64話 黄金の鐘
「死になさい」
ロベリアに向かって、セイレーンの剣が無慈悲に振られた。
足元は狭く、轟々と風が吹き荒れている。背後には黄金の鐘、前方にはルージュの身体を乗っ取ったセイレーン。
「ッ、簡単に死ぬものですか」
しかし、避けられるはずもない。
剣が迫ってくる。その切っ先が身体を貫く瞬間、わずかに身体を逸らすのが精いっぱいだった。
「うっ!?」
剣先が脇腹を貫通する。
激しく熱っせられた鉄棒で肌をえぐられたような痛みが、腹部から全身に広がっていく。強烈な痛みで足に力が入らず、そのまま座り込みそうになった。全身から血の気が一気に引いていき、だらりと両腕が垂れてしまった。痛みのせいか、血の気が失せていくせいか、世界が一段階、また一段階と暗みを帯びる。
そのような世界のなか、セイレーンの不敵な笑みだけがハッキリと見えた。
「ふふふ、簡単に死ぬもんかですって? お馬鹿さん、このまま死ぬのよ」
セイレーンはロベリアの耳元に口を近づけると、蠱惑的な声で話し始めた。
「それじゃあね、ロベリア。これで、貴方は終わり。私には勝てない。一生負け犬のまま」
「……」
ロベリアは何も答えない。
それに気を良くしたのか、セイレーンはますます笑みを深めた。
「お願いだから、鐘を鳴らし終えるまでは死なないでね。せっかくだから、貴方に最後まで聞き終えてもらいたいわ。ふふふ……絶望でしょ?」
「……」
ロベリアは口元を緩めた。
セイレーンの言う通り、たしかに絶望的状況だ。心なしか、耳元で聞こえているはずの声すら遠くに感じる。腹部から血が流失し、剣が刺さっている個所以外の全身が急速に冷えていく。
だが、このまま簡単に死ぬわけにはいかない。
むしろ、この状況は……
「いい、え」
やっとの想いで、言葉を口にする。
いつのまにか、口のなかは鉄の味で満ち、口から言葉以外にも血の塊が溢れだした。
「この程度で、私が、諦めると思って?」
ロベリアは、だらりと伸びていた左手の先をポケットに入れる。
ほとんど密接したこの状況ならば、セイレーンも避けることができまい。
セイレーンも何かを察したのか、すぐに距離をとろうとする。だが、そうやすやすと逃がして溜まるものか!
ロベリアは右手を持ち上げ、セイレーンの腕を強くつかんだ。ロベリアに刺さったままの剣を抜いて去ろうとする手を逃がすまいと、必死になって力を込めた。
「っく、離せ!」
「離す、ものか!」
この好機、逃すわけにはいかない。
ロベリアはポケットから最後の解毒薬を取り出すと、セイレーンめがけて思いっきり振りかけた。
「あ、あああ!」
セイレーンはロベリアから転がるように離れた。見た目は変わっていないのに、解毒薬が触れた個所に激痛が走っているらしく、身体をよじりながらひどく悶えている。
「予想、的中ですわ」
ロベリアは悪戯っぽく笑った。
解毒薬がセイレーンの魅了を打ち消す効力があるのであれば、セイレーン本体にも効果があると考えていたが、どうやら間違いではなかったらしい。
「いま、鐘を鳴らせば!」
ロベリアは駆けだした。最後の力を振り絞って、石の床を蹴る。剣が刺さったままの腹部を押さえながら、よろめく足を懸命に動かす。
ロベリアの足を止める者は、今この瞬間、誰も存在しない。
鐘の下に置かれた槌を拾い、黄金の鐘の前に立った。
「どうか、セイレーンの力が消えますように」
この国を支配しようと企んでいた者が、力を失せますように。皆の目が覚めますように……、ロベリアは心からの祈りをこめて叩いた。
緩やかな音だった。
こんなに近くで鳴っているというのに、耳障りな騒音は感じない。それなのに、とても大きく、この国全体に響き渡るのが分かった。鐘の音は国中の者の心を揺り動かし、呼び醒まし、胸に抱いてしまった悪いものを溶かすかのように、ゆるやかに伸び広がるように長く響いていく。
ロベリアが鐘の音に聞き入っていると、脳裏に不思議な光景が映った。
この国のすべての者が、この鐘の音を聞いている。
ロックベリーの街で、フローライトとジェイドが驚いて椅子から落ちかける姿が見える。酒を飲んで店番をするメイが、慌てて窓に駆け寄っていた。ドラゴンたちによって地に落とされたクレアは、苦し気に空を見上げ、ドラゴンたちもそれに続く。ティモシーと一緒に逃走を繰り広げていた大臣は驚きのあまり足を踏み外し、盛大に転んだ。アーロンは折れた杖で騎士と鍔迫り合いをしていたが、音に気づいて戦いの手を止める。祝福の音は、地下のレベッカにも届いていた。鎖に繋がれ、拷問を受ける直前、尋問官は力が抜けたように立ちすくんだ。レベッカは冷たい天井を見上げ、いつものように軽快に笑った。
「ロベリア……やったんだね」
自分の知っている人、知らない人、そのすべてが脳裏を走馬灯のように駆け巡る。
鐘の音が徐々に遠ざかるにつれ、幻想は消えていく。
ただ……魅了の解除に成功した事実だけ、すとんっと心に残った。
「はぁ……はぁ……とりあえず、この、剣を……」
ロベリアは剣を引き抜いた。
不思議なことに、痛みは感じなかった。刺さっていた個所の服が裂けているだけで、肌は綺麗なままの状態を保っている。
これも、黄金の鐘の副作用なのかしら……と、ロベリアが不思議に思っていた、そのときだった。ロベリアの足に、強い力がしがみついてきたのだ。
