第五十六話 父の凱旋
父上が古渡へ凱旋してきました。
『父上の凱旋』
天文十六年の九月もそろそろ終わろうかという頃、父信秀が古渡に凱旋してきました。
この度も、策の通りの展開で、大勝利を収めたと聞きますが、少なからぬ犠牲が出たとも聞きました。
古渡から出陣していった者らの中にも、戻らなかったものが居るのかもしれません。
しかし、既に那古野での戦勝祝を経ての帰還だからか、戻った者達の表情は明るく、板金鎧を着て出陣した馬廻りの者たちも皆無事生還のようです。
この度の策は、城からの誘引と包囲殲滅という二つの事を同時に成した為、父上ならばやり遂げると思い献策しましたが、容易ではない策ではあったのです。
前回も同じ策で釣りだして叩いてますから、同じ手は二度食わずとばかりに、斎藤方も三箇所の間道から兵を繰り出したりという事をやってきてます。
ですから、この手はもう斎藤相手には使えないでしょうね。
ちなみに、戦の推移に関しては古渡勢に同行させていた加藤さんからの報告を既に聞いています。
城に戻ってきた古渡勢に、父上が労いの言葉をかけると軍勢を解き、屋敷に戻ってきました。
「吉、戻ったぞ。此度も勝てたわ」
「父上、戦勝、そして無事のご帰還、何よりです。
お疲れ様でした」
「うむ。此度は少々疲れたわ。
後で部屋へ行く故、一先ず休むとする」
そう言うと、具足を解きながら奥へ下がっていきました。
これから、風呂に入って体を休めるのでしょうか。
ちなみに、我が家にはこの時代で言う所の風呂、つまりサウナ風呂とは別に湯を張る所謂檜風呂があるのです。
湯を張るのは大仕事なので、滅多に風呂には入りません。
なにしろ、炊事場で湯を沸かせて、人海戦術で桶に流し込むのですから。
薪だって馬鹿にならないのです。
シャワーとか循環式の風呂釜とかそろそろ作るのも良いのかもしれませんねえ…。
『父との対話』
夕餉の後、父が部屋を訪ねてきた。
「待たせたな。
実は戻ったばかりだが、また出陣することになった」
「三河ですか」
「うむ。
戸田氏への後詰は上手くいったが、やはり遠江国と接するところまで尾張方が勢力を伸ばしている事が今川としても放置出来ぬのだろう」
「遠江には未だ今川に心服しておらぬ国人もおりますから」
「そうであろうな。
故に、吉田城を奪還しに来ると見ておる。
同時に先だっての和議を拒否した岡崎も動き出す可能性がある故、そちらにも当たらねばならぬ。
儂は準備が整い次第、三河へ向けて出陣する故、そのように心得ておいてくれ」
「わかりました父上」
「此度の三河での戦は、遠江の軍勢との野戦であろう。
遠江勢との戦について、何か良き策は無いか?」
「そうですね。
西遠江の井伊谷という地を治める井伊家という国人がおりますが、この一族の者が内紛による讒言で自害させられており、今川に心服しておりませぬ。
恐らく、先だっての戸田攻めにも参陣していたと思いますが、今川に従っての出兵で、特に我等に含む所は有りません。
もし、手を入れるならば、この井伊家を調略するのが良いでしょう」
「井伊家か…。先の守護様の時代、遠江に兵を出した時に味方した国人であるな。
調べさせてみよう」
「はい」
「さて、美濃攻めの話であったな。
先に話した様に、此度も斎藤方を散々に討ち果たし、和議となった。
朝倉孝景殿、土岐頼純様と斎藤利政殿の間で和議が結ばれ、頼純様に利政殿の娘が輿入れすることになった。
これで一先ず、美濃は落ち着くであろうが、利政殿はこのままでは終わるまいな」
「そうですね。
利政殿は名実ともなう国主を目指しているでしょうから、守護の土岐家をそのままにしておくことは無いでしょう。
私は利政殿こそ守護様を権威として担ぐべきだと思うのですが、今のように蔑ろにしていてはもはや関係の修復は難しいでしょう」
「そうであるな。
いずれ頼純様をまた蔑ろにし、追放するやも知れぬ。
孝景殿が後ろ盾故、再度の出兵を招かぬように暫くは大人しくすると見ておるのだが…」
「そうあって欲しいものですね」
「うむ。
此度の戦は、吉の地図が大いに役立った。
