72話 晩夏の夜の夢
ロベリアは鏡をまじまじと見返した。
この部屋に自分以外誰もいないはずなのに、ぼんやりと肩のあたりに丸いものが映っている。
「この人って……」
ごくり、と喉が鳴る。
半信半疑の占いだったけど、本当に実現するとは思ってもみなかった。
誰だろう? よく目を凝らしてみれば、肩のあたりに映ってる丸いものは薄っすら赤い。いや、ただ赤いのではない。あれは――赤い髪――、そして――、
「主、なにをしてる?」
「ひ、ひゃあっ!?」
唐突に振ってきた声に、ロベリアは弾かれたように振り返った。あまりに勢いよく振り返ったものだから、足もとがおぼつかなくなり、そのまま後ろに転んでしまいそうになる。
「危ない!」
背中に手が回る。
完全に転倒する前に、ナギが人化して抱きかかえてくれた。
「こんな夜中に……一体、どうした?」
ナギは心配そうにのぞき込んでくる。声にも不安と焦りの色が混じり、全力で案じてくれていること肌で感じる。
「目が覚めたら、部屋にいないから心配したぞ」
「ご、ごめんなさい」
ロベリアは慌てて謝罪した。
「ちょっと、占いを試してみようと思って……」
ロベリアはなんだかいたたまれなくなって手で顔を覆った。沸騰したお湯を被ったかのように、顔が真っ赤に茹であがっている。手のひらから伝わる顔の熱を感じ、さらに恥ずかしくなって顔が赤くなってしまう。
「そ、その……ほら、昼間、レベッカと話していた占いよ」
「……ああ、結婚相手が見えるってやつか」
ナギは「そんなことか」と呆れたように息を吐いた。
「てっきり、またどこか遠くへ行ってしまうのかと思った」
「ナギに黙って出かけるなんて、もう二度としないわ!」
ロベリアが否定すれば、ナギは分かってると言わんばかりに頷いた。
「とりあえず寝たらどうだ? 明日も早いからな」
ナギはそれだけ言うと、ロベリアを抱いたまま歩き出した。
「ナ、ナギ?」
「また転んだら大変だ。主は夜目が効かないからな」
ナギは平然と答えるが、ロベリアにしてみればたまったものではない。普段もこうして抱き上げられると、ナギの顔が近くなって無性に恥ずかしさが込み上げてくる。慣れないことをされているような、早くこの場から逃げ去りたいような、それでいて、もっとこの時間を大切にしたいむずかゆい思いが心を揺らすのだ。
その気持ちが、いまは絶賛増幅中。
心から熱と共に感情があふれ出して、口から言葉として飛び出てしまいそうだ。
「どうした?」
ロベリアが口を結び、小さく縮こまっていれば、ナギは怪訝そうに眉を寄せた。
「顔が真っ赤だぞ? 熱があるわけではなさそうだが」
「――っ、ん」
ロベリアは答えかけたが、すぐに手で口を押える。
余計な気持ちまで零れ落ちてしまいそうで、心の中で数を唱えて気持ちを落ち着かせようとした。いつも感情が高まったときにするように、ゆっくりと数を唱えていく。
「…………ごめんなさい、ナギ。ちょっと、びっくりしちゃって」
10まで唱える頃には、ロベリアの心も冷静さを取り戻しつつあった。
「ほら、鏡に結婚相手が映るって占いのことよ。ナギが映ったから、びっくりしちゃって」
ロベリアは恥ずかしさを誤魔化すように笑った。
「ちょうどいいタイミングで、ナギが映ったんだもの」
「俺が?」
「最初、赤い髪が映ったの。いったい、誰だろうってよくよく見たら、ナギだったのよ」
ナギが気配を消して後ろにいたのなら、それは映って当然である。
ひとりで占いが本当だったと驚いて、しかも、相手がナギだったから慌てふためいて、顔を真っ赤にするなんて――うら若き乙女みたいだ。自分には似つかわしくない反応だと思うと、さらに恥ずかしさが増してしまったが、さすがに顔の熱は引いてきていた。
「赤い髪……?」
「ナギが映ってる分かったとき、後ろから声をかけられたから……私、とても驚いたの。びっくりさせてしまって、ごめんなさいね」
ロベリアは謝ったが、ナギは釈然としない顔をしている。ナギは何度か目をまばたかせ、考え込むように俯き、小さく首を横に振った。
「ナギ?」
「主は、占いの相手が誰であって欲しかったんだ?」
ナギは、ハッとするくらい真剣な声色で尋ねてきた。
「結婚したかったのか?」
ナギの双眸は、暗闇の中でも、夏の木々のような緑の瞳が異様なまでにぎらぎら輝かせている。
ロベリアは彼の瞳を見つめ返し、さして悩むことなく答えた。
「私がいなくなったら、ナギが寂しいでしょ? だから――」
「そんなこと言わないで欲しい」
ナギは途中でロベリアの言葉を遮った。
「俺は主のいない世界を考えられない。だが、その未来を危惧する必要はない」
ナギは断言する。
夏の木陰で涼んでるような爽やかで幸せそうな表情のまま、ロベリアを見おろしてした。
「いま、主と過ごしている。この思い出があれば、十分に生きていける」
「……そう」
「だから、余計なことを考えなくていい」
その頃には、部屋の前についていた。
ナギはロベリアを右手で抱えたまま、左手で器用にドアを開ける。
「先に寝ていてくれ。ちょっと台所に用があってな」
ナギはロベリアを部屋に押し込むと、扉を閉めようとする。
ロベリアは待ったの声を上げようとしたが、ナギはなにか思い出したように――しかし、あれほどロベリアを見つめていた視線をあらぬ方向へ逸らし、補足するように呟いた。
「言い忘れた。主が鏡の前で振り返る前まで、俺はドラゴンの姿だったぞ」
「…………え?」
「主が転びそうになったから、この姿になったんだ」
ナギは短く告げると、こくこくと首を捻った。そのまま羽を大きく広げて器用に宙返りをし、ドラゴンに戻ると、短い腕で扉を閉める。
「……えっと、待って」
ロベリアは石になった。
扉の向こうで、ナギが空を飛びながら遠ざかっていく音が聞こえてくる。
いつもなら、「ナギを手伝いたい」と思って追いかけるのに、足がまったく動かない。
「待って、嘘でしょ」
せっかく引きかけていた熱が一気に高まる。頭を沸騰させそうなくらい高まった熱のせいで、ロベリアはくらくらとふらつく足でベッドまで下がった。
「あれは……あのとき見えたのは、現実のナギではなかったってこと?」
羞恥のあまり火照った顔を覚ますように、ロベリアは枕を顔に押しつける。
夜の闇が見せた幻覚か、はたまた本当に占いが現実のものになったのか……。
「……寝よう」
きっと、いまのことも全部夢。
もう一度寝れば、真夜中のことも全部夢だったって分かるはず。
ロベリアは現実逃避するように目をつぶったが、頬の赤みが消えることはなく、なかなか寝つくことはできなかったのであった。




