36話 初心な気持ち
少しだけ寝る。
この言葉がきっちり守れたことはない。
わずかに瞼を閉じたはずなのに、今回も目を覚ました時にはすっかり日が暮れていた。夕焼けの蜜色に染まっていたであろう庭は薄暗く、太陽の名残がわずかに漂うばかりである。
「大変! もう、こんな時間!?」
ロベリアは弾かれたように立ち上がろうとして、膝にある心地よい重みに気が付いた。
ナギが小さな身体を丸め、すっかり寝入っている。ところが、ロベリアが急に動いたせいで、ナギの固く閉じた瞼が開いてしまった。彼は眠たそうに前足で額のあたりをかきながら、ぼんやりとした声で話しかけてくる。
「……ん、主。起きたか?」
「ごめんなさい、ナギ。私、寝すぎてしまったみたい」
ロベリアは小さく肩を落とした。
この時間から食事を作るとなると、簡単なものしか作れそうにない。ロベリアはナギが膝から降りたことを確認してから立ち上がり、何を作るか思案する。
「とりあえず、身体を清めたいわ。お風呂入って来るけど、ナギも――」
「あとで良い。主が先に入ってこい」
ロベリアが問いかける前に、ナギの鋭い声が割り込んできた。数瞬前までの眠たそうに潤んでいた目が一変し、どこか非難するような険しい目を向けてくる。
「俺は一人で入れるし、いつもそうだろう?」
「でも、今日は駄目よ。傷にさわるでしょう?」
ロベリアは腰に手を当てながら言い返す。
「傷を甘くみてはいけません。
ナギは自分で傷を治せるのだろうけど、まだ半日も経ってないわ。もちろん、泥を洗い流して、薬も塗ったけど、万が一ということだってあるのよ?」
薄暗闇のなかでも、浮き立って見える赤い鱗と白い包帯。
ナギは大丈夫だと豪語していたが、ロベリアは強がりだと確信していた。現に、こんな時間になるまで、ロベリアの膝の上で眠りこけていたのだ。傷の痛みはもちろん、疲労困憊だったに違いない。
「傷口が原因で死に至る病があるの」
「それは聞いたことがあるが、なにも問題ない。俺はそんな病には――」
「と、油断したときにかかるの」
ロベリアは屈みこむと、ナギと目を合わせた。
「お風呂でもう一度、よく洗う。傷が沁みるからといって、適当にすませない。
私はナギの同居人として、ちゃんと確認する責務があります」
ロベリアは真剣な顔で訴える。
なにせ、自分のせいで負ってしまった傷だ。あのとき、ロベリアが一緒について行っていれば、ナギが怪我せずにすんだ。この怪我が元で、ナギが死んでしまったらと考えると背筋が凍える。
だから、今日は一緒に風呂に入る。絶対に譲らない。
「う、うう……」
ナギが逃げ道を探すように視線を泳がせる。
一応、彼が「自分で洗えると約束する」と反論してきた場合の返答は既に用意してあった。これでも、汚職塗れの大臣の秘書官だったのだ。詭弁反論はお手の物である。ナギもそのことを察しているのか、それ以外の言葉を探しているらしい。
「はい、風呂に行きますよ」
「い、いや、待て、俺は、返事をしてない!!」
ロベリアはナギの腹のあたりに手を添えると、そのまま抱え上げた。傷口に触れないように細心の注意を払いながら、風呂場に向かって歩く。こころなしか、ナギの身体全体が熱を帯び、普段の二倍以上も赤く輝いていた。それは、照れなのか羞恥なのか。「ナギの傷を確認し、もう一度ちゃんと洗い直す」とのれっきとした理由あっての行動だが、ちょっと可愛いと思えてしまう。
これを機に、次から一緒に入るのも良いかも……と、口元を緩めた、次の瞬間だった。
「そ、そうだ! 主!」
ナギは名案だ!と吼えると、身体全身を震わせた。
「え?」
気が付けば、ロベリアの腕は男の身体に巻き付いていた。瞬きする間に、ナギが人間に変身したのである。腕のなかに感じる固くたくましい感覚に、かあっと身体全身が火照る。彼から離れようとするも、逆に腕をつかまれてしまう。
「主、こっちを見ろ」
ナギの声が近くに聞こえる。
顔をあげると、ナギの深緑色の瞳が見えた。額から右目を抜け、口元にかけて生傷が奔っている。痛々しい傷だったが、もともと端正な顔立ちだからだろう。むしろ野性味が増し、かっこいいと呟きそうになる自分がいたが、すぐに頭を振って雑念を払い飛ばす。自分のせいで負ってしまった傷に見惚れてしまうなんて、最低最悪ルージュ以下のろくでなしで人の心がなさすぎる。
ロベリアが眼を白黒させていると、ナギが低い声で問いかけてきた。
「どうした? 俺はこの姿で入るのだが……」