「おまえ、ころして、やる。おまえ、だけでも……!」
ルージュの身体から出たセイレーンだった。
ロベリアの足を痕が残るのではないかと思うくらい強く握りしめ、魚の下半身で強く床を跳ねる。
「あ」
ただでさえ、狭い空間だ。魚が跳ねれば、軽く外に放り出されてしまう。つまり、セイレーンにつかまれていたロベリアも同じで、振りほどくだけの力はなく、共に落下した。
「ふ、ふふ、あははは! これで、終わりだ。聖女! お前は成し遂げたが、その先の世界に生きることはできない!」
ざまあみろ、とセイレーンは断末魔の叫びをあげる。
鐘のところに立っていた時以上に、風が強く吹き荒れている。近くの石壁をつかもうとしたが、この突風はロベリアたちの小さな身体を吹き飛ばし、壁へと近づけさせてくれない。
「……そう。こういう結末なのね」
いまも目が回るような速度で今までいた場所が遠ざかり、風の音なのか耳鳴りなのか、はたまた未だに鳴り響く鐘の音なのか、あるいはそのすべてが合わさったような轟音と重圧が、ロベリアとセイレーンを襲っている。
怖い。ずっと、ここまでありとあらゆる恐怖を押し殺してきたが、もう心が限界で悲鳴を上げている。このまま事態が好転しなければ、確実に近づいてくる死に怯え、泣き叫んでいたかもしれない。
しかし……、ロベリアは覚悟を告げた。
「でも、かまわないわ。お前が、確実に滅びるなら」
セイレーンのいない世界に生きることができないのは、泣きたくなるくらい悲しい。だけど、これならセイレーンも本当に死ぬ。ならば、それで問題がない。セイレーンのような害悪がいない世界で、ナギや他の皆が平和に生きていけるのであれば、それで構わないのだ。
ナギと再び会えずじまいになってしまったことが、一番寂しいが……それは望みすぎ。
ロベリアは、静かに目を閉じた。
「主!」
初め、幻聴だと思った。
死ぬ間際に、聞きたかった人の声が耳の奥に蘇っただけなのだと思った。
「主! すぐ行く!」
血縁がなくても、血の契約とやらがなくても、大事な家族の声が確実に近づいて来る。
「大丈夫か、主」
誰も止めることのできないような落下が止まり、熱い腕のなかに飛び込んでいた。
「え……ナギ……なん、で?」
そっと目を開けてみれば、真夏の木々の葉よりも輝く深緑色の瞳が目に飛び込んできた。ナギが赤髪を乱し、不安そうにこちらを見つめている。けれど、ロベリアが大丈夫と微笑みかければ、安堵の微笑をもらした。
「よかった」
ロベリアを横抱きにし、ほっと息をつく彼の額にはうっすらと汗をかいていた。赤い髪が少し額にはりつき、汗で湿っているように見えた
「まったく。主はいつも危なっかしい。さてと……」
ナギはロベリアの足につかまっている魔物に、冷ややかな目を向ける。
「翼の生えた人……まさか、ドラゴンか?」
「こいつのせいで、主が苦しめられたのか」
すでに死にかけの魔物は、天から降りてきた幸運にすがりつくように、ロベリアの足にしがみついていた。
「そこのドラゴン、助けておくれ」
セイレーンはナギをうるんだ目で見上げる。
「あんた、男だろう? 欲しいものはなんだい? 欲しいものはなんだって、与えるよ」
セイレーンはうっとりと甘えるような声で、ナギに向かって言葉を投げかける。ナギはそれを黙って聞き終えると、一度だけ目を閉じた。
「……そうだな。俺はこいつに感謝している。こいつのおかげで、主と出会えた事実には変わりない」
ナギは淡々と言葉を述べた後、緑の瞳を開く。先程まで、ロベリアに向けられていた暖かみは一切なく、強い軽蔑の色で満ち溢れていた。
「だが……お前は、主を十何年も苦しめた。感謝よりも怒りが遥かに大きい」
「そ、そこをなんとか……!」
「落ちろ」
ナギは長い脚を上げると、セイレーンの頭を割る勢いで鋭く振り降ろした。
「ぐ……っ、は」
セイレーンは白目をむいた。あっけなく、ロベリアの足から手を放し、くるくると回転しながら落下する。だが、完全に地表に到達する前に、砂のように身体がちりちりになり、最後は突風にかき消されるように失せた。
「……滅せられたのかしら?」
「気配はない。完全に消失した」
ナギはしばらくセイレーンの消えた個所を睨みつけていたが、ロベリアの方を向いたときには、いつもの優しい瞳に戻っていた。
「……ナギ、貴方……怪我はありません?」
「問題ない。クレアと別れたあと、レベッカの家を訪ねたが誰もいなかったのでな……主と一緒に、登城したのだと思ったんだ。だから、一直線に飛んできた」
「ドラグーンは? 城を守っていなかったの?」
「クレアを捕えたから、警備が緩くなっていたのだろうな。簡単に侵入できた。ほら、俺は傷一つ負ってない」
「……よかった。怪我は、ないのね。よかった……」
ロベリアは目を閉じると、ナギの胸元に頭を傾ける。とくん、とくんとナギの心音と腕に包まれている温かさを感じれば、ようやくすべてが終わったのだと実感が湧いてきた。
「さて、このまま上昇するぞ。あの鐘まで戻るか」
「……ごめんなさい。もう少しだけ、このままに」
自分でも何を言っているのか分からなかったが、しばらく二人で浮かんでいたかった。
「……分かった」
ナギが少し驚くのを感じたが、深くは聞かずに同意してくれる。
「ありがとう」
ナギの体温を一番近くで感じながら、ロベリアは微睡むのだった。




