47話 過ぎ去りし記憶
その日、ロベリアは不思議な人と出会った。
目が覚めると、巨大な羽をはやした男の人がいたのだ。
ベガのお客さまかな? と思ったが、乳母の姿は見当たらない。
「……正しければ……間違っていないと思うが……」
ロベリアが戸惑っていると、男の人が本と睨めっこしながら呟いていた。
なにを呟いているのか分からなかったが、どうやら困っているらしい。
『困っている人がいたら、助けてあげなさい』
両親やベガが教えてくれたことが、ロベリアの脳裏に過った。
男の人は、間違いなく困っている。だけど、どう考えても人ではない。少なくとも、人には翼なんてないし、丸太ほどの大きさの尻尾を持っている人も見たことがない。
もしかしたら、悪い魔物かもしれない。
ベガがいないのは、悪い魔物が消してしまったのかもしれない。
そう考えた途端、ロベリアは背筋が凍った。
だけど、やっぱり困っている。
悪い魔物かもしれないけど、深刻そうな後ろ姿は寂しげで、とても辛そうにうなっている。
「……あの……」
ロベリアは一世一代の勇気を出し、思い切ってシャツの裾を引いてみた。
「主! 良かった、起きたの……か……?」
途端、男の人は弾かれたように振り返る。
ぱあっと花が咲くような幸せそうな顔をしたかと思えば、ロベリアを見た瞬間、目が点になっている。
でも、ロベリアも同じ表情をしていると思った。
巨大な翼に太い尻尾。
魔物らしく震えあがるような凶悪顔をしているかと思ったのに、人のよさそうな優しい顔をしていた。最初、ロベリアまで心が温かくなるような笑顔を向けられたからかもしれない。
少なくとも、この人は悪い魔物ではない。
羽が生えているから、妖精だろうか?
ロベリアはそう思うと、少しばかり気が軽くなった。
男の人は、やっぱり人間ではなかった。
ただし、妖精ではなく、ドラゴンらしい。
ドラゴンが人に変身できるってことは、初めて知った。ベガには秘密がいっぱいある人だけど、不思議なドラゴンさんとも友だちなんて……! と、びっくり。
だけど、話している途中で、ちらっと見えた黒髪の女の人は、お客さまではなかったみたいだ。
どうやら、ドラゴンさんには見えていないらしい。
もしかすると……時折見かける彼女は、本当に幽霊なのだろうか?
「幽霊か。そんなものがいるわけ……いや、この家ならありえるのか?」
ドラゴンさんは半信半疑のようだったけど、最後には一緒に探すことに同意してくれた。
実のところ、ベガからは「一人で歩き回ってはだめよ」と言われていたけど、ドラゴンさんがいるので一人ではない。ただ、この家は一人で探検するには広すぎる。
おまけに、今日は生憎の雨模様。
お日様が差し込めば、もう少し明るくなるのに。しん……と静まり返った廊下を歩いていると、なんだか心細くなってきた。幽霊といえば、湿ったところや暗いところにいるのだろうから、そこを中心に探さないといけないのに、だんだんと背中が薄っすらと氷で覆われていくような、足の進みが鈍くなるような、不安感が胸の中に膨らみ始めていた。
「……はぁ」
そのとき、上からため息が1つ。
どうしたのだろう? と頭を上げる前に、ロベリアの白い指に硬い指が絡んだ。
「あ……」
「大丈夫だ。俺がついている」
ドラゴンさんが笑っている。
深い森みたいな瞳をやわらげて、少しばかり頬を赤く染めて微笑んでいる。
「たとえ、幽霊が出ても問題ない。俺が主……いや、ロベリアを守る」
「あ、ありがとうございます」
あまりにもはっきり言い切ったので、ロベリアは少し戸惑ってしまった。
言葉や表情だけでなく、大丈夫だよと言い聞かせるように繋いでくれる手は心強い。どうして、初対面なのに、ここまで優しく接してくれるのだろう?
