第百九十七話 義元公来訪
義元公が急遽尾張へとやってきました。
私の許に藤三郎殿が火急の知らせに訪れてから五日後、義元公が雪斎和尚と共に船で尾張へと到着しました。通常であれば今川屋敷に一度入り、旅の疲れを癒してから会見に臨むのですが、今回は余程急いでいるのか、藤三郎殿が手配して湊に用意してあった馬車に一行が乗り込むと、そのまま慌ただしく清洲へと向かいました。
何時もと違い、到着したその日に清洲に入っておいて、翌日直ぐに武衛様との会見に臨むようです。
もしかすると今晩、父との間で事前の話し合いがもたれるのかもしれません。
清洲に到着した義元公一行は、予想通りその日の夜に先に父と会った後、翌日の朝から守護館で武衛様と父との会見に臨まれました。
会見は午前中では終わらず、それどころか午後からは武衛様や父の重臣も加わって続き、夕刻遅くになって漸く終わったのですが、義元公一行はその日のうちに今川屋敷まで戻り、翌朝には船で駿河に帰って行きました。今回の義元公の訪問日程は、随分と強行軍です。
ところで私は今、清洲にある屋敷に家族と一緒に住んでいるのですが、父が清洲に移った事で古渡の方の屋敷は私がそのまま仕事場兼別宅として使って居ます。
そんな関係で、基本的には清洲の屋敷に住んでいるのですが、週の何日かは古渡の屋敷の方に居たりします。
でも今回、義元公が火急の用件で尾張に来られると言う事で、私は念のために清洲の屋敷に居るようにしたのですが、会見を終えた義元公一行が今川屋敷へと戻った夜、父が私の所へ話があるとやって来ました。
「吉よ、少々厄介な事になった」
「厄介な事…、ですか」
随分と長い時間話し合っていた様ですが、もしかして今川家との間で何か問題でも発生したのでしょうか…。
今、加藤殿には将軍不在の件で京の都の方に行って貰っていて、駿河や遠江などは加藤殿の配下の人が情報収集を行っている筈です。ですが、特に差し迫った報告は受けていません。
「うむ。実はな、義元公の許に京の都より使者が来たのだ」
「都…、次の将軍が宣下されたのでしょうか」
「いや、それであれば義元公が火急の用などと尾張まで来る事は無い」
それもそうです。少々遅れましたが、史実通り義輝様が宣下を受けて将軍になられたとしても、その知らせを受けた義元公が、わざわざ自ら大急ぎで尾張に知らせに来たりはしません。
「京からの使者とは勅使でな。畏れ多くも主上より義元公に上洛せよ、と勅が下ったのだ」
私はその話を聞いて思わず息をのんでしまいました。
信長の居ないこの世界の歴史では義輝様が弑逆された時、佐吉さんが学校で習ったうろ覚えの記憶では、義元公が上洛して将軍宣下を受けて新たな幕府を開いた、と聞きました。
結局、今川家による幕府は義元公と代替わりした氏真様が謀反で殺されてしまい、今川家の腹心となって居た松平元康が敵討ちをして権力を掌握し、その後日本を平定して江戸幕府を開いて、その後の歴史は大体私の知っている歴史の流れと同じだった、という話でしたが…。
もし〝義元公上洛〟が帝の勅によるものであったなら、それは歴史上の一つの大きな出来事として残っている筈ですし、そもそも帝が直接武家に上洛命令を出した、などという話は聞いたこともありません。
「此度義元公自らが尾張に参られたのは、その勅についての話と、上洛するにあたっての我等の身の振り方についての談合をする為よ」
「父上は上洛に同行されるのですか?」
「然るべき軍勢を率いて共に上洛することとなった」
ただ京の都に行くだけならそれ程の軍勢を率いていく必要は無い筈ですが、今京の都は三好家が掌握している筈です。
つまり、自分達の将軍候補を担いでいる三好家と戦になる事も想定している、という事なのでしょうね。
