60話 果てしない暗闇の先で
「誰もつけてないな?」
エリックは厳しい表情で何度も振り返り、辺りを気にしながら先へと進む。
「ひとまずは。ですが、油断は禁物ですわ」
いまのところ、人の気配はないが、いつ見つかってもおかしくはない。
「もちろんだ」
エリックは素早く周囲に目を奔らせると、ちょうど左側にかけられた赤いタペストリーをめくる。そこには、人が一人通るのがやっとの暗い回廊が続いていた。
「さあ、中へ」
まず、エリックが中に入り、アーロンがロベリアを奥へと押し込んだ。風の通り道になっているのか、涼しい風が吹きつけてくる。しばらく、腰をかがめながら狭い回廊を進み、背後のタペストリーの深い赤色が点になるくらい遠ざかった頃、エリックはようやく歩みを止めた。
「よし、ここで曲がる。気をつけろ、きわめて危険な道だ」
エリックは短く言う。ひそめるほど小さな声だったはずなのに、小さな通路に反響してやや大きく聞こえた。
「分岐路が多い。ここで迷ったが最後、一生出られなくなる可能性もある。ロベリアは、私の袖をつかめ。アーロンはロベリアのローブを」
エリックは口早に告げると、ゆったりとした歩みを再開した。
ロベリアは彼の言った通り、エリックの袖をつかむ。すぐうしろで、アーロンがローブの端をつかむのも感じた。通路を曲がったことで、後ろから届いていたわずかな光も途絶え、完全に周囲は闇に包まれた。灯りもない道は、新月の夜より暗い。どんなに進んでも闇に眼が慣れず、そのくせ、後ろから何かが迫ってくる気配だけは敏感に感じる。もちろん、アーロンだと分かり切っているが、息が詰まりそうだ。あまりにも暗いので、一人だったら先に進む気力まで奪われていたかもしれない。
果てしない闇の中で思い浮かぶのは、やはりナギの姿だった。
心にナギの姿を描けば、なけなしの勇気が芽生えた。
ナギの元に戻るためにも、歩みを進まなければならないのだ。
実際にナギがいれば、もっと安心するのだろう……と、たった数時間前に分かれた大事な家族を思い返しながら、ただひたすらに歩みを続けた。
どれくらい歩いたことだろう?
何時間も歩いた気もするし、本当は十数分程度たったかもしれない。幾度か道を不規則に曲がり、元の道を戻れと言われても分からないくらい進んだとき、遠くに点が見えた。徐々にぼんやり明るくなり、エリックの後ろ姿が薄ら見えてくると、感嘆の声が出そうになった。それを必死で堪えながら、出口に向かって歩き出す。
「……」
近づくと青い四角の絵がかかっている。もっと近づけば、それが絵ではなく、枠のない窓ということが分かった。もっともっと接近すれば、窓ではなく私より一回り大きい出口だと認識できた。認識はできたが、ロベリアは息をのんだ。
「……っ、これ、は」
絶句する。
断崖絶壁だった。地上を歩く人々が点に見える。壁に沿うように道があるが、あまりにも細すぎる。一歩でも踏み外せば落下は必至で、まず助からない。
「東の塔が見えるか? そちらに進めば、突き当りの通路に入る」
エリックの声は震えていた。声だけではない。足もみっともないくらい震えている。「進む」と口にしているのに、一向に先へ足を向けようとしない。
「……エリック様、私が先に行きましょう」
ロベリアは足元から震え上がる恐怖を飲み込み、わずかな空間を伝い、列の先頭に立った。
「私が進み、道の安全を確かめます」
「し、しかし、私や君が落ちたら……」
「愚問です」
ロベリアは恐怖を押し殺したまま、きっぱりと断言した。
「この程度の難所、乗り越える覚悟がなければ、そもそも王都に戻ってきていませんわ」
鐘を鳴らし、ルージュの魅了を一斉に解く。そして、彼女にしかるべき罪を償わせる。そのつもりで、ここに来たのだ。ナギの待つ家に帰るためにも、こんなところで恐怖に震えている場合ではないのだ。
「アーロン。あなたは怖ければ残って構いませんわ。ですが、エリック様。貴方はこの国を背負って立つ御方。ルージュに好き放題されたくないのでしょう? ならば、進むのは当然。ここで落ちて死ぬのであれば、それまでだったということ」
