70 レミーナ
ここを左に曲がったらそろそろ抜けますよ、とクレトが声をかけてくれた先には淡い光の筋が見えていた。
広かったは通路はやがて人一人分の狭さとなり、並びを列に変えて傾斜している道を登りながら曲がっていくとクレトの背中の先に光の輪が見える。
ずっと暗い道を歩いてきたから差し込んでくる自然の光が眩しい。レミーナは手をかざしながら光源の中を抜けると、辺りは深い緑の木々に囲まれていた。
「森……? グレイさんの所のような?」
「いや、あの場所とは陽の位置がちがう。王宮の北東に出たか」
「そのようですね。見渡しても宮殿の位置がわかりませんので、山一つくぐり抜けているかもしれません」
地下通路を抜け出てみたものの、目的である場所がどこに在るのか分からない。レミーナは途方に暮れるのだが、殿下とクレトがすぐに歩き出したのであわてて歩調を合わせる。
「お二人とも、ここがどこだかお分かりなのですか?」
「いや、知らぬ」
「おおかたの予測はつきますが確かな位置はわかりませんね」
分からないけれど歩き出せるんだ……!
レミーナはもうそれだけですごいと思ってしまう。
一瞬の気遅れが歩みを鈍らせ、二人から離れそうになってしまった。いけない、と小走りについていくとふいに殿下の歩みがゆるんだ。
レミーナが殿下の隣に並んだと同時にまるで当たり前のように手を繋がれる。
……っ!
何気なく握られた感じがして、ただそれだけなのにレミーナの頬は急に熱をおびていく。
なんで慣れないんだろう、殿下は当たり前のようなのに、わたし……!
まるで恋人のような距離感にレミーナは小刻みに首を横に振る。
「きっと迷子防止! 遅れるの防止のためよ、あんまり意識しちゃだめっ」
「それだけではないのだが」
「うわっ、わたし口にだしてました?!」
「ぶふっっ」
前をいくクレトの肩が大きく揺れるのに、レミーナは赤面が止まらない。
あーもう! 考えてること口に出すの癖になってるのやめてっ 地下王宮のばかぁっ
一人で歩く地下通路の寂しさを一つ一つ声に出すことでまぎらわしていた。それがこんな風に自分に返ってくるなんてひどすぎる。
レミーナは少しだけ涙目になりながら歩いていると殿下の手がなぐさめるようににぎにぎしてくれる。
王太子妃として大切にしてくださっているにしてはちょっと過剰にさわられている気がする……もうちょっと自重してもらうようにいう? でも……。
はずかしくて穴があったら入りたくなるぐらいなのに、この柔らかな空気をこわしたくなかった。
こんなに殿下を身近に感じる機会なんて、きっとそんなにないよね。
誰にいうでもなく片手を胸にあて小さな祈りを捧げるのだが、レミーナの周りは無情にも動いていく。
前を向いていた殿下がふいに呟いた。
「そろそろか」
「ですね、こうして音を立てていれば」
「ん? どうかしました?」
レミーナは小首を傾げたのだが、クレトは間髪入れずに応えている。レミーナが音を立てるとはどういう意味なのか問おうと顔を上げた瞬間、静かな男の人の声が響いた。
「無事の到着、お待ちしておりました、アルフォンス殿下、レミーナさま」
「ひぇっ!」
足音もせず目の前に現れた騎士は近衛の制服を着ているのだが、殿下の護衛騎士とは雰囲気が異なっていた。見知った武官の礼をしているのにゆらりとした慇懃さが見え隠れする。
それにびっくりして悲鳴を上げてしまったことに対しての反応がないことに、レミーナは人知れずこくりと生唾をのんだ。
クレトが一言も話さずすっと殿下の脇に控えると、一行の前に進み出た騎士はニコライと名乗った。斜めにかかる灰色の前髪から認められる碧眼の色は薄く、はっきりとしない。
こちらを見ているのか見ていないのかわからない目線に戸惑いながらレミーナはカテーシーをとる。
「レミーナ・ルスティカーナと申します。以後お見知り置きを」
半分は雰囲気に呑まれて貴族としての挨拶をしたレミーナに、ニコライは器用に片眉を上げた。やがて武官としての礼から貴族の礼をとり、レミーナの指先を手に取り、軽く口付ける。
「ニコライ・ブレトンと申します。普段は陛下のお側に控えております。私が爵位持ちだというのはあまり知られていないのですが、どなたからの情報かお聞きしても?」
「い、いいえ、とくに誰からという訳では……クレトさんが言葉なく控えられたので身分がお有りの方かとお見受けしました」
「これはこれは、よい目をお待ちな方だ」
お見それしました、とわずかに口元で笑みを浮かべたニコライに対して隣の殿下がわずかに揺れた。
クレトさんも息を詰めてるみたい……なぜこんなに緊迫した空気なの?
