34.線香花火
(尚君……ひゃー、ヤバいヤバい。ひゃー)
今日の昼間、恋人の名前を初めて口にしただけで夜まで引きずる好実は、もはや中学生以下。
顔にも熱が籠りすぎて手でパタパタしていると、隣の弟は当然訝しげ。
「火照るの? もう更年期?」
恋愛経験もこれから積む予定の二十五歳なのに、もう更年期障害なんて……それだけは避けたいよね。
大丈夫だよ、ただの恋ボケだから。弟にだけはそんなこと言えないけど。
「るいー、うごくなー」
「いでっ、髪引っ張るなよー」
姉の隣で一緒にしゃがむ塁生は、ついでに五歳の甥によじ登られる。
髪まで掴まれながら、いかにも重そう。五歳はきついよね。わかる。
ただいま二歳の甥によじ登られている好実はまだマシだ。
でも塁生はいくら乱暴に扱われても十分耐えてあげる。意外にも好実と同じで、甥三人の言いなりになるタイプだから。
「おーい、花火なくなるぞー」
父親に呼ばれ、甥二人は叔父と叔母の背中からようやく離れた。
今は秋真っ只中だが、夏に残った花火を楽しむということで、好実も今夜実家に呼ばれた。
実家の庭には両親と兄夫婦、甥三人と姪、そして好実と塁生が勢揃い。
両親は相変わらずはしゃぐ孫達にニコニコ笑ってるし、子供達と一緒に花火をする兄夫婦も揃って笑顔。
一見、何の悩みもない幸せな家族風景か。
好実と塁生はすでにちょっと離れて、一足先に線香花火を始める。
そういえば塁生は昔花火を持った兄に追いかけられ、花火嫌いになったんだっけ。唯一嫌いじゃないのは線香花火。
塁生って、昔嫌いになったものはしぶとく引きずるタイプなんだよな。好きなものも然り。
「おい、それでどうだった?」
「え? 何のこと?」
「あれのことだよ。見つけたの? 近くにあるラブ……それらしき場所」
一緒に線香花火しながらコソコソ喋りかけてきた塁生は、兄の浮気調査に関する進行状況を尋ねているらしい。
一昨日、塁生が兄の財布から浮気場所を特定できるレシートを抜き取り、好実はそのレシートを元にラブホテルを探すことになったから。
でもすでに昨日小宮山さんを付き添わせ、目星をつけたラブホテルで張り込み開始したことを塁生は知らない。
きっと塁生は姉がもたもたして、まだラブホテルも見つけられない状態だと侮っているのだろう。
好実としてはそれが幸い。やはり弟まで張り込みに付き合わせるわけにはいかないのだ。
「まだ何も……もうちょっと様子見ようと思って」
「何だよ、この前は張り切ってたのに。浮気野郎許せん。私が兄の浮気を暴いてやるーって」
「ちょっと声おっきい。とにかく、まだ動くつもりはないの。ラブ……お兄ちゃんの浮気場所を特定したくらいじゃ、実際は動きようないしね。車もないし」
姉の偽りの諦めはちゃんと信じたのか、めずらしく塁生も最初から疑いの目を向けなかった。
「だよな。俺もそれがいいと思うよ。変に動けば、危ない目に遭うかもしれないんだから」
「うん、そうだね……」
塁生は単純に姉がラブホテル周辺でウロウロ嗅ぎまわるなどさせたくないのだろう。自分が付き添ったって、夜に一見不審な行動をすれば危険だって起こり得る。
すでに小宮山さんの協力を得て行動開始してしまった好実は、申し訳ないが弟の気持ちだけ受け取る。
ごめんね塁生。中途半端に協力させて、今は勝手に協力者から外しちゃうなんて。
でも姉は必ず小宮山さんと共に兄の浮気を突き止めてみせるよ。
「塁生、線香花火好きだよね。花火嫌いなのに」
「静かなのが好き。俺は線香花火みたいな人生を送りたい」
「……おじいちゃん?」
