48話 飛翔
「空を飛ぶ?」
ロベリアは聞き返した。
「空を飛ぶって、ナギの上に乗って?」
「他に空を飛ぶ方法があるか?」
ナギは髪を揺らすように首を振りながら、ゆっくりとドラゴンの姿へと戻り始めた。
「いますぐにとは言わない。無理強いするつもりもない」
「でも、ナギは海に行きたいのね」
ロベリアは口元に指を添えて考え込む。
あまり庭を留守にはしたくないが、海に行くという提案は魅力的である。思い起こせば、仕事で海辺の町に行くことはあったが、海を楽しんだことはなかった。海の青さも浜辺の白さも眺める余裕などなかったので、この機会に行ってみるのは、素敵なことに違いない。
それに――、
「この時期は、南国の船が着く時期だったはず。私も買い付けしたい品があるわ」
「船が着く時期?」
「南風に乗って、ベルジュラック公国からの船がね。ベルジュラック産の『銀の蜜』は解毒薬の材料の一つなのよ」
ルージュの魅了対策で解毒薬の生産に入ったのは良いが、大量に調合できるほどの材料はなかった。特に、『銀の蜜』は夏の限られた時期しか輸入することができないので、希少価値がやや高いのだ。
「つまり、買い付けか」
「もちろん、海も気になるわ。海辺の喫茶店でのんびりしてみたいもの。セーロンからの茶だって届く頃だろうし、イディナ地方の茶葉もあるかもしれないわ」
あれもこれも気になると指を折り数えていれば、ナギも嬉しそうに喉を鳴らした。
ナギは翼を広げると、軽く床を蹴り上げた。ロベリアの目線まで易々と飛翔し、くるりと一回転してみせる。
「それなら、決まりだな! 善は急げだ、行こう!」
「ふふ、ナギはせっかちね」
ロベリアはくすくすっと笑った。
ナギが、どことなくはしゃいでいるように見える。ロベリアが思っている以上に、海へ行ってみたいのかもしれない。
白い浜辺で赤いドラゴンがくるくる回ったり、鮮やかな青い波と戯れたりする姿を想像してみると、普段以上に愛らしく思えてきた。
「明後日、行きましょうか。明日だと急すぎるから」
ロベリアが確認を取れば、ナギは了解したと吼える。
その後も尻尾をコミカルに揺らし、鼻歌を奏でながら小さな前足で花瓶の花を取り換え始めた。
「可愛い……」
ロベリアは囁くように呟くと、ちょうど飲みやすくなったお茶を口に含んだ。
ナギの喜ぶ姿を見ていると、こちらまで心が弾んでくる。
何よりも微笑ましいのは、ナギから「海へ行きたい」と言ってくれたこと。ロベリアと出会ったばかりの頃は、自分から何をしたい、これをしたいと主張することがなかっただけに、ナギとの距離が縮まったような気がした。
「でも……」
どうして、ナギは「海へ行きたい」と思ったのだろう?
あまりにも唐突すぎるのではないか?
