1 from Prologue さくらと猫家族
「ああ、とても幸せだったわ」
夫に先立たれた年老いたさくらにとって、娘夫婦や孫たちに囲まれ、その最期を看取られながら逝けることは—— 一人の人間として天寿をまっとうする時にまで、誰かが傍らにいるというだけで、なによりの幸福であった。
「でも……欲を言えば……」
さくらは、厳格な夫と結婚してからというもの、自分という存在をどこかに置き去りにしてきた。それが時代の空気であり、妻というものはそうあるべきだと、さくら自身も思っていたし、実際そう信じて生きてきた。だが、その価値観を子や孫たちに押しつけることは決してしなかった。
それでも——さくらには、ずっと胸の奥にしまってきた想いがあった。
自分を押し殺し、夫や子どもたちのために家を守ってきた人生。
その最期の最期になって、さくらはふと、それを振り返っていた。
「欲を言えば……定食屋か居酒屋を営んでみたい人生だった……」
ほんのわずかな悔いを抱えながらも、さくらは静かに天国へと旅立った。その瞬間は家族みな悲しみに包まれたが、やがて百歳近い大往生を迎えたその生涯を、笑顔とともに祝うこととなった。
「にゃんにゃんにゃん」
「うう……」
さくらは頭を打っていた。強くではないが、どうやら突然どこかから落とされたかのような浮遊感を覚え、そして地面に叩きつけられたようだった。
「にゃんにゃん」
「一体……なんだっていうの……」
しばらく気を失っていたのか、身体は横たわり、髪もバサバサに乱れている。
「にゃんにゃんにゃん」
「身体中が痛いわ……」
ようやくさくらは身体を起こし、頭を押さえた。血は出ていないようで、胸を撫でおろす。水色のワンピースを整え、土埃を払い落とす。髪もひどく乱れていたが、慣れた手つきで真ん中から分け、片側ずつ三つ編みにしていった。
「あら……なんだか髪がフサフサだわ」
気づけば毛量が増えている。そして、この空色に白の差し色が入った、異国情緒あふれる素敵なワンピース——これは一体なんなのだろう、と不思議に思った。
「にゃうにゃうにゃう」
「それにしても……綺麗な景色ね……」
遠くを見つめたさくらは、ふと「そういえば」と思い出す。ここ最近はずっと目の不調に悩まされていた。五十を過ぎて老眼が始まり、晩年には遠近両用メガネですら役に立たなくなっていたのだ。
だが、さくらは常々、人間の器官のなかで一番すごいのは“目”だと思っていた。耳は遠くなり、頭は混濁し、物覚えも悪くなる。それでも、天寿をまっとうするまで目だけは見えていたのだから。もっとも、メガネなしでは生活できなかったが。
そのさくらが——今は驚いている。
「ああ、夜のお星さまって、こんなにも綺麗だったのね」
「にゃんにゃん」
天を仰ぎ見ながら、これはきっと天国へ行く前の“虹の架け橋”なのだと考えた。神様がくれた、人生最期のプレゼントに違いない、と。
「いや、違うよね」
急に我に返り、顔に手を当ててみる。皺がない。あんなにも見るのが嫌だった鏡、その度にため息をついた皺が、消えている。
さらに触れた手にも、年齢を刻むはずの浮き出た血管がない。張りがあり、指も自在に動く。声を発してみれば、かすれや喉の違和感もなく、伸びやかに響いていた。
空色のワンピースからのぞく脛から足首まで、つややかに輝いている。
「うーにゃうにゃうにゃう」
「なんだろう……力がみなぎるよ」
さくらは立ち上がった。拳を握ると、爪が掌に食い込み痛みを覚える。あんなに辛かった腰や膝の痛みもなく、背筋はバネのように伸びている。
「わぁ……こんなに身体が自由に動くの、何年ぶりだろ」
「にゃんにゃん」
自然と笑みがこぼれ、声を立てて笑いながら、くるくると舞うように踊り出す。
そのそばで猫もピョンピョンと飛び跳ね、さくらに同調した。
「って、あなたはなぁに?」
ようやくさくらは、周囲の異様な雰囲気に気づく。いや、むしろあえて無視していたのだ。
「にゃんにゃん」
「あなたは……猫ちゃん?なのね。とても小さいわね」
さくらは猫と向き合った。猫もまたちょこんと座り、じっとさくらを見つめている。日本の猫とは少し違うが、猫と呼んでも差し支えはないだろう。
「あなたも迷子なの?どこから来たの?」
改めて周囲を見渡す。空には星が瞬き、後ろは森。闇にも目が慣れてきて、ある程度遠くまで見えるようになった。
その時——ザシザシと足音が響いてきた。
「あ……」
これはまずい、と直感する。熊か、オオカミか。野生動物なら、こんな小さな人間——とりわけ女など、一瞬で命を奪われてしまう。