「うるさい。そっちこそ更年期のくせに」
二人で貶し合いながら笑い、線香花火をずっと続ける。
昔から塁生に付き合い線香花火ばかりやっていたからか、好実も線香花火が好き。
線香花火みたいな人生に憧れる塁生の気持ちも、実は同じく持っていたり。
静かに目立たずひっそりと、一生暮らしていければな。
でも、同じ気持ちを持つ塁生をもう巻き込んじゃだめなんだ。塁生と一緒じゃだめ。
目の前に見える兄と義姉みたいに、夫婦にはなれないのだから。
弟をもう縛りつけることなく、羽ばたかせなきゃ。
「好実、来年からは二人で毎年やろうね。線香花火」
現実は、弟がこうして姉を縛りつけているのかもしれない。
でも弟を傷つけないためにまた頷きで答える姉は、やはり弟を羽ばたかせないだけ。
姉自身が傷つけたって、弟をそうさせなきゃいけないのに、姉はまだ傷つけられない。
できない時点で、その怯えはまだ弟を離せない証拠。
姉自身がまだ弟離れできていないのだ。
一度は弟と同じく望んでしまった、弟と一緒の線香花火みたいな人生。
今は望んじゃいけないだけになった好実は、目の前の線香花火よりずっと先にいる兄夫婦の姿すら眩しく見えるのだ。
今は不協和音でも、堂々と夫婦として一緒にいられる二人だから。
間違っても弟と夫婦みたいになりたいわけじゃないのに、弟離れができない挙句、夫婦の肩書さえ憧れるなんて。
まだ子供みたいな心は、いつになったら成長できるのだろうか。
「塁生、花火撮るから動かないでね」
「動かせねーよ。線香花火なんだから」
せっかく季節外れの花火を楽しんでいるのだから、写真くらい残しておくことに。
「好実、食い物は撮らずに食っちゃうのに、花火は撮るんだね。食えないから?」
「うっさい。あっ、もうバケツが花火でいっぱい。交換してくるっ」
弟との線香花火を中断した好実は、他の家族が輪になって楽しむ傍へ近づこうとして、やはり邪魔せず庭の水道へまっすぐ向かう。
確かバケツはもっとあったはずなので、新たなバケツに水を入れて持っていくことに。
でも実はそんなの口実で、弟の傍から一度離れたかっただけ。バケツを探すフリして、スマホをこっそりチェック。
案の定、高城君からすでにラインが届いていた。しばらく花火をしていたので、気付くのもずいぶん遅くなってしまった。
さっそく確認すると、好実はすぐ小首を傾げることに。
『月が綺麗ですね』
ムム……確かに今夜は満月で、花火とダブルで綺麗なお月様だけど、これってもしや愛の告白ってやつ? 一応好実でも知ってるぞ。
へえ、高城君ってロマンチストな上、古風なんだな。彼みたいな美形があえてこんなことをするからこそ、様にもなるね。
こんな遠回しな愛の伝え方だって、現代の男性が用いることで逆にストレート。素晴らしい。
好実は照れることも忘れひとしきり感心させられたところで、再びムム?と考え直させられる。
やはり高城君のことだから、そんな深い意味はないかも。
だって今朝は『天気が良くて、太陽が眩しいです』とラインをくれたし、昨日だって『夕焼けが鮮やかです』と夕焼けまで撮って送ってくれたじゃないか。
そんなお天気ラインも思い出せば、何だ、今回も同じかと拍子抜けさせられる。
よくよく考えれば、どストレートな性格の高城君が『月が綺麗ですね』にわざわざ愛を込めないよね。
今回は単純に自分が勘ぐりすぎたと恥じたところで、好実はようやく返事をすることに。
でも、こっちだってもう用意しているのだ。さっきわざわざ線香花火を撮ったのは、こうして彼に送るため。
自分が今夜楽しんだことを、彼にもお裾分けしようと思って。それだけで、きっと喜んでくれるから。