ロベリアはエリックを一喝すると、しっかり前を向いて一歩踏み出した。
ここで、止まるわけにはいかない。壁に身体をくっつけて、そろりそろりと進み始めた。風が容赦なく身体に叩きつけられ、顔を隠していたフードが脱げた。長い金髪が空にさらされ、スカートが膨れ、突風に勢いよく翻る。だが、「スカートを抑えなくては」と手を動かす余裕はなく、ただ前を向くことしかできない。
前を向いて、歩き続ける。
少しでも眼下に目を落とせば、足はすくみ、スカートを正そうとすれば、足を踏み外してしまう。
ただひたすら、ロベリアは風にあらがうように歩き続けた。
「……ベリアさん……ロベリアさん!」
すぐ左に出口と思われる回廊を見つけたとき、後ろで、アーロンの声が声を張り上げていた。ごうごうと吹きつける突風は、人の声すらもかき消そうとしてくる。
「右……! ロベ……アさ……、あれ……、ですよね?」
「右……?」
そのなかで、ようやく拾えた言葉に従い、一瞬だけのつもりで右を向く。
「あれは……!」
ロベリアは絶句した。
どこまでも青い大空に、幾つもの光が反射している。
ドラゴンだ。ドラゴンの大群が隊列を組み、白銀のドラゴンへ一斉に攻撃をしていた。
「クレア様……!」
数多のドラゴンがクレアに炎を吹きつけたり、首に噛みつこうとしたりしている。クレアの白銀の鱗をはじめ、赤や黄色、緑や紫といった身体に真夏の太陽が照りつけ、昼間の星のように輝いて見えるのだ。
なにも知らない民であれば、美しいと見惚れるかもしれない。
「クレア様、どうして……えっ?」
クレアは巨大なドラゴンに足に噛みつかれ、大きな血の塊が地へと落ちていく。あまりにも痛々しい光景に奥歯を噛みしめたが、問題はそのあとだった。ドラゴンたちの視線はクレアに注がれ、血の塊などには注がれていない。落下する血の塊のなかに、ちっぽけな翼のようなものが見えたのは、この場所でドラゴンたちの戦闘を俯瞰する者たちにしか見えなかった。
「ナギ!」
どうして?
さっき、自分の中で彼の幻想を浮かべたからか?
思わず、ロベリアはナギに駆け寄ろうと踏み出してしまう。
「危ない!」
寸でのところで、エリックが引き戻した。半分、足を踏み外しかけたせいで、ただでさえ細く頼りない足場が崩れ、からころと石が城壁を転がり伝っていく。
「早く回廊に入るぞ。ドラゴンたちの目が、こちらに向かない保証はない」
「ですが、ナギが……私の家族が……!」
「いいから、入れ!」
ロベリアは薄暗い回廊に押し込まれてしまった。振り返っても、狭い入口からでは、エリックの姿しか見えない。
「ナギが……ナギが、もう、王都にいるだなんて……」
ロベリアは背筋に氷が当てられたように身震いをした。さきほどの断崖絶壁に直面した時以上に、身体から血が引いていくのが分かった。
「ロベリアさん、落ち着いてください。ナギ君でしたら大丈夫ですよ。あの位置から落ちても、ドラゴンは死にません」
「……っ、はい」
ナギが、自分を追ってきたことは明白。ならば、ナギがこれ以上の危険に巻き込まれる前にけりをつけなければならない。ロベリアは両足の震えを感じながら、一歩、また一歩と先に進む。
「そのあたりの壁に、窪んだ石がある。それを押してくれ」
エリックの言った通り、ロベリアは壁に手を這わせた。すると、足元くらいの石が窪んでいる。血の気の失せた指で、なんとか押してみれば、軋むような音を立てながら壁が動き出す。
「隠し扉になっていたのですね」
「そうだ。その先の通路を進め。ただし、ここから先、声は出すな」
ロベリアはエリックの言葉に頷き、隠し扉から外に出る。
「……っ!」
そこに広がっていた光景に、ロベリアは叫びそうになった。「玄関ホール!」と叫びたくなった口を慌てて両手で押さえ、なんとか事なきを得たが、驚きが消えることはない。
ロベリアは、中央塔の玄関口の上に立っていた。玄関ホールの彫刻とばかり思っていた場所が隠し通路になっていたのかと感慨に耽る間もなく、自分たちの眼下で繰り広げられる騒めきに注意を奪われた。
「なに! 大臣が乱心したと!」
「ええ、西棟で大暴れされているのです!」