夏といえば、海辺でバカンスというのは貴族や裕福な者たちの定番であるが……。
「まあ、ナギのことだもの。危険なことは考えていないはずよ」
深く考えても仕方ない。
ロベリア自身も海へ行きたいのだ。ロベリアは疑問を消すように、お茶を一気に飲み切るのだった。
翌々日。
その日は、良い飛行日和だった。
どこまでも走りたくなるような青空に、ふわっとした綿雲が流れている。
ロベリアは入念に荷物を確認した。
「お金よし、水筒よし、タオルよし、服の替えよし」
指さしで確認しながら、他に足りないものはないかと考えを巡らせた。
「念入りだな」
「いざとなったら、買えばいいけど……必要以上にお金は使いたくないもの」
ロベリアがため息交じりに答える。
ナギは、すでに庭へ出ていた。
花壇や畑に被らない平地で手や足を延ばし、自身の身体を整えているようだ。
「だけど、本当に大丈夫かしら? 鞍もないのよ?」
「鞍がなくても平気だ。落とすことはない」
ナギは得意げに宣言すると、身体を大きく逸らした。
途端、子犬サイズの身体が急速に膨らみ、翼が畑を覆いつくすほど大きく広がる。赤い鱗は神々しく輝き、ロベリアが思わずひざまずきそうになるくらい、威厳に満ち溢れた立派なドラゴンになった。
「すごい……」
ロベリアは、ぽかんと見上げた。
自分の身体と同じくらいになった深緑色の瞳の隣に歩み寄り、ゆっくりと手を伸ばした。もともと、手のひらに載るほどだった鱗は手の長さほどに伸び、あまりの差異に自分が縮んだような錯覚に陥った。
「主、よじ登れるか?」
ナギがゆっくりと話せば、熱い吐息がロベリアの髪を揺らし、声の大きさに身体が震えた。
「ええ」
ロベリアは頷くと、ナギが上りやすいように身体を傾ける。ロベリアは鱗の隙間に手をかけながら、彼の巨体をよじ登った。まるで、ちっぽけな虫になった気分である。本当に落ちないかしら、と内心不安を抱きながら、ロベリアはてっぺんまでたどり着くと、背中の突起の間に腰を降ろした。
「着いたな。しっかりつかまれ」
「分かったわ」
ロベリアは突起に抱き着くと、ぎゅっと唇を結んだ。
瞬間、ナギはばさりと翼を広げると、思いっきり地面を蹴り飛ばした。
ぐんっとお腹を引っ張られるような感覚がした、と思ったときには、轟々と風が舞い上がった。あまりのことに、ロベリアは目をつぶってしまう。前から吹き付ける風は強く、身体を押しつぶそうとしてくるみたいだ。とてもではないが周りを見渡す余裕などない。ナギの身体をつかむので必死で、叫ぶことすらできなかった。
「主、平気……か?」
ナギの気遣うような声が聞こえてきたのに、返事をすることができない。
代わりに、「大丈夫」と伝えるように、殊更強く抱き着いた。
「そろそろ、安定するから」
ナギの言葉通り、数秒後には引っ張られる感覚は薄らいでいた。
依然として風は感じたが、少し収まっている。
ロベリアは、ゆっくり、おそるおそる目を開けてみた。
「うわぁ……!」
一面の青だった。
見渡す限り、どこまでも空が続いている。おそるおそる目線を左に下げてみれば、秘密の庭が小さく見えた。まるで、子どもが遊ぶドールハウスとミニチュアみたいだ。そう思ったのもつかの間、ドールハウスは後方へと遠ざかり、深緑色の森が足元一杯に広がった。木々の種類が違うのか、一様に森といっても濃淡があり、一つの絵画のようだった。
時折、白い雲が足元を流れた。
木々の隙間を糸で縫ったかのように川が見えた。森を抜ければ、川が作り出す点線は一本の糸となり、薄緑色の平原へと続いている。地表でも風が吹いているのか、平原の草はさざ波のように白く揺れていた。
「凄い、凄いわ!!」
ロベリアは子どものように甲高い声を上げた。
どこまでも続く平原のなかに、茶色の太い道が見える。太い毛糸のような道はどこまでも長く続き、時折、思い出したように、ぽつんっとぽつんっと見つかる集落に繋がっていた。
あれは、ルールドの街かしら? あっちはファーティンの村かしら?
頭の中に広げた地図の方向と位置を思い浮かべながら、怖さを忘れて下を覗き込んでいた。
「楽しいか?」
「もちろん!」
離陸したとき、強張っていた顔の筋肉は緩み、夢中になって答えていた。
「そうか! 良かった! 下を見るのはいいが、絶対に手は離さないでくれ」
ナギの声には喜びのなかに厳しい色が混じっていた。
ロベリアは少しはしゃぎすぎたか、と反省すると、突起を強く抱きしめなおす。
ナギの身体からも歓喜が伝わってきた。
「このまま、南に飛ぶのよね!」
「太陽を目標に飛ぶ。主、太陽だけは見るな。目が潰れるぞ」
「忠告、ありがとう」
ナギと二人っきりで空を飛んでいる。
二人っきりで歓喜を共有している。
ロベリアは特別感に浸りながら、はじけるような歓喜に震えるのだった。
海辺の町は、もうすぐだ。
伯爵令嬢はドラゴンとお茶を嗜む (Mノベルスf) 発売まで、一週間を切りました。
今後ともよろしくお願いします!