……それと、いつか彼とも一緒に線香花火を眺められたらと、そんな望みも込めて。
「線香花火、誰に送ったの?」
「!!!」
庭の水道近くでバケツを探すフリをしていた好実は、結局ダラダラしすぎて発見される。
まさに飛び上がりそうになったが、振り返る前にスマホを取り上げられた。
もちろん、そんなことをするのは塁生。
姉のラインをチェックするなど当たり前の塁生は、自分の義務とさえ思っているのかも。親や先生が子供の悪事を見逃せないのと一緒。
「お、お父さん……じゃなかった。先生……じゃなかった。塁生」
「動揺しまくりだね。えーと、相手はN・T……ああ、高城さんね」
こうして塁生が高城君のことを一応は知っているのは、以前姉に届いた小宮山さんのラインから「高城さん」だけ入手したからだ。
そのまま塁生は高城さんとはどこの誰かを姉の口から白状させ、好実はバイト先のオフィスビルに勤める同中の知り合いで、バイト先の常連ということくらいは明かした。
一応信じた塁生は、姉のライン友達に追加された「N・T」という人物がその高城さんだとも、姉の口から確認済み。
もちろん高城さんを女性と信じさせた好実は、現在高城さんとラインしたって問題ないのだが、塁生に直接見つかればさすがに動揺してしまう。
でも大丈夫! 彼とのトーク履歴は実家に来る前にすべて消したし、現在トーク画面に残るのは『月が綺麗ですね』と線香花火だけ!
……ん? 月が綺麗ですねは本当に大丈夫か? 塁生も遠回しな愛の告白だと知っていたら怪しまれる?
「月が綺麗ですね……この高城さんってさ、おかしくない? いきなりこんなの送ってくるなんて」
「おかしくないよっ。マジで月綺麗じゃん。今日」
「そういうことじゃなくて、今まで好実とラインしてなかったのに、いきなり月が綺麗ですねは唐突ってこと」
どうやら遠回しな愛の告白とは勘繰られなかったが、塁生が今日も疑い深すぎて怖い。
高城さんの性別は女性と信じてくれたのだから、唐突の月が綺麗ですねくらい許してよ。もう……。
「あっ、そういえば今日高城さんがコンビニ来て、言ってたっけ。今日は満月で、しかも天気いいから見れそうだって。高城さんって天体観測が趣味らしいよ。彼氏の影響で」
「……へえ、それで好実はお返しに線香花火?」
「うん」
「高城さん、さっそくお礼の写真くれたみたいだよ」
「えっ!?」と思わず驚きすぎた好実は、先に塁生が確認してしまったそれをビクビクと確認。
高城君! 自撮りでお返しだけは絶対やめてね!
「ん? これは……ミートソースパスタ?」
「高城さんの夕食じゃない? すごいね。わざわざミートソースをハートにしてる」
高城さんのハート型パスタには興味なかったのか、塁生はようやくスマホも返してくれた。好実の代わりにバケツまで探し始めてくれる。
塁生の疑いから解放された好実はホッとする暇もなく、また高城君からラインが。
『ミートソースパスタ練習中。早く好実さんに食べてほしいな』
よかった。ここまでは塁生に見られなくて。
でもそんな安堵と共に、すでに好実の心にある彼への愛しさがしっかり膨らんでしまう。
以前、好実がパスタならミートソースが一番好きと教えたから、彼はただいま練習中なのだ。
健気とも言える彼に、愛しさが倍増しないわけなかった。
どうせ彼からのメッセージは、すぐに消さなきゃいけないけれど――――
『尚君の♡パスタ、食べたいな』
今日初めて口にした彼の名前を今も言葉にして、好実はちゃんと彼への愛しさを伝えたのだ。