都のある山城の国の東の入り口には近江の国があり、六角家が治めている地を上洛軍が通ることになるのですが、定頼公はどうされるのでしょうね。
定頼公は足利将軍家の後ろ盾として義輝様の後援もしていた筈。転生者でもあるから帝の意向に逆らうとは思えないけれど、今義輝様と幕臣達は、近江の坂本や朽木家に逗留して将軍宣下を受けられるように公卿方に働きかけている様です。
それについて、定頼公が引き続き支援しているのか、それとも宣下を受けられなかった時点で見限ったのか、そこまではわかりません。
恐らく、義頼殿ならばその辺りの事情を知って居るかもしれませんが、国許に帰られてからまだ一度も連絡はありません。
「そうですか…。
いつ頃出立されるのか、もう決まって居るのですか?」
「まだ具体的な日にち迄は決まっては居らぬが、義元公が上洛軍を率いて尾張へと到着次第、出立することになるだろう。
それ程先の話ではない筈だ」
「手薄になる駿河に万が一の時があれば、兄上がまた三河から救援に向かう、という事ですか」
「そうなる。
北条家に今の所動きは無いが、義元公が軍勢を率いて遠路上洛したなら、駿河で何か事があったとしても簡単に戻る事は叶わぬ故な」
何かフラグを立てた様な気がしますが…。流石に関東をそのままにして北条氏康殿が駿河に兵を出すかどうか…。何とも言えませんね。
「吉は、義元公が上洛の軍勢を都に進めたなら、どういう事が起こりえると考える」
「そうですね。
正直、色々な事が想定されて、軽々な事は言えませんが、間違いなく二つの勢力が問題となるでしょう。
一つは、山城の国の東の入り口に位置する南近江を領する六角家。御当主である六角定頼様は、幕府を安定させようと将軍家を後援してきました。将軍宣下を受ける事が未だ叶っていませんが、将軍家継嗣である義藤様の烏帽子親を務められています。
それ故に、六角家と当家は半ば盟を結び道を繋ぎ商いを厚くする間柄ですが、それと義元公上洛の事は別の話。
定頼様は共に上洛に加わるのか、それとも通過を認めて静観するのか、或いは坂本に居られる義藤様を擁立して立ちふさがるのか。
私は、義元公と父上が定頼様と会見の場を持てば、上洛を阻止する動きは無いと思います」
「六角家か…。心に留めておこう。いずれにせよ観音寺を通過する前に予め会見の場を設けるつもりであったが」
「もう一つは、やはり三好家です。
今、京の都を掌握し畿内で一番の勢力を持つのは三好家に他なりません。
三好家は平島公方である義維様を擁立して、将軍宣下を受ける為に公卿方に働きかけを恐らく行っているでしょう。
義維様が将軍になれば幕府を三好家で掌握する事が可能になりますから、義維様への将軍宣下前に、もし別の上洛を目指す勢力があれば、間違いなく入洛を阻止すべくどこかで陣を張るでしょう」
「戦になる、という事であるな」
私は頷きました。
「六角家は立ち塞がるかどうかはわからぬが、三好家は確実に立ち塞がる。
となれば、やはりそれを打ち破るだけの軍勢が必要だろう。
三好家はどれ程の軍勢を揃えてくるだろうか」
「恐らくは一万五千から二万程度」
「鉄砲も持って居るのだろうな」
「三好家は鉄砲作りをしている堺を掌握していますから」
父は頷くと立ち上がりました。
「吉よ、此度も参考になった。
いつもすまぬな」
「お役に立てたなら幸いです」
父は優しい笑顔で大きく頷くと部屋を後にしました。
今度の上洛、皆無事に戻ってくればいいのですが。
しかし、鉄砲の数を揃えた大軍同士が本格的に撃ち合うという事態が発生すれば、死傷者の数はこれ迄の戦の比では無いでしょう…。
帝の勅による上洛命令。
史実から大きく食い違っていきます。




