は出ている。
ブルージュ側の死傷は帝国軍より多い千五百ほどだが、部隊単位の降伏が大量に出たので合計で三千近い兵を失っている。大敗といっていいだろう。再起不能だ。
偵察から戻った女子騎兵たちが報告する。
「敵の残存兵力は街道を全速力で後退していきます。最後尾はファルブール橋の辺りですが、橋脚に何か仕掛けているのが見えました」
アルツァー准将は苦笑する。
「橋を爆破して追撃を振り切るつもりか。我々にそんな余裕などないのだがな」
俺は頭を掻く。
「そうですね、捕虜の数が凄いことになっちゃいましたから……」
敵が置き土産とばかりに残していったのが、二千人近い投降兵や負傷兵だ。主に第五十二連隊と第五十三連隊の戦列歩兵で、下士官や将校も多数いる。
だが准将はフッと笑う。
「ここからは将器ではなく王器が問われる局面だな。私に任せてもらおうか」
「閣下のお心のままに」
俺は恭しく一礼すると、我が主が何を見せてくれるのか見守ることにした。