吉の策を用いたのであるが、甲賀衆に事前に間道を調べさせた所、三箇所から兵を繰り出してくる可能性があった故、陣を分け、それぞれに当たるようにし、美濃勢を釣り出し、受け止め、押し込まねばならなんだ故に、少なからぬ犠牲が出たのだ。
吉の策通り、敵が前回と同じ、騎馬で食い破り、後から来る槍で突いてくるという二段であればここまで苦労はせなんだのだが…。
地図に甲賀衆の働きがなくば危うかったやも知れぬ。
敵もさるものという事よな」
加藤さんからの報告は聞いてましたが、流石に実際指揮を取った父上の話は重たいです。
この父は、私の策と地図を元に甲賀衆を活用し、策を最適化して包囲殲滅戦をやり遂げたのです。
やはり、この柔軟さと器用さは只者ではありません。或いは信長よりも有能だったのではないかと私は思います。
「そうでしたか。
難しい戦での見事な采配。さすが器用の仁の二つ名で呼ばれるだけ有りますね」
それを聞くと父は少し照れたような顔をして笑う。
「ははは。
器用の仁か、誰がいい出したのかは知らぬが、気恥ずかしい限りよ。
難しい戦であったのは話したとおりであるが、吉の作らせた鎧、あれは役に立った。
あの鎧は、何が起こるかわからぬのが戦故、儂が着た他は、馬廻りに着せたのだ。
結局、儂が指揮をする本陣まで敵が来ることは無かったのだが、伝令に出た馬廻りが誰一人傷つくことも、討ち死にする事もなく帰ってこれた。
此度の戦で、馬廻りが無事であったのは、正にあの鎧のおかげなのだ。
これまでの鎧でも、例え勝ち戦であっても乱戦で馬廻りが傷を負ったり、討ち死にして戻らぬ事はあったのだが、此度はあの鎧が無ければ幾人も討ち死にしておったかもしれぬ。
と言うのは此度、斎藤方が鉄砲を戦に使ってきたのだ。
勿論、我が家と同じく多くを揃えているわけではない。
違うのは斎藤方は鉄砲撃ちを使って伝令を狙いうちさせていたのだ。
鉄砲というのはそう当たるものでもないはずなのだが、斎藤方は鉄砲に通じた傭兵でも連れてきたのか、鉄砲に撃たれ胴に弾を受けた伝令が幾人もおったのだ。
幸いにも、距離が有ったのか相手の鉄砲の威力が弱かったのか、あの鎧のお陰も有って抜けたのは一発も無かったが、後で見たらたしかに板金鎧に凹みが出来ておったわ。
馬廻りは、弾を受けた時死んだかと思ったそうだ。
結局、抜けておらぬことがわかったので、最後までみな役目を果たしたのであるが、もしあの鎧がなく、何人か討ち取られておったら、どうなったか…。
結局、不思議な事に、暫くすると鉄砲の音がまるでしなくなったのだがな。
弾や火薬は高価故に、弾を打ち尽くして引き上げたのかもしれぬが…。
相手も鉄砲を使ってくるということがよくわかったわ」
「斎藤方も鉄砲を使ってきたのですか…。
どこからか買ったのか、傭兵を雇ったのかは判りませんが、紀伊の国の根来寺に鉄砲名人がいるそうですよ。
それは兎も角、先に手をうっておいて良かったです」
「紀伊の国の根来寺か、それは傭兵なのか?」
「そこまでは判りませんが、根来寺の鉄砲名人に鉄砲を学んだ者が傭兵をやっていても不思議ではないと思いますよ。
ところで、父上の軍勢は鉄砲は使われたのですか?」
「そうだな。そうかも知れぬ。
そう言えば、平手が連れてきた鉄砲撃ちなら知ってるやも知れぬな。
鉄砲は、今は使っておらぬ。
あれは此度の斎藤方の様な使い方もあるのだろうが、数を揃えねば使えぬ武器故な。
しかも、火薬が高すぎる。
故に、数が揃うまでは取っておくことにした。
戦場で無くしでもしたら大損害ゆえな。
いずれ、尾張でも鉄砲が作れればいいが、商人に取り寄せさせるのでは高すぎる」
「そうでしたか。
確かに、鉄砲は火薬の費用が馬鹿に出来ませんね。
数を揃えないと、敵を止めることも出来ず、更には練習するにも火薬がいる。
いずれ鉄砲の値段も火薬の値段も下がるかもしれませんが、父上の言うとおり時期尚早かもしれませんね」
「うむ、そうであろう。
せめて五十でもあれば違うのであろうが、十に満たぬ数ではな…」
「そうですね。
それに、鉄砲は弾を撃つにも時間がかかりますし。
二百位揃えねば、目ざましい威力は発揮しないかもしれません」
「二百とな!?
