(6)
白い立ち襟のシャツにサスペンダー、ズボンという動きやすくも清潔な恰好をした青年は、手を離して理人の向かいに膝をつく。
「やあ、どうも」
青年は鳥打帽のつばを軽く上げて挨拶してきた。短い黒髪と涼やかな目元、そして小さな泣き黒子が露になる。
いかにも爽やかな好青年といった態と、帽子を上げる仕草に、理人は見覚えがあった。
「君は、乙木サロンの……」
理人が乙木サロンを訪れた際に、いつも挨拶をしてくれる庭師の男だ。サンルームの近くの庭園を手入れしている彼と、何度か話をしたことがあった。
理人が覚えていたことに、青年は少し驚いたようだ。「ああ、覚えていたんですか」と軽く目を見開いた後、青年はカホルに手を伸ばす。
「カホルさんを寄越して下さい。俺が介抱します」
「だが……」
「あなたには無理ですよ。だってこの子のこと、何も知らないでしょう?」
「……」
指摘を受けて、理人は一瞬返答に詰まった。その隙に、青年はカホルをさっと奪い取ってしまう。
まだ震えの止まらないカホルは、ぎゅっと体を丸めて青年にしがみついた。縋るその手を青年が握る。
「……大丈夫。俺です、ノブキですよ。安心して下さい」
幼子に言い聞かせるように、優しく青年が囁く。
「俺の声だけを聞いて下さい。ゆっくり息をして……そう、ほら、ちゃんと息ができるでしょう。もう苦しくありませんから。目を開けて大丈夫ですよ、ここは外です」
青年の声に導かれ、カホルの呼吸が深くなり、身体の震えが少しずつ治まっていく。やがて瞼がわずかに開くが、すぐに閉じてしまった。
呼吸が落ち着いたのを見計らって、青年はカホルを抱え上げた。理人や一谷に比べれば背は低いが、そこらの男性よりも力はあるようだ。
「おい、君、その子をどうする気だ」
カホルを連れていこうとする青年を一谷が引き留めようとする。青年はくるりと顔だけ振り向かせて言った。
「安心して下さい、一谷さん。俺はこの子の……そうですね、世話役のようなものです」
「ちょっと待て、なぜ俺の名前を知っているんだ」
「ああ、申し遅れました。俺は高倉です。……高倉淑乃、ご存知ですよね?」
知った名前が出てきて、理人と一谷は思わず青年の顔を見る。
細面の顔、涼し気な目元は、乙木ビルの管理人である女性――高倉淑乃にどことなく似通っていた。
「淑乃の兄です。高倉伸樹といいます。どうぞよろしく」
淑乃女史とは異なり、にこりと愛想良く笑う青年――伸樹は、理人と一谷に一礼した。
***
伸樹はカホルを抱えて、近くのひょうたん池まで運んだ。喧騒から遠ざかった中で、伸樹はカホルを人気のない長椅子に下ろす。
襟を少し緩め、額の汗を拭いて、茶屋でもらった水を飲ませる――手慣れた伸樹の世話の甲斐あって、カホルは今度こそ気が付いたようだ。
ゆっくりと瞬いた目が焦点を結び、伸樹を見て驚いたように見開かれる。
「……のぶき……?」
「はい。五日ぶりですね、カホルさん」
「どうして……」
眉を顰めるカホルに、伸樹は微笑む。
「淑乃から頼まれたんですよ。あなたの体調が悪そうだから、見守ってくれないかと。聞きましたよ。ここ数日、あまり寝れていないそうですね」
「……」
「よりにもよって、浅草ですか。こんな人の多い所に連日来て、しかも暗くて狭い活動小屋に入るなんて、そりゃあ体調も悪くなりますよ。あなたは馬鹿ですか」
微笑みながらの伸樹の言葉は辛辣だ。カホルの眉間の皺は深くなるが、言い返さないところを見ると、図星を突かれたのか。
カホルは渋面のまま、伸樹の手を払って起き上がろうとする。子供の癇癪など気にしないというように、伸樹は意に介した様子もなく、カホルが起き上がるのを手伝った。
長椅子に座ったカホルの顔を覗き込み、苦笑した伸樹が言う。
「あまり淑乃に心配をかけさせないで下さい。ご自分でもよくわかっているでしょう、あなたは普通の身体じゃないってこと――」
「伸樹」
カホルの咎める声に、伸樹は軽く肩を竦めた。
「……ああ、そういえば彼には秘密なんでしたね」
伸樹はちらりと横目で理人を見る。わざとらしい仕草であった。
ちりっ、と理人の胸がざわめく。その感覚の正体を知る前に、伸樹はカホルの白い頬に手を当てた。
起きたとはいえ青白い顔をしたカホルに、伸樹が言う。
「それより、今日はもう帰りましょう。ビルまで送りますから」
「……まだ帰れない。子供達を探さなくちゃ」
「無茶を言わないで下さい。そんな顔色で何ができるんです」
「でも」
「でもじゃありません。これ以上無理をするようなら、旦那様や奥様に言い付けますよ。勿論、ご兄弟の皆様にもね。そうなれば、あなたを連れ戻そうとしますよ。特にケイスケ様は」
ケイスケ、という名前にカホルがぎゅっと唇を噛む。カホルと伸樹は、しばらく無言で見つめ合う。やがて、カホルが小さく頷いた。
「わかった、今日は帰るよ。……でも、明日、また浅草に来る。子供達がいなくなる理由がわかったんだ」
「……カホルさん」
頑ななカホルに、伸樹が呆れた息をつく。
「だったら、警察に理由を話して後は任せればいい。ほら、ここにちょうど一谷さんがいるでしょう」
笑みを消した伸樹が顎を振って、一谷を示す。名指しされた一谷は戸惑いながらも、うんと頷いた。
「高倉君の言う通りだ。子供達を探すのは我々の役目であるから、後は任せなさい」
「いいえ、駄目なのです。これは警察、いえ、大人では見つけることができません。そこに辿り着くには、子供……笛の音が聞こえる者でないと」
「ふ、笛?」
何を言っているんだ、と一谷が不可解な顔をする。
しかしカホルはそれに答えずに、伸樹の腕を掴んだ。真剣な表情で頼み込む。
「お願い、伸樹。協力してほしいんだ」
「……話によります。でも、その前に約束通り帰りますよ」
伸樹がもう一度溜息をついて話を切ると、カホルを抱えようと腕を回す。ふと、その時偶然に、顔を上げたカホルと理人の目が合った。
カホルはパッとその目を逸らし、肩に回った伸樹の腕を押し返す。
「ひ、一人で歩けるよ」
「はあ?何を今さら恥ずかしがっているんですか」
「いいから、大丈夫だから」
「大丈夫じゃないでしょう。ほら、大人しくして下さいよ」
気心知れた会話を交わすカホルと伸樹を見ながら、理人は胸に宿るざわつきが不快感であることを自覚した。
同時に、何故不快感を抱くのか、自分でも理由がわからずに困惑する。
「……」
妙な苛つきを覚えながら、理人はカホルから目を逸らした。




