12. 少しずつ
一.
義父のオペから九日後に、私は担当医から肺炎完治の朗報を耳にする事が出来た。
ようやく私も義父と顔を合わせる事が出来る――内心、複雑な心境だった。
義母から聞くに、二日後辺りに義父の意識が戻ったらしく、言葉は気管切開の為に発せられないものの、目玉だけを動かして周囲を見回し、私の所在を探したらしい。
流石の俊之も私の『肺炎の事は内緒に』と頼んだ我侭を通せず、私が肺炎を患っていた事を、二人に心配を掛けたくない、という凪なりの可愛げの無い思い遣りのつもりなんだ、と庇いつつ義父母に話してくれたそうだ。
また、怒られるのだろうか……折角オペの成功を喜びたいのに、水臭い、と義母の小言を聞く事から始まるのだろうか、と、気が重い半分、やはりどこかで、ただ無事の姿をこの目で確認したいという欲求もあり、緩和剤に利用して悪いと思ったが、優介を伴って病院へと赴く事にした。
「え~……やだ。行きたくない」
だって、おじいちゃん、喋らないし、怖いんだもん……。ゾンビみたい。
彼もまた、最も衰弱していた義父を最後に、私と同じ時間義父と会っていない。
「ゾンビって君、自分のおじいちゃんなのに。ゾンビの孫はゾンビだぞ」
まあ、解らないでもないけれど……確かに、死相が出ていた、と言っても過言では無いから。
「優介。君や母さんが見た最後のおじいちゃんは、いっちばん苦しい、辛い時、だったよね。オペが成功したってお話、したでしょ? 優介も会えるお部屋に移った、って事は、いっちばん苦しい、辛い時を越えた、って事なの。死にそうな顔して弱ってた、あのおじいちゃんじゃあないと思うんだ。だから、一緒にそれを確認しに行こうよ」
君の声が、おじいちゃんの元気パワーの素なんだから、君無しじゃ逆におじいちゃんが、また弱って君の怖がるゾンビおじいちゃんに戻っちゃうじゃん。そんなの、嫌でしょ?
「……母さん、横に一緒にいてくれる?」
「勿論。っていうか、君がいつもどっかに走って行っちゃうから母さんが傍にいられないんじゃないの。病室になら、一緒にいるわよ」
それなら、行く、元気パワー分けてあげなきゃ、僕しかおじいちゃんは孫いないもんね、と優介は自ら使命感を奮い立たせ、自分が散々母を待たせていた癖に、早く~、と私を急き立てた。
二.
井上医師との面談の予定もあったので、病院を出たのは七時を回った遅い時間。
優介は、行きしなの駄々とは打って変わり、スキップをしながら駐車場に停めている我が家の車を探している。
「おじいちゃん、ご無沙汰してます。肺炎の事、黙っててすみませんでした」
私が声を掛ける。
「お父さん、優ちゃんも今日は来てくれたのよ」
義母が、義父の耳元で、ゆっくりと、大きな声で話し掛ける。
「おじいちゃ~ん、こんにちは~っ!」
首を動かせない義父の視界に入る様に近づいて、優介が義父に挨拶をする。
義父は、大きな目でこちらをずーっと見ていた、眠らずに。
呼吸器をつけているし力も全然ないので、何も発声出来ないのだけれど、パクパク、パクパク……何かを一生懸命伝えてくれた。
多分、きっと、何となく、だけれど……解ったつもりでいた私達。
『優介が来てくれたんや』
『大きぃなっとる』
『風邪ひいてないか』
『ランドセルは買うて貰うたんか?』
きっと、たくさん、たくさんあったのだと思っている、その『パクパク』の中に。
私をじっと見つめる義父。点滴をしていない右手の先が、微妙に動く。
義母がその手を取り、
「なあに、凪さんに言いたい事があるの?」
と問うと、瞼をゆっくり開けては閉じ、とした。
「うん、なら一回、違うなら二回パチパチしてね」
と義母が言い、私の体調を訊きたいのか、と尋ねると、一度だけ瞬きをした。
おじいちゃん……あなたって人は……。
人は、弱っている時、死を意識した時ほどその人の真の人間性が出る、と言う話を聞いた事がある。
この人は、幾度と無く死を覚悟し、そして今もまた、死と隣り合わせと感じている中にいるのに、散々冷戦を繰り返して来た私の身を案じている。
不器用で、曲がった事が嫌いで、それ故に大企業に入りつつも出世出来ないまま定年退職して。
親からの愛情に恵まれず、七人もいる兄弟の中で自分一人だけが里子に出されて虐げられた幼少期を送ったのに、下手くそながらも家族を守って来た人。
その『家族』の中に、私を入れてくれた様に感じられ……私は、彼の手を取り、初めて頭を垂れた。
「心配掛けてごめんなさい……ありがとうございます。お陰様で、気にしてらしたすい炎も、なかなか来れない事になってた肺炎の方も、お医者様から今日、完治のお知らせいただけて、ようやくこうしておじいちゃんのお見舞いに寄せてもらえました」
義父は、また一度、ぱちり、と目をしばたかせた。
彼は、義母と私の顔を交互に見て、口をまた小さく動かす。
私、ちゃんと理解出来ているかしら、と不安だけれど……。
「引越し、ですか? 来週、お家に入らせていただきます。また空き巣の事件が発生しているみたいですし、優介の入学前に近所のお友達が出来たらいいかな、とも思って。おじいちゃんの留守中に入らせてもらって申し訳ないとは思いますけど、おばあちゃんの事は、私と俊之さんとでちゃんと守りますから、おじいちゃんは安心して養生に専念して下さいね」
彼は、三度目の“瞬き一回”をすると、疲れた様に目を閉じた。
彼が眠った事を確認すると、私達はナースセンターに声を掛け、井上医師の時間の都合を確認した。
三.
