第百六十四話 パーティでは、羽目の外し過ぎにご注意を
助けを呼んでも、誰も来てくれない夜の山中を、俺は息を切らせて、優香から逃げ回っていた。
何も女子相手に逃げ回ることもないと思われそうだが、優香の手にはナイフがある。刃物を持った相手なら、たとえ女子でも、逃げたところで臆病者とはならないだろう。
「待ってほしいんなら、手に持っている物騒なものを捨てろ! そうしたら、考えてやる」
「考えた振りをして、また逃げる気でしょ? その手には乗らないんだから!」
ばれたか……。俺のことを知り尽くしている相手とやり合うのは、これだからやりづらい。
当初の予定では、虹塚先輩と共同戦線で、優香に対抗することになっていたんだけどな。先輩が駆けつけるより先に攻撃してきやがった。
全く……。いきなりナイフを取り出しやがって……。前々から危険なやつだとは思っていたが、今日のこいつは、一段とキレてやがる。もしかして、日中に、勝手に電話を切ったことを根に持っているのか? ありうる。こいつなら、ありうる!
咄嗟に避けまくっている内に、テントから離れてしまったじゃないか。きっと虹塚先輩、俺のことを心配しているぞ。それだけならいいけど、また拉致られたとか思われていたら、どうしよう。俺、結構やらかして、そういうイメージを持たれても、おかしくないところに来ちゃっているからなあ……。これが俗にいう、崖っぷちと言うやつか。
「大体……。万が一当たったらどうするんだよ。ここからじゃ、病院だって遠い。救急車を呼ぼうにも、現在地をどう伝えればいいんだよ!」
それ以前に、ここは携帯電話の圏外なので、そもそも外部と連絡することは出来ない。
「心配することないよ! 爽太君は強い子だからね! 耐えられる痛みよ」
「そこは、嘘でもいいから、痛くしないから心配しないでって安心させるところじゃないのか!?」
「あはははははは!! 爽太君ってば、面白~い! ナイフで刺して、痛くない訳がないじゃん。そんな冗談、何の気休めにもならないよ!」
それもそうか……。痛くしないって言われたところで、どうせ避けるもんな。
思わず反省しているところに、次の一撃が振り下ろされた。今日の優香は、会話する間も惜しんで攻撃してくる。
さっきから、ギリギリのところで躱してはいるが、だんだん息が上がってきている。なのに、優香は息一つ乱していない。ここまでの道中で、体力はかなり消耗している筈なのに……!
「もう! 逃げ回らないでよ」
「馬鹿か! 逃げないと、刺されるだろうが!」
「刺したいのよ!」
振り下ろす側と、避ける側で、単調な押し問答が続いている。会話はアレだが、どっちも本気だ。
「場所によっては、出血多量でただでは済まなくなるぞ。そうなれば、お前だってまずいんじゃないのか!?」
「大丈夫。輸血でも、臓器移植でも、何でもやって、命を無理やり取り留めるから。そうして、病院のベッドにグルグル巻きにして、安静にさせれば、ずっと私の側に置いておけるね♪」
「うわあ! 全くありがたくねえ! むしろ、死なせてくれ!」
聞きようによっては、寝たきりになった方が都合の良いみたいなことを言っているよ、こいつ。欲しいもののためなら、手段も容体もお構いなし。ヤンデレの極みじゃないか。
「用心棒はどうした……? いつも一緒のあいつがいないと、お前が小さく見えて仕方ないんだよな」
「用心棒……?」
お前がこき使っている大男のことだよ。あいつが悲鳴を上げるのを、確かに聞いているから、ここにいるのは間違いない。
「連れてきているんだろ? やつの雄たけびをしっかり聞いているんだ。とぼけても無駄だぜ」
優香は、ナイフを振り回す手を止めて、しばらく考え込んでいたが、ようやく思い当ったらしい。胸のつかえがとれたように、話し出した。
「ああ、あいつなら、うるさいから、向こうで眠らせているわ。あいつが用心棒? 冗談は止めてよね。足手まといの間違いでしょ」
「だったら、何で連れてきた……?」
強制とはいえ、尽くしているのに、忘れられるわ、足手まとい呼ばわりされるわ、散々な扱いだ。あいつのことは大嫌いだが、同情してしまいそうになるよ。
しかし、あの男がいないのはきついな。優香サイドの不安要素なのに。実際、あいつが悲鳴を上げてくれたおかげで、こっちは優香の来襲を知ることが出来て助かっているのだ。
「本当に……。当たらないなあ……。ちょこまかと逃げて……。これじゃ、陽が昇る頃になっても、壊すことが出来ないじゃん」
「壊す、か……」
今、はっきりと理解出来た。優香にとって、俺はただのお気に入りのおもちゃなんだ。俺に好意を持っているといっても、それは愛しているではなく、少女が人形を愛でているのと同じ感覚なのだ。
自分の手の中にある時は愛情をたっぷり注ぐが、意にそぐわないことをすると、強い敵愾心を持つようになる。優香にしてみれば、俺など血の通っている人形に過ぎない。だから、平気で傷つけられる。もし、やり過ぎて、おもちゃが壊れるようなことになっても、多少残念に思うだけ。駄々っ子が癇癪を起こして、自分のおもちゃを床にたたきつけるのと、同じ理屈なのだ。
なんだかんだ言っても、優香は、俺のことが好きなんだから、一線を越えることはないだろうと安易に考えていた時期も、正直あった。
だが、ナイフを易々と振り下ろす優香の色彩のない瞳を見ている内に、その考えは、完全に霧消した。
こうなると、俺も覚悟を決めなければいけない。逃げる足を止めて、息を大きく吐きながら、素早く振り返った。
「あ! やっと私に刺される決心がついたんだね」
「まさか!」
懐から、咄嗟に出したバタフライナイフで、優香のナイフを受け止める。辺りには、乾いた金属音が響いた。
「念のために……、持ってきておいて正解だったよ」
俺は根性なしだから、もし必要になっても、ブルって使えないだろうと思っていたが、追いつめられるとアッサリいけるものなんだな。
妙な感動に浸る俺を、渾身の一撃を受け止められた優香が、心外といった眼差しで睨んできた。
「何よ……。私に散々言っておいて、爽太君も持ってきているじゃない」
「使わないで勝つつもりだったんだよ。お前一人なら、楽勝だと思ってさ」
「何ですって……」
追いつめたと思ったネズミからの、まさかの挑発に、優香の目が血走っていく。色彩のない黒目に、血走った白目。なかなか恐怖を刺そう眼差しじゃないか。
さて。大見得を切ったのはいいけど、この先どうしようか。俺は優香と違って、まだまともなので、人を刺すことには抵抗を覚えてしまうんだよな。




