67話 夜明けの一杯
「……ぅ、ん」
深く沈んでいた意識が、ゆっくりと浮上する。
ロベリアはぼんやり周囲を見渡すと、カーテンが揺れていることに気づいた。そういえば、夜中に暑さで寝苦しく、開けたんだっけ……と、瞼をこすりながら思い返す。
窓から淡い藍色が差し込み、カーテンの影が床で揺れているのが見えた。
鶏たちの鳴き声も聞こえず、まだ夜明けには少し早いらしい。
「……もう少し、寝ようかしら」
足が鉛のように重く、頭にどんよりとした靄がかかっているような気がする。
王都から戻ったばかりなこともあり、身体の奥に疲れが残っているのかもしれない。
もう一度、寝返りを打とうとする。
眠ろうと目を閉じたが、ふいにお茶の香りが漂ってきた。
もしかして、ナギがお茶を淹れているのだろうか?
「まだ、日が昇ってもいないのに……?」
疑問ばかりが芽生えてくる。
「朝になってから、理由を尋ねたらいい」と、このまま二度寝したい気持ちもあったが、ほんのりと甘いようなお茶の香りが気になって仕方ない。
気付いたときには、ロベリアはガウンを羽織っていた。どこか気怠い脚をひきずるように、香りの方へと歩き出す。
ほのかな香りは廊下を伝い、台所の方から漂ってくる。夜明け前に、こっそり起きたこともあってか、ロベリアは何となく足音を立てないように、こっそりこっそり香りの根源へと進んでいた。
近づくにつれ、香りだけではなく、かちゃかちゃと茶器を動かす音まで聞こえてきた。
とんとんと床を叩く足音も聞こえてくることから察するに、ナギは人の姿をとっているのかもしれない。
「ナギ、おはよう」
ロベリアが台所を覗き込めば、赤毛の青年がこちらに背を向けて立っていた。
「む、主。起きたのか?」
ナギはロベリアが起きてきたことに、少しばかり驚いたように瞬きをしていた。
ちょうどお茶を淹れたばかりなのか、用意されたカップからは湯気が昇っている。
「朝仕事には、まだ早いが……」
「目が覚めちゃって……お茶、淹れたの?」
「あ、いや。これは、俺の分で、主に飲ませられるものでは……」
ナギはそう言って目を迷わせる。
だが、ナギはそうは言いながらも、お茶のカップはロベリアの分まで用意されている。自分の白磁のカップに、淡いお茶が注がれているのを見て、ロベリアは思わず目を見張ってしまった。
「もしかして、私が起きてくることが分かっていたの?」
「そういうわけではなくてだな、その……」
「では、どうして?」
ロベリアの問いかけに、ナギはすまなそうに目を逸らす。
先の言葉を飲み込むように奥歯を噛みしめると、やや難しい表情になった。
「ナギ?」
「……レベッカさんに貰った茶葉を使った。あの人は、俺たちが急に帰るかもしれないって思ってたんだろうな」
ロベリアが声をかけると、ナギは諦めたように肩を落とした。そのまま、長い指先をテーブルに向ける。彼の指先を辿れば、紫色の小ぶりな花や可愛らしい小動物が描かれた黄色の缶が鎮座されていた。
「これ……かなり高い品よ」
間違いなく、王室御用達の茶缶であった。
「レベッカさんが『ナギ君もお茶が好きだから、お土産に』と」
「レベッカったら……」
ロベリアは茶缶を見つめながら、目元を緩ませていた。
今回、何度となく助けてもらい、滞在先を提供してもらったことに加え、ナギにお土産まで用意してもらったとなれば申し訳なさすぎる。
ほとぼりが冷めた頃、彼女とティモシーに贈り物をしよう。
レベッカは「当然のことをしたまで」だと言い張るかもしれないが、友だちだからこそ、ちゃんと真摯にお礼をしたい。
しかし、まだ疑問が残る。
「でも、どうして……ナギは、私の分まで淹れていたの? その説明にはならないわ」
「ここまで高そうな茶葉だ。きっと、主も気に入ると思ってな。だが、主に飲ませる以上、しっかりと練習したものを出さねばならない」
「そんな気を使わなくてもいいのよ?」
ロベリアは、少し驚いて幾度か瞬きをした。
「だって、ナギはお茶を淹れるのが上手じゃない。私、ナギの淹れるお茶が好きよ」
「そう言ってもらえると嬉しいが……練習中なんだ」
「……そう、分かったわ」
今度は、ロベリアは肩を落とした。
目の前に美味しそうなお茶があるというのに飲めないのは、ちょっぴり残念だ。しかし、ナギが練習中で飲ませたくないというなら仕方ない。
「練習が終わったときに、淹れてくださいな」
ナギに無理強いして、これ以上困らせたくない。
それに、こうしてやりとりしている間にも、お茶がどんどん冷めてしまう。熱すぎず、冷めすぎず、ちょうどよい頃合いに飲まなければ、練習の意味がなくなってしまう。なにより、せっかく淹れたお茶に対して申し訳が立たない。
ロベリアは唇を結び、ぐっと我慢する。
ところがだ。
「……主。これを」
ことん、とナギがカップを差し出して来た。
「いいの?」
ロベリアは湯気の立つカップに目を落とし、それからまじまじとナギの顔を見つめた。
ナギは恥ずかしそうに顔を逸らすと、ほんのり赤く染まった頬を掻き始めた。
「練習中の一杯でよければ。その……主の飲みたそうな顔を見てると、俺だけ飲むことの方がむずかゆい」
「私、そんなに欲しがりな顔をしてた?」
ロベリアが尋ねると、ナギは顔を逸らしたまま頷く。そんな彼の様子を見て、ロベリアは顔に熱が集中するのを感じた。そんなに物欲しそうな顔をしていたなんて、なんてはしたないのだろう!
