2 生活をする
親猫に言われた場所へたどり着いたさくらは、目の前に広がる水源を見て驚いた。
「富士山みたい」
湧き出る水は澄み切っていて、見ているだけで心を奪われるほど美しい。なにより、とても美味しそうだった。
「でも、生水はちょっと怖いなぁ」
そう呟きつつも、さくらは恐る恐る舐めてみる。喉に沁みるような冷たさに、不思議と大丈夫そうだと感じた。安心した彼女は思い切ってごくごくと湧き水を飲み、ひと息ついた。
一緒についてきた子猫たちも、ペロペロと楽しげに水を舐め、可愛らしく水分補給をしている。
「このお水は貴重だね。きっと冬に積もった雪が、こんこんと湧き出しているんだ」
さくらは日本の湧き水を思い出していた。世界の中でも日本ほど水資源に恵まれた国は珍しい。そんな記憶と重なるような景色に、胸がじんわりと熱くなる。
スカートの裾をたくし上げながら来た道を戻る。水を汲む器が欲しいと思いつつ、親猫が待つ場所へと帰っていった。
「場所はすぐにわかったようだな」
父猫が低い声で言う。
「うん、すぐにわかったよ。すごく綺麗で美味しいお水だった」
ふんと鼻を鳴らす父猫は、「それはよかったな」とでも言いたげな表情を浮かべた。
「さくらさん、よかったらこれを召し上がりなさいな」
母猫が肉を差し出してくれる。ありがたい好意だが、引きちぎられた生肉をそのまま食べられるほど、さくらの胃と腸は強くない。
「なにか切れるものはないかな……」
「そこらに黒曜石が転がっておる」
父猫に教えられた場所へ行くと、確かに黒く光る石があった。知識としては知っていたが、実際に扱うのは初めてだ。下手をして怪我をしないかと少し不安になる。
「えいっ」
石を手にとり、黒曜石をひたすら叩き割る。根気よく続けるうちに、なんとなく刃物の形が見えてきた。
「上手いものではないか」
父猫の言葉に、さくらは苦笑で応える。ナイフらしきものはできたが、次は肉の解体だ。
こんなことをしていると、日本の現代社会というものは、本当に文明が進んでいるとさくらは感じる。こうした作業は他の誰かが担い、その恩恵だけを受けて生きてきたのだと、改めて痛感していた。
意を決して獲物に刃を入れる。腕や脚を切り分けるたびに、気分が悪くなったが、それでもなんとか食肉の形に整えることができた。
「ふう……」
さくらは手と肉についた血を洗うため川へ向かう。この川も見た目は清らかだが、上流から何が流れてきているかはわからない。カタツムリや動物の死骸、目に見えぬものが潜んでいるかもしれない。寄生虫による腹痛で済めばまだよく、命を落とすことすらあるのだ。
そんな危うさを考えながら、さくらは手と肉を洗い、再び群れのもとへ戻った。
次は火おこし。絵本で見たように木を擦り合わせるだけでは埒があかない。そこで、先ほどのナイフで乾いた枝を割き、さらに石探しのとき拾っておいた瑪瑙を取り出す。ガチガチと石を打ち合わせ、白樺の樹皮に火花を散らす。
やがて火種が生まれ、炎は少しずつ大きな枝へ移り、ついには立派なキャンプファイヤーとなった。
「たいしたものだな」
「えへへ、すごいでしょ」
亀の甲より年の功。長く生きてきただけのことはあるらしい。
「ところで猫さんは火が怖くないの?」
「我にそんなものが怖いわけなかろう。それに猫ではない」
「ああ、そうでしたね」
さくらは苦笑しつつ流す。そして焼けた肉にかぶりついた。塩こそなかったが、それでも十分に贅沢な食事となった。
「はぁ……落ち着いたぁ」
満腹の腹をおさえ、天を仰ぐ。星空は相変わらず美しく、この空を他の誰が見ているのだろうと、ふと感慨に耽った。
「我はもう眠るぞ。お主も夜露に濡れぬよう、こちらへ来るのだ」
父猫はそう言って洞穴へ案内する。中は広く、藁が敷かれていた。しかしノミやダニが気になるので、さくらは石の上で眠ることにした。
翌朝。
痛みに軋む身体をなんとか起こし、洞穴の外へ出る。猫一家はすでに目を覚まし、くつろいでいた。
さくらもその輪に加わり、足を折り曲げて座る。すると昨日の子猫が膝の上にちょこんと乗ってきた。
「そやつはさくらを気に入ったようだな」
父猫がふんと笑う。悪い気はしないが、さくらは動物を飼った経験がない。夫の生前はそうしたこともなく、娘たちも望まなかった。
子猫はすぅすぅと寝息を立てはじめた。あやし方もわからず、さくらは幼いころの娘や孫を思い出し、その時と同じように背や頭を撫でてやった。
昨夜思い描いていたことを実行に移す。鍋が欲しい。
数匹の子猫を伴い(実際には勝手についてきただけだが)、粘土を探しに出かける。粘土を見つけ、混ぜる石も掘り当てると、釉薬を作り、鍋の形に成形して焼いてみる。
何度も割れたが、配合や焼き方を変えるうちに、ついに立派な土鍋が完成した。
「……お主はいったい何をしておるのだ」
さすがの父猫も、感心を通り越して呆れ果てていた。
「私はね、なんでもやらされたし、なんでもやってきたんだよ」
その口調は、若い見た目とは裏腹に、長い歳月を生きてきた者のものだった。百歳近い齢。その知識がここで役立つことに、さくらは嬉しさを覚える。
「今日から美味しい鍋料理ができるよ」
母猫はわくわくと浮き足立つ。さくらは山菜やキノコを昨日の肉と合わせ、土鍋で煮込んだ。小さな器によそって親猫や子猫に分け与える。
「これは、なかなかのものだな」
「まぁ……とても美味しいわ。さくらさん、お料理が本当にお上手ね」
親猫の二匹が口々に褒める。さくらも温かな食事に心から安堵した。こんな異世界の森の中で、鍋を囲んで食事ができるとは、誰のおかげなのか。
子猫たちもむしゃむしゃと夢中で食べている。その様子を眺めながら、さくらは思った。
——姿形は違えど、これは確かに、どこかで見た懐かしい光景だ、と。