ふはは。そんなに買うては家が傾くわ。
しかし、弓を考えれば吉が言うとおりその位は要るのかもしれぬ。
弾込めに時間がかかるならば、五十を一度に打てばそれで終いだろう。
次に撃つ頃には敵が目の前に居るやも知れぬわ。
…数もそうだが、使い方にも工夫が必要であるな」
「はい。まだこれからの武器でしょう」
「うむ。
おお、そうであった。
吉が望月の者らに作らせた薬であるが、戦にも持ち込んで使ってみたのだ。
あれは、これまでの常識が覆るな。
望月の者に医術に明るい者がおったので此度同行させ使わせたのだが、刀傷やら槍傷、矢傷など戦での傷がもとで死ぬ者がかなり減ったわ。
綺麗な水で洗い、酒精の強い酒を掛け、ヨーちんと呼んでおる茶色の液体を掛けて、麻の帯で包む。それだけで、これまでは傷が熱をもって悪化し、悪くすれば切り落としたりそのまま死んでおった者が出なくなった。
傷で気力が衰えた者も、あの薬酒を飲ませれば気を保たせることができる。
この度は、試しであるが、先の戦ではもっと本格的に使いたいのだ。
それで、吉は漢書にも通じ、医術の知識も多少はあると聞いておるが、戦場で傷を負ったものを治療する手順書きの様なものは作れぬか?
この度は、望月の者がおったが、幾人も居るわけでもないのでな。
医者程ではないにせよ、傷を悪化させぬ程度には戦場で対処できるものが多くおれば、更に多くの者が助かるであろう」
所謂、衛生兵の為のマニュアルを作れと、そういうことですね…。
「わかりました。
少し時間がかかるかもしれませんが、考えてみます」
「うむ。頼んだぞ。
それと、もう一つあった。
吉が以前儂に進言してくれた、戦の後始末の話よ。
此度の戦から取り入れてみた。
討ち死にした者の残された者への報奨金、それに寡婦や遺児の世話。
更には、不具となった者への仕事の斡旋であるな。
吉に言われてみれば、確かに戦に出るだけが仕事ではなく、探せば幾らでも仕事があった故、それらを新たな役目としたり、斡旋したりした。
その手当で、古渡へ戻るのに日にちが掛かったのよ」
「そうでしたか。
それは良かったです。
亡くなった者、残された者、不具となった者、皆我が家の為に働いた結果ですから、その事を忘れず、しっかり手当をする。
そうすることで、我が家に対する忠誠心が高まり、兵らは安心して働けましょう。
寡婦や遺児は露頭に迷うこと無く、身持ちを崩したり悪い道へ進むこともない。
不具となっても新たな仕事を得ることで、家族を養えます。
結果、全ては回り回って皆我が家に数倍して戻って来るでしょう」
「そうであるな。
帰りの道すがら、その事を考えておったのだが、何故これまでそこまで思い至らなんだのか。
儂とて、これまで遺族や遺児をそのままにしておいたわけでは無いのだが、それでは不十分であったということがよくわかったわ。
進言、感謝するぞ」
「話を聞いてもらえる人が父上で良かったです」
「ははは。
儂も、吉のような娘を持てて幸せよな」
というと、照れたように笑ったのだ。
「さて、ではまた暫く屋敷を空けるが、息災でな」
「はい。父上も。
それと、父上。
三河には今川と対する故、多くの兵を連れて行くのだと思いますが、そのすきに斎藤利政殿が動くと思います」
「斎藤が?