ロベリアは疑問を口にすると、ドラゴンさんは驚いたように瞬きをしたあと、少し寂しげに肩をすくめた。
「少しだけ、貴方のことを知っている。誰よりも優しい子だとな」
「やさしい?」
「俺は人間ではない。ドラゴンだ。普通の人間ではないのに、こうして俺の手を振りほどかないでいてくれる。それだけで、俺には十分優しく感じるんだ」
ドラゴンさんは柔らかい口調で言いながら、ゆっくりと翼を開閉してみせた。ふわりとした風が巻き上がり、ロベリアのスカートを軽く膨らませる。ロベリアは空いている方の手で花のように揺れるスカートを押さえた。
「すごい! 本当に羽って動くのね!」
「そこに驚くのか」
「だって、人に変身できるドラゴンなんて、初めて見るもの。すごいわ、この翼で飛ぶこともできるのね」
いまは雨空が広がっているけど、もしも晴れていたら……彼は、青々とした空を自由自在に飛び回ることができるのだろう。
力強い翼を羽ばたかせ、どこまでも、どこまでも。
「いいな、空を飛べるなんて」
ぽつりと言葉がこぼれていた。
「空が飛べたら、おじさまのお屋敷と私の家を自由に行き来できるのに」
「……なるほど、この時期の貴方は、まだ幻滅していないのだな」
「げん、めつ? って、なに?」
「ロベリアは、ご両親のところに帰りたいのか?」
気がつくと、ロベリアは歩みを止めていた。
ドラゴンさんの顔から優しい色は消え、こちらを真剣に見つめていた。まるで、ロベリアが初めて「私も包丁を使いたい」と言ったときのベガとそっくりの顔をしている。
どうして、彼はこんなにも思い詰めたようなまなざしをしているのか。ロベリアには理解できなかったが、こちらも真剣に自分の気持ちを明かすことにした。
「帰りたいよ」
正直に告白する。
「この家は好きだよ。でもね、お母さまやお父さま、新しく生まれた妹と一緒に来たら、もっともっと好きになると思うの。お父さまとお母さま、それから、ちっちゃな妹にもね、お庭の暮らしや鶏や山羊のことをお話しをしてね、お休みの日にはみんなでここに来れたらいいなって」
でもね、と、ロベリアは前を見つめた。
「この話、ベガにしたら寂しそうな顔をするの。きっと、お父さまもお母さまも妹に夢中で帰ってくるなって思ってるのね」
「そんなことは…………いや、なんでそう思う? なぜ、妹に夢中だと言い切れる?」
「そんなの簡単だよ」
ロベリアは疲れたように首を振った。
「お母さま、最後に会ったときね……ほっとしてたの」
「ほっとしてた?」
「前からね、お母さまは私を見ると辛そうな顔をしていたの」
もちろん、優しい人だった。
外に遊びに出ることはなかったが、お屋敷の中で手遊び歌を教えてもらったり、本を読んでもらったり、ロベリアのくだらない話を真剣に聞き入ってくれたり……
「お母さまはね、身体の調子が悪いの。だからね、お庭の花を摘んでお見舞いしたこともあったの。でも、私、知ってるの。私が渡した花がね、こっそり捨てられてるってこと」
最初は違ったと思う。
でも、妹を妊娠したあたりから、しおれていない花を侍女が処分するところを見てしまったのだ。
「ベガさんは、そのことを知ってるのか?」
「ベガには話したわ。そしたら、私を抱きしめてくれたの」
あのときから、ベガは抱きしめてくれるようになった。
いまにも泣き出しそうな悲痛の声で
『大丈夫です。お嬢様はこのことをいずれ忘れます。だから、大丈夫です』
と、繰り返すようになったのだ。
ロベリアにではなく、ベガ自身に言い聞かせるように、何度も何度も……。
「……そうか」
ドラゴンさんは短く答えた。
「お母さま、昔は違ったのよ。とても、とても、優しい人だったの」
「つまり、異変が起きたのは……ルージュを妊娠してから、か」
「いへん?」
「妹を妊娠する前後、なにか変わったことはなかったか?」
「そんなの分からないよ」
ロベリアは答えながら、うーんと首をひねった。
なんだか記憶は曖昧で、ふわふわと浮いている感じがする。最近のことはつかみどころのない雲のようなのに、お庭に来る前のことははっきりと思い出せた。
「旅行に行ってから、だったかな」
「旅行?」
「私とね、お父さまとね、お母さまとね、ベガも一緒にね、海沿いの街に行ったの」
つまり、家族旅行というやつだ。
母親は海辺のロッジから出ることはなかったが、ロベリアは父親とベガに連れられ、海を満喫したのは心躍る思い出である。
特に、夕焼けは火の玉が海に溶けていくように美しかったが、少しおかしかったのは、そこではなかった。
「お母さまと私は、お屋敷へ先に帰ったの。でも、お父さまとベガは用事があるからって」
「ベガさんは、貴方の乳母ではなかったか?」
「うん、そうよ。でも、お父さまの友だちなの。お友だちだから、私の乳母になったとか。侍女頭のエリーがね、教えてくれたわ。嘘だと思うけど」
「なぜ、嘘だと?」
「なぜって、いわれても……?」
ドラゴンさんに問われるがまま、ロベリアは眉間に皺を寄せながら必死になって思い出そうとした。