騎士たちが叫びをあげながら西棟へとなだれ込んでいく。
「大臣が、乱心?」
「ティモシーが手紙を届けたのですね」
ロベリアは青ざめた顔のままだったが、少なくとも当初の作戦がうまくいっていることに安堵した。
「レベッカに一筆、書いてもらいましたの」
ロベリアは壁に背を張りつけながら歩く。悪いことばかり起きているわけではない。ナギのことで固まっていた心がわずかに解れた気がする。
「『帝国からの密書が来た』という書状をね」
「密書?」
「正確に表現するのでしたら、『帝国とは、レベッカを介して密書のやり取りをしていた』でしょうか。実際、レベッカは目を通すことはできなかったみたいですが、彼女の自宅を拠点に密通していたそうですし」
ルージュの散財において、この王国は沈み始めている。大臣はさっさと見切りをつけて、いざというときには帝国へ亡命しようと動いていたそうだ。
「肝心の密書を記したのは、私です。秘書官時代に、帝国からの書状は山ほど目を通してきましたから、真似するのは簡単でしたわ」
「しかし、騒ぎになるほどか?」
エリックが通路を怖々伝いながら、怪訝そうに尋ねてくる。
「そうですね。密書が直接、大臣の手に渡れば、表面上は何も問題が起きなかったでしょう」
「なに? あのドラゴンは、渡せなかったというわけか?」
「……エリック様。ご想像ください。エリック様の執務室に、身元も定かではないドラゴンが手紙を抱えて訪ねてきたのです。執務室の扉を守護する騎士が、やすやすと通します?」
普通であれば、身元を改める。もちろん、執務室にいるであろう大臣に一言、声をかければ、レベッカのドラゴンが来たと一発で分かるに違いない。
「ですが、この時間の大臣は執務室から通じる喫茶室……さぼり部屋にいます。あの部屋にいるときは、誰も取り次がないように強く命令しているのです」
つまり、ティモシーは門前払い。仕方なしに、書状だけ渡すしかない。裏にはっきりと帝国のサインが記された密書は、大臣が帝国と通じていると知らぬ一般騎士に渡り、可哀そうな騎士は慌てふためくはずだ。
「あの場所で騒げば、他の重鎮たちが聞きつけてやってくるはず。密書の存在は公になり、普通はその場で大臣は逮捕されるでしょうね」
「だから、大臣は必至で抵抗をしているというわけか」
「彼は簡単に投降する人物ではありませんし、ティモシーには『大臣を守り、徹底的に暴れるように。万が一、大臣が抵抗することなく投降するようなら、大臣を守るかのように騎士たちを攻撃し、大臣が逃げ出さなければならない状況を作るように』と約束してありますから」
きっと今頃、ひぃひぃと逃げながら、大多数の騎士たちに追われているはずだ。ティモシーが戦闘訓練を受けたことのない平凡な愛玩用ドラゴンであることだけが懸念事項であるが、騒ぎが大きくなっているところを見るに、騎士たちの手に負えないほど全力で戦っているに違いない。
ルージュが大臣のもとに登場すれば、お得意の魅了で大臣を骨抜きにするかもしれないが、ティモシーに解毒薬を持たせてある。ルージュの魅了にやられそうになり、落ち着いたとしても、大臣に解毒薬を呑ませることで、もう少し囮になってくれるはずだ。
「これで西棟に注目が行きます。騎士たちも、そちらに割かれることになるでしょうし、東棟を移動しやすくなるはずですわ」
ご丁寧に、帝国が攻めてくるかもしれないと匂わせる文面を記したおかげで、玄関ホールは上へ下への大騒ぎだ。
「エリック様を探されているかもしれませんが、貴方の執務室は西棟。ランスにも西棟を中心に回ると言いましたので、多少の時間は稼げるはずです」
とはいえ、長い時間のかく乱は難しい。
エリックが西棟にいないとなれば、東棟を総員で探し出すのは明白だ。それまでに、塔を最上階まで登り切らなければならない。
「しかしだな、おかしなこともあるものだ」
エリックは東側の壁に到達し、そちら側の隠し回廊へと足を踏み入れながら疑問を口にした。
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