程なくして、病室の方に井上医師が現れ、カンファレンス室へと案内された。
井上医師より、藤井医師と見解の相違があるという事を知らされる。
井上医師は、早急に喉を塞いでいく方向で処置したいのだそうだ。つまり、人工呼吸器の撤去。
だが、藤井医師は異論を唱える。
肺が完全に治っている状態ではない今、呼吸器を外して確実な保証が出来るのか、と。
まずは傷口を塞ぎ、動脈の方を安定させる事に専念させた上で、撤去の処置を施す方がより安全だ、と主張する……らしい。
私達一般人は、無知なのでどちらにも頷ける理由があり、だからこそ、不安になる。
井上医師の懸念する『自力呼吸の脆弱化の危惧』。
藤井医師の懸念する『酸素不足による体力・抵抗力・治癒力の低下の危惧』。
どちらかを選択する事によって、他方で懸念されている事に不安を覚える。
私が内科病棟で病院側に噛み付いた所為だろうか、事ある毎に、最終判断を家族の意向に沿う方向へと打診する様になって来た。
晩に俊之に病院側への回答を委ねると、彼は先に気管切開の事を調べた際に、既にそういった懸念事項も調べていたらしい。
「自力呼吸も大事だけど、自力呼吸の前に、息そのものが出来なくなっちゃ死ぬしかないだろ」
藤井医師の意向に賛同した。理屈は合っている、正しいと理性が納得しつつも、オペ前の彼の“見下した笑い”に嫌悪感を拭えないまま今日まで来ている私の感情が、彼の意見に賛同する事に何処か不快感を伴っていた。
勝手なものだ。井上医師が後者の打診をしてくれていたなら、諸手を挙げて同意するのに、と、感情論を胸の内で独り演説している私がいた。
そんな私の葛藤が表に出ていたのだろう、俊之は苦笑して
「まあ、凪が信用出来ない藤井先生の意向を汲むのが面白くないってのも解らないでは無いけれど、井上先生、ちょっと焦っている嫌いがありそうだからな。俺らはとにかく、じーちゃんを主体で考えて、年を考えれば焦って急激にスパルタっても怖いじゃん、って思えばいいじゃん。凪もそう焦るなよ。ぼちぼち、ゆっくり治してこう」
と言って、まるで優介をなだめる時の様に私の頭をくしゃ、と撫でた。
――悔しい。反論できず、納得している自分がいる。私が俊之を成長させたつもりでいたのに、いつの間にか、私の方が彼になだめられ支えられている。
義父の今回の病気を機に、家族もそれぞれが少しずつ変わった様に感じられた。
四.
今日の見舞いでは、義母と二人でびっくり。
優介が動き回る度に、義父がそれを目で追い続ける。彼はすっかり義父に怯える事はなくなり、義父の事になど頓着してないから、所構わず高速で移動している。
「おぉっ?! おじいちゃん、首、首っ!! 動かしてるじゃん!! すごーいっ!」
義父の視線に気付いた優介が、一層喜んではしゃぎ回る。
「こーら、優っ! 病院なんだから、走っちゃダメ!」
そう言いながらも、とても嬉しい。
看護士に隠れてそっとバイタルチェックを書き写しながら、そんな優介とそれを目で追う義父を、微笑ましい想いで見つめる義母と私。
指のリハビリに、と、義母が軟式テニスボールを持って来た。優介が義父の手に握らせる。握力も当然ないから、すぐポトン、とベッドの上に落としてしまう。
「もー、おじいちゃん、落としたらダメじゃん。頑張ってよぉ~」
結構容赦の無い優介が、却って義父を奮い立たせているのだろうか。
「凄いね、おじいちゃん、頑張ってる。優介、おじいちゃんの手、見てご覧。指に力がどうしても入らない、でも君の言葉に応えたい、だから――手首でボールを支えてる。凄いよね。おじいちゃん、病気なんかに負けてないよね」
「……うん」
その“間”は、優介の小さな心の葛藤を示している、というのは、私しか知らない事。
義父が順調に回復している今の内に、と、私達一家は義父母名義の家に完全同居という形で引越しを済ませていた。
私が方言の強い地方の出身の為、優介の発音は私の影響で地元のこの辺りの言葉と少し違う。引越し先では、その事で近所の子供たちにからかわれ、彼は友達作りが難航していた。
「前のお家に帰りたい。保育園の友達と、保育園の後も遊びたい」
という彼の言葉を、私だけが知っていた。
「優ちゃんだって……負けないもんっ!」