「エリーはね、私に嘘をつくのよ。エリーから教えてくれたことをね、お母さまやベガに話すと呆れられたり怒られたり笑われたりするの」
ロベリアは指を折りながら、エリーの嘘を口に出すことにした。
「『お父さまとベガはお友だち』でしょ、『お父さまはお母さまを愛してない』でしょ……あ、そうそう! 『お母さまは石女だ』とも言ってたわ。私ね、お母さんは人間なのに、馬鹿にするのはひどいって怒ったの」
「……ひどいな」
「私はね、お父さまに怒ったのよ。エリーに注意してって! でもね、エリーはクロックフォード家に代々仕える侍女頭の家系なんだって。冗談が過ぎるだけで仕事は誰よりもしっかりやるから、辞めさせることはできないって」
「……」
「私たちだけ海から帰った時もね、エリーは『今夜、旦那様は海辺で一夜を過ごされているでしょうね』って。そしたら、お母さまが顔を真っ赤にしてね、『黙りなさい!!』って」
母親が激怒したのは、後にも先にも一度だけ。
泊まった宿どころか町全体が震えそうなくらい大きな声で叫ぶと、苦しそうに頭を抱え込み、髪を振り乱すように何度も揺らした。
「エリーはすぐに謝って部屋から出ていったわ。私はね、お母さまが心配で近くに行ったの。でもね……お母さまは『来ないで!』って。わたし、すぐに謝ったのよ。そしたら、お母さまは泣きじゃくりながら『ごめんなさい、ごめんなさい』って……」
あのとき、ロベリアはいたたまれなくなって、外に飛び出した。
部屋から出ても、扉の向こうで母親のすすり泣く声ははっきり聞こえ、きゅうっと胸が縮む思いがした。母親の泣く姿は幾度ことなく見たことがあったが……耳にするだけで、ロベリアも苦しくて、泣き出したくなった。
「次の日はね、お母さまは笑っていたわ。目元が赤くなっていたけど、見違えるくらい元気な顔をしていたの。
エリーもね、それからは冗談を言わなくなったわ。お母さまに真面目に仕えるようになったの。それから、少ししたら、お母さまが『妹ができるのよ』って明るく笑って教えてくれたのよ」
あのとき……妹ができた喜びよりも、ずっと泣いていたお母さまが元気になったことの方が嬉しかった。
「……お母さまはね、妹の方が大事なの。私なんて、泣かせてばかりで……」
「ロベリア」
そのとき、ぽんっと頭に手が乗った。
「俺が思っていたより、クロックフォード家は複雑だということが分かった」
ドラゴンさんの左手だった。
右手はロベリアと手を繋いだまま、ベガよりも大きくて、お父さまより節があって硬い右手が頭に乗り、割れ物でも触るかのように優しくなでられる。ロベリアがぽかんとしていると、ドラゴンさんは頭に手を乗せたまま、ロベリアの位置まで屈みこんだ。
「さっきも言ったが、俺は貴方を守る」
昔からの友だちみたいな親しみのこもった表情で、ドラゴンさんは静かに口にした。
「幽霊からも、貴方に危険をもたらす者からも」
「でも……どうして?」
ロベリアは素直な疑問をぶつけた。
「貴方は、私の家族でもないのに?」
「……家族だからだ」
「え?」
「今は分からなくてもいい。だが……俺は貴方を守り抜く。一番傍近くで、ずっと」
ロベリアは分からなかった。
たったいま、出会ったばかりの人が、そこまで真剣に考えてくれるのだろう?
意味が分からなくて、ただでさえふわふわした頭がぐるぐると混乱する。
ああ、それでも。
「……ありがとう」
彼の言葉は、すとんと胸に落ちた。
お父さまやお母さまやベガや他の人たちの言葉よりも、ぽっかりと胸に空いていた穴を埋めるように、ロベリアの心に収まった。
「礼はいらないさ。俺の方が……貴方に救われたのだから」
※
夕刻。
薄っすらとした雨雲の切れ間から、蜜色の日差しがゆったりと差し込み始めた頃、ロベリアはぼんやりと目を覚ました。
「私……たしか……」
ソファーに横たえられた身体を起こしながら、己の額に手を当てた。
「記憶を思い出すための薬を造って……それから……」
駄目だ、まるで思い出せない。
「失敗したのかしら」
「さあ、どうだかな」
ロベリアが肩を落としていると、お茶の入ったカップを渡された。
いつのまにか、すらりと背の高い影が隣で寄り添うように座っている。ナギはいつになく穏やかな顔で、自分のカップを握りしめていた。
「ナギ? どうかしたの?」
「いや、なんでもない。ところで、主。提案なのだが、今度、海に行かないか?」
「海?」
「昔、行ったのだろう?」
「そんなこと、ありましたっけ……?」
ロベリアは指を温めるようにカップを持ちながら、はてと首を傾げた。
「なら、初めての海だな」
「でも、どうやって行くの? ここから海は馬車でも二日かかりますし、宿も手配しないと」
「問題ないさ」
ナギはにやっと笑うと、得意げに羽を軽く揺らした。
「俺が主を乗せて、飛べばいいんだ」
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イラストレーターの條様の素晴らしい表紙絵が出ています。ぜひ、見てくださると嬉しいです!
今後、コンスタントに投稿できるように努力します。