「そんな!? でも、ナギは慣れてないでしょう? やっぱり、自分が慣れた姿で入浴するのが一番よ」
ロベリアが反論するが、ナギは余裕のある口調で回答する。
「それなら心配ない。俺はいつもこの姿で風呂に入る」
「噓でしょ」
「ここの風呂は人間仕様。本来の姿では使いにくい。噓だと思うなら、今度から覗いてみればいい」
「の、覗けるわけないわ!!」
今度は、ロベリアが唸る番だった。
ルージュなら「うふふ、エリックがお風呂に入ってるのね!」と覗くだけでなく、一緒に入るようなことをしでかしそうだが、そのような羞恥極まるはしたない行いができるはずがない。
「そうか。なら、問題ないな」
ナギはロベリアの腕を握りしめたまま、空いている方の手で髪紐をほどく。そして軽く頭を揺らすと、赤髪が乱れて首元にまとわりつく。すると、準備が終わったとばかりに、ナギはロベリアの腕をつかんだまま風呂に歩き出す。
「さてと、入るか」
「ま、待って!」
ロベリアは引きずられる身体を感じ、反射的に叫んだ。
ナギは素直に立ち止まり、どうしたと振り返る。ロベリアは熱湯を被ったような猛烈な熱さを身体全身に感じながら、ほとんど消えそうな声で囁いた。
「ちゃんとお風呂で傷を洗うと約束してくれるなら、別々に入ろう」
「わかった」
ナギがあっさり手を離した途端、ロベリアは脱兎のごとく一人で風呂へ駆け込んだ。
「私の馬鹿!!」
ナギを病から守ると誓ったのに、傷口の処置を絶対にすると誓ったのに、なんたる無様な真似をさらしているのか。ナギはナギなのだから、ドラゴンでも人間でも同じだろう。それなのに、なにを照れて恥ずかしがり、自分の責務を放り出したのか。
しかも、社交デビューもしていない令嬢同然の反応をしてしまった。
だいたい、あの距離で男性と話すことは初めてではない。
パーティーでダンスを踊ったことは幾度もある。踊りながら会話することだって、何度もしてきた。社交は貴族の令嬢としての務めだし、エリックと踊ったこともある。
それでも、あれほどまで緊張したことはない。
おかしい。ナギは大切でかけがえのない同居人なのに、あんなに初心な小娘みたいな反応をしてしまうなんて。
「頭、冷やさないと」
ロベリアはしゃんとするように、思いっきり水を被った。
なお、ロベリアは知らなかった。
「し、死ぬかと思った……」
ロベリアが逃げ去った後、ナギは鱗と同じくらい真っ赤になった顔を覆う。ドラゴンに戻ることなく、しばらくその場に屈むのであった。
※
一足先に風呂を終えると、ロベリアは食事の支度を始めた。
すでに気持ちは切り替わっている。あわてふためく心は冷水で洗い流し、それでも収まらなかった部分は心の戸棚にしまい込み、厳重に鍵をかけた。
「煮込み料理の時間はないわ。とりあえず、簡単に作れるものを……」
それに、こうして作業をしていると気持ちが紛れるものだ。
じゅうじゅうと鶏肉の焼ける音を聞きながら、パンを切っていく。まるで、昼食みたいな食事になりそうだが、これ以上のものは作れそうにない。
こんなとき、王都であればすぐに使いを出して簡易的な食べ物を買ってこさせたり、厨房にあまりものがないか聞きに行ったりすることができた。
その点だけは、王都や街を訪れたときに良かったことだ。
「でも、それだけね」
茹でた卵を切りながら、ロベリアは目尻を緩める。
それ以外は、今の暮らしが好きだ。
この暮らしを壊したくないし、絶対に前の苦しいだけの生活に戻りたくない。
「主、手伝うことはないか?」
チキンや卵をパンに挟んでいると、ナギの声が聞こえてきた。
声の高さ的に、ドラゴンの姿なのだろう。内心、ほっと胸をなでおろす。
「いいえ、もうすぐ準備が終わるから」
卵サンドにチキンサンドの隣に焼き菓子の残りを盆にのせ、テーブルに向かう。これを運び終わったら、あとはスープを椀によそうだけだ。
そのとき、ふと窓の外に目を向ける。
部屋から見ても、紺色の夜空に星が瞬いていた。
「そうだ、ナギ。貴方、夜目は効く?」
「当然、ドラゴンだからな」
ナギは何をいまさらと言葉を返してきた。
元来、ドラゴンは洞窟に住んでいた。灯りのない世界に適応するため、昼間ほどではないが夜の闇でも見通すことができる。
「食事を終わったら、頼みたいことがあるの。梯子とランプを用意して欲しいのよ」
「別に構わないが……何故?」
ナギが小首をかしげる。
ロベリアは口角を緩めると、一言だけ告げた。
「ちょっと、星詠みをしよう思って」
次回は4月14日に更新します。