散々に討ち果たされ、和議を結んだばかりと言うのにか?」
「父上、斎藤利政殿が和議を結んだのは、朝倉殿と土岐様であって武衛様、つまり父上とではありません」
「そ、それはそうだが…、斎藤方を討ち果たしたのは我らだぞ?」
「ええ、勿論それはそうです。
しかし、我が方と斎藤とは和議は結んでおりません。
我らは朝倉の手伝い戦に兵を出しただけですから」
「むぅ。ではどうなのだ?」
「尾張に兵を出すほど愚かでは無いでしょう。
父上とて、大勢を連れて行くとはいえ、尾張を空にしていくわけでは有りませんから」
「無論、そうだ。
それなりの兵を犬山など、美濃に向けた城に入れておく」
「はい。
ですが、三河に兵を出している間に、美濃にも兵を出すことは無いでしょう」
「…、そうなるであろうな。我らから斎藤を攻めることは今は考えておらぬ」
「ですから、斎藤利政殿は、父上が東三河に出兵し、直ぐには戻れぬ時に、大垣の奪還にかかると思います。
大垣にはそんなに大勢の兵を入れているわけではないでしょう?」
「大垣にか?
大垣には織田播磨守信辰が入っているが、確かに兵数は五百程度だ」
「しかも、元々大垣城は斎藤方の城です。
この度の美濃攻めで散々に討ち果たしたと言っても、城を空にして攻め寄せたわけでもないのですから、大垣城を攻める位の兵の余力はあるでしょう。
大垣城を奪還し兵を入れてしまえば、三河でも同じく大勝利を収めたとしても、更に取って返して大垣攻めというのは幾らなんでも難しいでしょう」
「…たしかにそうであるが…」
「ですから、来なければ来ないでかまわないのです。
斎藤方が動いたときのために、手を打っておけばいいでしょう」
「ふむ…。
そう話してきたと言うことは、何か良き策があるのか?」
「はい。
斎藤方が大垣城を攻めれば、恐らく播磨守殿は城に籠もり救援を求めてくるでしょう。
つまり、勝幡城に救援の為の兵を入れておき、斎藤方が大垣城を攻めだした所で、大垣からの救援要請を勝幡で受けるようにし、要請を受ければ直ちに勝幡から出陣して、攻城中の斎藤方に横槍を入れるのです。更には、救援の兵を急行させる過程で、大垣から稲葉山までの斎藤方が通ると予測される場所に幾つもの兵を伏せておくのです。
予想以上に早い段階で救援の兵がくれば、恐らく斎藤方は直ちに兵を引きますから、その帰り道、伏せておいた兵で何度も叩くのです。
そうすれば敵兵は恐慌状態で潰走し、多くの兵を失うことになるでしょう」
策を聞くと、父は膝を打ち頷く。
「なるほど、それは良き策だ。
読みが外れて来なければ来ないで、問題はない。
その策で、斎藤方を更に叩いて今度こそ斎藤利政殿と我らで有利な条件で和議が結べれば、今度こそ暫く安定しそうであるな。
献策、感謝するぞ」
「はい。
では御武運を」
「うむ」
さて、斎藤方の大垣攻めで、斎藤方を散々に叩けば、流石に今度こそあちらから和議の使者が来ることになるでしょう。
三河で無事勝利して戻れば、それこそ年が明けて繁盛期前に大軍で稲葉山城に攻め寄せる可能性があるのですから。
多分、父は三河が安定するまで攻めないと思いますけどね。
そしてまた、信秀は三河へ出陣していきます。
吉姫は、衛生兵用のマニュアルをせっせと執筆することになります。