二人の様子が気になるが、レミーナはひとまずありがとうございます、とそのまま賞賛受け取る。
いいよね? わたし、間違ってないよね⁇
少し不安になって殿下を見上げると、珍しく瞬きをした殿下は前を向きながら大丈夫だ、と頷いた。
「ここから屋敷への道は入り組んでおりますのでご案内させて頂きます。ではこちらへ」
そういって背を向けたニコライに続いて、三人も歩き出した。
止めていた息を吐き出すようにクレトが驚きましたね、と小さくで話しかけてくる。
「ああ、初めてみたな」
「なにをです?」
「あの者の笑み」
神妙に頷いているクレトが自分も伝え聞いた逸話なのですが、と小声で話してくれた事によると、ニコライは卓越した剣技の持ち主で、音もなく相手に忍びよりいつの間にか倒していくことからついたあだ名が〝幽玄のニコライ〟。
「訓練で仰向けにされた者だけがニコライさまの微笑みを見た事があるとかなんとか」
「じゃあまともに見たことがあるのは」
「おそらく我らだけだろうな」
ひょえぇ、とまたしても喉から出てしまいそうな悲鳴をなんとかこらえる。
そんな自分たちを気にすることもなく、すいすいと道なき木々の間を進んでいくニコライの姿はレミーナからみればちょっと雰囲気のある護衛騎士に過ぎない。
こちらを一度も振り返ることなく、かといって置いて先に行くこともなく絶妙な距離感をとりながらニコライは森の中から屋敷への道のりを案内してくれた。
道なき道を歩いていると、やがて建物らしき風景が木々の合間からみえてきた。思い描いていた堅牢な屋敷ではなく屋根が広く取られた温かみのある木造の屋敷にレミーナはわぁ、と目を見開く。
「あまりこちらでは見ない形ですね! 上の方にも窓があるから屋根裏部屋があるのかしら、憧れます!」
玄関扉の前にある二、三段の階段を上がると右手には木のデッキがあり、二人がけのベンチがおいてある。
正面の扉も柔らかな木目で作られていて、見たことのない蔓草で編まれたリースがかかっていた。
「小さな頃よく読んだ『おしゃべりなカナリア』の絵本に出てきそうな家……あっ」
ここにいらっしゃるであろう人の生まれた国を思い出して思わず口元を手で押さえる。
前をゆくニコライが振り返りやはり微笑みをたたえながらレミーナに伺う。
「楽しまれているところ恐縮ですが、主人に到着を知らせてもよろしいですか?」
「は、はい。すみません、お手数をおかけします」
こくこくと頷くレミーナに、では、と会釈をするとニコライは扉をノックした。
「陛下、妃殿下、アルフォルス殿下、レミーナ・ルスティカーナさまをお連れしました」
入れ、と言われた声音は壁越しに聞いたときと同じ太い声。ニコライが恭しく扉を開ける。
木目の短い廊下の先に開けた空間があった。
温かい暖炉の空気が緊張した頬をゆるませてくれる。
「遅かったな、だいぶ遊んでからきたか?」
「騎士の回廊に迷い込んだので」
「おやおや、それは」
殿下の応えに、だいぶ楽しんだようだ、とにやりと返したのはベルナルド・ファン・ルイビス陛下。
そして陛下の隣に座っている白金の美しい女性がじっとこちらを見ている。
初めましてで対決。
レミーナは気を引き締めて、ふっと息をはく。
その気配に自分の右手が力強く握られる。
隣をそっと見上げると、意思をもった海空色の瞳が変わらずにこちらを見ていてくれた。
はい、がんばります。
レミーナは感謝を込めて頷き、落ち着いて前を向いた。
「父上、義母上、ご紹介します。こちらはレミーナ・ルスティカーナ嬢、私の婚約者、そして王太子妃に望む者です」
右手の指先をエスコートされて殿下の一歩前に立たせてもらう。手を離すまえに軽く握ってくれた、言葉はなくともどこまでも気づかってくれる、そんな殿下の隣に立ちたい。
レミーナは制服のプリーツを軽くつまみ、心を込めてゆっくりと膝を折った。




