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バチバチと焚き火が燃えている。
川の岸辺の人が腰を下ろせそうな岩場に座り、ただひたすらに、目の前で燃えている焚き火を見ている。ここは、闇森の沼地近くに流れる川の岸辺である。ドラゴンゾンビとの戦いから、もうすでに半日以上経っている。辺り一面は夜の闇が支配して、川の音と虫の鳴き声、火の音が静かな音楽を奏でている。焚き火の傍には、木の枝で作った簡易的な物干し竿を作り、川で洗ったローブを干しておいた。
ドラゴンゾンビの戦いは、熾烈を極めた。まさか三体ものドラゴンゾンビが居ついていたとは思いもしなかった。ラマトラーとの戦いもそうだが、ゲームの時と同じような条件でボスモンスターが配置されていると考えるのは、浅はかな考えだったようだ。
ドラゴンとフロストドラゴンのゾンビ、どちらもこの森でポップするようなモンスターじゃない。一度討伐すればもう出てくることはないだろうとは思う。ともすれば、モンスターを使役する魔族がこの場所に置いていった……と考えるのが普通だろうか。
肩に噛みつかれた時の傷は、薬草等で傷自体は塞がったが、噛みつかれた跡は痛々しく残っている。もちろん、言葉通りの意味での戦いも大変だったが、もっと大変なのは服やローブに染み付いた臭いであった。戦闘中も、戦闘後も、ゾンビの死臭との戦いが続いている。ローブに染みついた死臭は、まるで取れている気がしない。日中はひたすら川の中でローブを洗っていたのだ。陽が暮れてからは、辺りは月明り程度の明るさしかなく、暗闇の中で川に入ることはとても危険であった。夜は川での洗濯ができないので、火を起こし、洗ったローブを乾かす。
焚き火はよい。体を暖め、暗闇を照らし、服を乾かす。
この火を起こすのにもかなりの時間を要した。時間と苦労を要した大事な火である。手元に残していた、文字を書いた羊皮紙を一枚ずつ火の中へ薪と一緒にくべる。バチバチと快活な音を立てて小枝が鳴る。【ファイア】の魔法が使えれば、こんな苦労もしなくてもよいのかもしれないが、使えないものはしょうがない。大事な火を絶やしてはならない。サバイバルである。
睡魔はある。静かに目を瞑れば、すぐにでも東から登るであろう朝日を拝めるだろう。だが、このまま眠るわけにはいかない。
焚き火が消えるのが心配だからではない。モンスターに襲われそうだから眠らないのではない。
目を瞑れば、あの戦いの臭いが、鼻の奥底から、死臭が記憶の糸を辿って蘇ってくるのである。眼を開けていれば、起きてさえいれば、余計なことを考えることもなく、静かに夜が過ぎるのを待つことができる。そして、朝一番でまた服やローブを川で洗い、臭いを落とすのだ。
焚き火を静かに見つめていれば、荒み切った心まで暖かくなってくるのが分かる。バチバチといった音もいいアクセントになる。
ただ静かに、火を見つめながら、心穏やかに朝を迎えるのだ。決して思い出してはならない。特に、ゾンビの死肉が衝撃の度に飛び散っていたことや、よく分からない汁状のものが飛び交っていたこと、噛みつかれた時のゾンビの息が猛烈に臭かったことなど、決して思い出してはならない。
服やローブに死臭がついていることなどは、今現在は一切忘れるべきなのだ。とくに、ゾンビの攻撃を受けた時のべちょっとした感覚なんかは……
……ああ! ゾンビの死肉が! 肌に! 肌に!
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パッシ村に戻ってくることができたのは、次の日の夕刻頃になった。結局今日の朝から川の岸辺を立つまでに、ぎりぎりまで川で洗濯ばかりしていた。どうしてもこびり付いた臭いが気になってしまうのだ。
パッシ村の入口近くまで近づくと、村の入口である木でできた門構えが見えた。パッシ村の門の前にいた門番は一人だけしか見えない。もう一人はどこかに出かけているようだ。軽く挨拶をして、村の中に入ろうとして門番に驚かれる。
「ちょっと待っていてください! すぐに村長を呼んできますので!」
門番の一人が広場のほうへ向かって足早に駆けていく。
村の中に入ってから入口近くで少し待っていると、村長が広場の中心から走ってくるのが見えた。
「おお! ご無事でしたか! セルビィさん!」
その後ろには、何人かが槍や斧を持ち、鎧を身に付けた一団が続いている。
「あまりにも帰りが遅いので、これから闇森の沼地へ捜索隊を派遣しようと準備していたところです」
今日の夕刻までに戻らなければ村を捨てたほうがいいとか提言していたからね。実際は半日くらい近くの川で洗濯していたせいで遅くなりました。とはいえないな。
「セルビィさんがなかなか戻ってこないので、ラッセルさんが捜索隊を率いて闇森の沼地へ行くと言って聞かなかったのですよ」
「リタの友人の安否をどうしても確認しておきたかったのです。もしものことがあったら、リタが悲しみます……本当に無事でよかった。安心しました」
ラッセルさんは安堵したように胸をなでおろしたのが分かった。昨日のうちに発生源は叩いたんだけどね。色々とありまして。
ふと、右手の人差し指につけた指輪を見る。昨日まで光輝いていた宝石部分の輝きはない。今は村まで毒の霧はとどいていないようだ。パッシ村の毒の霧事件はひとまず解決したとみてよさそうだ。
村長や村の住人から、色々と感謝の言葉を貰う。ある人は俺の手を握って上下に激しく振り、涙まで流している。何人かのやり取りがあった後、ラッセルさんが誰かに手を振った。
「あっ! セルビィお姉ちゃんが帰ってきたの!? お姉ちゃーん! これみてー!」
少女が走って近づいてくるのが見える。その後ろには、母親であるハンナさんがほほ笑みながらこちらに歩いてくるのが分かった。
少女の着ている服にはピンク色のハートが、いくつもつけられている。
え? 昨日の今日であの服をつくったの!? 母さんが夜なべをして手袋編んでくれたどころの話ではない。手が早過ぎる! 頑張りすぎでは!? 病み上がりでやるような作業じゃないよね!? 完成前に逃げるつもりだったのに! 予想外だよ!
駆け寄ってくる少女に対して、若干身構える。
「あ」
うん? 少女はその場に立ち止まると、少し立ち尽くした後に踵を返し、母親のハンナさんの元へ戻っていく。
「あら? どうしたのリタ?」
そのまま母親のスカートを掴み、そこに顔を埋めている。
ははーん。なんとなくわかったぞ。謝辞を伝えに来た村の住人のほとんどは人間種で、獣人種の人は集まって来なかった。なんかチラチラこちらを伺っているのは分かったのだが、近づいては来なかったのだ。
分かっていたことだ。だからこそやばいんじゃないかと必死になって川での洗濯を繰り返していたわけである。
これはつまりあれだな。
ハンナさん。その子が変なことを言い出す前に向こうに連れて行ってくれないかな。ドラゴンゾンビを倒してから今までの、俺の頑張りが水の泡になってしまう。今日くらいは、村を救ったエルフのお姉さんでいさせてくれ。
リタはスカートに埋めていた顔を上げて、母親であるハンナさんを見上げた後、その口が開く。
頼む! ハンナさん! その子の口を今すぐ塞ぐんだ! 早く!
「セルビィお姉ちゃん……なんか臭ーい!」
「こらっ!」