心からの言葉を発する時、彼は『僕』から『優ちゃん』と自称名詞が無意識に変わる。私の負けず嫌いの遺伝も、たまにはよい方に働くらしい。つい、笑みがこぼれてしまった。
「うん、おじいちゃんの孫だもん。優介も充分頑張ってるよね」
得意げな顔で私を見ると、もう一度自分の祖父に「おじいちゃん、勝負だっ!」と勝負を挑んでいた。祖父は、一瞬大きく目を見開いて、それから瞼を一回パチリと瞬かせた。
ある日、優介はいそいそと何やらリュックサックに詰め込んでいた。
「何してんの? おばあちゃんが待ってるから、すぐ行くよ?」
「ひ~みつ~。ちょっと待って。すぐだから」
そしてリュックサックを背負うと、意気揚々と私より先に玄関のドアを飛び出して行った。
「僕ね~、い――っぱい、あやとりも覚えたんだよ。一緒に、二人であやとりしようねぇ~。そいからねぇ~、折り紙ねぇ~、ピアノ、折れる様になったんだよぉ。おじいちゃんにも教えたげるから、ちゃんとボールにぎにぎ、しとくんだよぉ~」
いつの間にか義母を真似て、義父にわかりやすい様に、ゆっくりと耳元に口を寄せて語りかける優介。そして、リュックサックから折り紙を取り出すと、ピアノを折って、義父の枕元にそっと置いた。
義父は、何度もうんうん、とたくさん頷いてくれている。そして、孫の
「よかったー、おじいちゃん、僕のお話を解ってくれたー」
という言葉に、感激して、泣いている。それを見て、義母や優介までが貰い泣き。
「おじいちゃ~ん、ランドセル、買ってもらったよ~」
優介はそう言って、ひらり、くるりと回転する。その仕草と言葉にまた反応。それから義父は、義母を見て、口をパクパクとする。
「うんうん、大丈夫、おじいちゃんが買ってあげたのよ」
満足げに、もたげる頭を枕に沈めて安堵の溜息をついていた。
またある日は、優介が面白がって、導尿しているドレーンに溜まった尿を処置していると、義父は優介を見ながら一生懸命目をしばたたかせていた。
入院前から、元々導尿していて、ドレーンに溜まった尿を袋に流すのを面白がってしていた優介なのだが、そんな時いつも義父は、申し訳なさそうに
「すんませんなぁ、ありがとう」
と孫に丁寧に謝辞を述べる人だった――手を拝む様に合わせながら。
今は、それが出来ないのが歯痒いらしく、少し眉間に皺を寄せながら、一生懸命、目をしばしばとまばたきさせた。
そして、頭を下げたいんだろう。うんうん、と首を縦に振った。
それがまた私達家族に期待と希望をくれる。嬉しくて、健康な時なら当たり前に思っていた事がありがたく感じて、都度狂喜する。
言葉に出来ないだけで、本当に、意識が回復して来ている義父。麻酔の影響が徐々に抜けて来ているという事がよく解る。
術前の錯乱状態の時よりも、随分と自分の今の状況が認識出来ており、麻酔による混濁も見受けられない、というのが穏やかな優介を見つめる視線でよく解る。
つまり、脳障害の懸念がひとつ減ったという事な訳で……。
すごく、嬉しかった。あんなに不安と心配で嵐のように荒れていた気持ちは何だったのだろう、と呆れてしまうほどに。
少しずつ、ゆっくりと、焦らずに。
そうしたら、きっとまた義父は、声を発する事が出来る様になるだろう。
また小憎たらしい憎まれ口を叩くのかしら、この人は。
それもまた、腹を立てながらも次は私もちゃんと胸の内を溜めずに吐き出すつもりだから、楽しみ、といえば楽しみかも知れない。
そんな未来を妄想してしまうほど、順調な回復振りだった。
「凪さん、もう半月で退職でしょう? お父さんも順調だし、貴女も優介の卒園式や入学準備や引越しに関しての手続きもまだ済んでいないし、もう温かくなって来て、私も電車で充分通えるから、荷物が必要な時には連絡するから、仕事に専念なさいな」
と義母が言ってくれた。
それは、いつもの入院時のやり取りと同じ様なやり取りで。
「そうですか? ありがとうございます。じゃ、お言葉に甘えて、ちょっと仕事と家の方に専念させていただきますね」
夕飯の方は、おばあちゃんも電車通いになると疲れが大変でしょうから、心配なさらないで、と付け加え、いつもの自分へと戻っていった。
いつもの――仕事モードになると家庭の事を煩わしく感じ、義母の急な要請に愚痴を漏らす、相変わらずなダメ嫁へと戻っていってしまった。