足音はさらに近づく。もしかすると、この猫の親なのか——そう思いながら、さくらは身構えた。木の棒を拾い、戦闘態勢を取る。
——あれ?こんなに機敏に動けるものかしら、と、さくらは思った。
そして現れたその正体は——
「へ……?」
大きなネコのような動物たちだった。おそらく親猫であろう二匹に、いま自分のそばにいる子猫と同じくらいの大きさが数匹。どう見ても家族である。
だが、さくらが驚いたのはその親猫から発せられる“気配”だった。妖しげな光をまとい、うごめく妖気を放ちながら、鋭い視線でこちらを警戒している。
しかし——。
その圧倒的な存在感に反して、どう見ても姿はただの猫であり、恐怖などまるで感じないのだった。
拍子抜けしたさくらは、肩の力が抜け、両腕をだらんと垂らしてしまった。
「あなたたちは、この子の家族なの?」
思わず問いかける。もちろん言葉など通じるはずがないが、人間というものは動物に対しても、人間と同じように言葉で語りかけてしまう生き物なのだ。
——まあ、通じるわけないよね。
そう自嘲気味に笑ったその時。
「人間よ」
「え?」
さくらは耳を疑った。今なんて? 思わず親猫の顔を二度見する。
「人間よ。貴様はどこから来たのだ」
明らかに人語を話している。しかしその響きに、畏怖というものは不思議と感じられなかった。
「あの……私はどこから……どこにきたのか、わからないんです」
「なんだと」
改めて考えれば、ここは一体どこなのか。私は死んだはずなのに——なぜか若返った身体で、こんな場所に降り立っている。
「私は、さくらといいます」
とりあえず自己紹介をしてみた。正解などわからないが、会話が続いているうちは食べられたりはしないだろう。
「さくら、か。……まあよい。ついてまいれ」
尊大な口ぶりでいう親猫。抵抗する理由もなく、さくらは素直に従うことにした。横には、さきほどの子猫も寄り添って歩いている。
しばらく進むと、森の奥の少しひらけた場所に出た。そこには岩壁の一部に洞穴が口を開けており、どうやらこの猫の家族はそこで暮らしているようだった。
猫たちは散り散りになり、親猫とさくらだけが向かい合う。
「さて、さくらよ。お主はまず、何者なのだ」
「えっと……私は日本という国の……いえ、地球という惑星の人間です。わかりますか?」
さくらは日本、ひいては地球という天体の説明をあれこれと試みた。ここが地球ではない——その確信は、身をもって理解していた。
「なるほど……信じがたい話ではあるな」
「私もそうですよ。動物が言葉を話すなんて……」
「我は動物ではない。神聖なる魔獣だ。二度と間違えるな」
親猫は唸るように言った。だが、どう見ても猫でしかないので——怖さは感じられなかった。それは口に出さず、さくらはにこやかに応じた。
「それは失礼しました。ところで親猫さん、ここはどこなんですか?」
「ここは王都郊外の森だ。人間どもは危険ゆえ、めったに立ち入らぬ」
「王都……」
その言葉に、さくらは頭の中でいくつかの仮説を立てた。きっとここは、中世ヨーロッパ風の世界なのだろう——と。
「そっか。じゃあ、その王都に行けば生活することはできるのかな?」
「難しかろう。まず馴染めまい。その黒髪と、肌の色や目の色ゆえにな」
自分の姿を見下ろしてみる。親猫の言うとおり、この見た目の人間は浮いてしまうに違いない。
「じゃあ、どうしたらいいんだろう……」
ため息をつき、思わずうなだれる。このままこの猫たちに食べられて終わってしまうのか——そんな考えすらよぎった。
「我らと共に暮らすがよい」
「えっ? あなたたちと生活を?」
「そうだ。我が狩りをする。食に困ることはない。山へ行けば水もある。火も起こしてよい」
「……」
耳を疑った。猫と生活? しかも人間の特性に詳しすぎる。人間が肉を生で食べられないことまで知っているのだ。
「あの……それはありがたいんですけど……」
正直、さくらは困り果てていた。突然見知らぬ世界に落とされ、物語に出てくるような獣と会話し、当たり前のように一緒に暮らせと言われても……。
「なに、いずれは人間界に行けばよい。それまでは時折、街の近くまで行き、観察するのだ」
なるほど。それは助かる。いきなり今の姿で出ていって、言葉も通じるかわからない。そんな異国人が不審な動きを見せれば、すぐに捕まって処刑されるだろう。
「そっか……そうですね。それではよろしくお願いします、親猫さん」
「我は猫などではないわ!」
親猫は唸って見せるが、さくらには全く効き目がない。にこにこと首をかしげるさくらの横で、父猫はグルルと唸り、母猫はホホホと微笑んでいた。