「あ、ありがとうございます」
ロベリアは恥ずかしさを一旦飲み込み、カップに指を伸ばした。
せっかく、ナギが飲んでいいよと勧めてくれたのだ。感想を求められても「気恥ずかしさのせいで、味を感じませんでした」なんてこと、絶対にしてはならない。
「では……いただきますね」
淡いオレンジ色をしたお茶からは、優し気な香りが湯気に乗って漂ってくる。香りも水色も文句なしだ。
「む。温かいうちに飲むといい」
ナギの緊張した声に勧められるがまま、ロベリアはお茶を口に含んだ。
「……美味しい」
ふいに、口から声がこぼれた。ふんわりと花のような甘い香りが口に広がった。舌が渋みも感じ取ったが、上品な甘さを損なえるものではなく、むしろ程よく引き立てているようだ。ゆっくりと舌で転がし、こくりと飲み込む。ほどよい温かさと一緒に、爽やかな味わいが喉奥を通り過ぎていく。
「……美味しい。本当に美味しい!」
お茶が喉を伝い、ここ数日の疲れで気怠い身体を癒すように染みわたっていく。ずっと、この美味しさの余韻に浸っていたかった。
「本当に? なにか、不満な点は?」
ナギが不安そうに尋ねてくる。
「まったくないわ。これまでに飲んだお茶のなかで、一番美味しい」
「本当の本当に?」
「私、嘘は言いません」
純粋な感想を伝えると、ようやく、ナギの不安そうな表情が和らいだ。
「……そう、か。よかった!」
どこか照れくさそうに、真一文字に結ばれていた口元を綻ばせる。ナギの安らかな表情を見ていると、ここに越して来た初日のことを思い出した。
ナギがロベリアの淹れたお茶を「美味しい」と喜んでくれてから、数か月余り。
ナギが少しずつ自身の腕を磨き、ロベリアの腕前を完全に超すほどまでに成長したのだと思うと、ひどく感慨深く、少しだけ寂しくもなった。
「……私も負けていられないわ」
ロベリアは意気込みを新たにすると、お茶菓子でも用意しようかと立ち上がった。
「主はおとなしくしていろ。まだ眠いだろ?」
「大丈夫。ナギの淹れてくれたお茶のおかげで、すっかり目も覚めたから」
「それは、気のせいだ。俺がとってくる」
ナギは、さっさと部屋から出て行ってしまった。
「……気のせいではないのに」
ロベリアは呟いてみたが、ナギは聞く耳を持ってくれない。ロベリアは仕方なく片づけをあきらめると、ため息とともに立ち上がった。
いまからベッドに戻ってもよいが、目覚めたときよりも身体が軽くなっている。
「このまま、鶏の世話をしに行こうかしら」
ロベリアは窓に目を向ける。
うっすらと東の木々の縁が白く染まり始めているように見えた。太陽が顔を出し始めたのだ。一番鶏が鳴くまで、あと数分といったところだろうか。
お茶菓子を食べて一息ついたあと、家畜小屋に向かおうとしよう。
今日は、朝早く起きたので、きっと一日が長くなるはずだ。
ロベリアが新しい朝の訪れに心を弾ませていると、再び足音が聞こえてきた。
ロベリアはナギのいる方へ振り返り、「どんなお菓子を持ってきたの?」と尋ねようとしたとき、思わず言葉を呑んだ。
「主」
ナギの手には、ロベリアの知らない木箱が抱えられている。
お菓子でもなければ、スコーンやパンの入った箱でもなく、果物が詰められているようにも見えない。
ロベリアが困惑していると、ナギはゆっくり口を開く。
「どうしても、主に話したいことがあるんだ」
ナギは、穏やかな水面のような優しい声色で話し出すのだった。




