閑話八十七 今川龍王丸 古渡にて
視察を終えた今川家一行は古渡へと移動します。
天文十八年十二月 今川龍王丸
吉姫の化粧地の視察を終えた我ら一行は武衛殿らと別れ、今宵の宿泊地である古渡の今川屋敷へと向かった。
熱田神社の門前町の北側にある川に面した古渡の町は水運の盛んな町で、古渡城自体にも船着き場があるそうだ。
驚いたのはその城の規模より城下の規模。
案内の藤三郎の話だと、元はそれ程規模のある城や町では無かったそうだ。
それが今では、城と堀との間には大規模な工房区画があり、また城の北側にも工房が幾つも連なっており、この古渡は〝城と城下町〟というよりは〝一つの巨大な工房町〟というべきか。
何故この古渡にこれ程工房が多いのかと聞いたところ、吉姫が住んでいた城だから、という事らしい。
更に聞けば、吉姫はおれの歳の頃には既に職人を呼んで色々と拵えさせて居たという。
おれはそれを聞き、感心するやら呆れるやら。
父上がおれの嫁に吉姫を欲しがるわけが良く解ったが、その様な奇才を嫁に迎えたとして、おれはやって行けるのだろうか…。
一先ず今川屋敷へと入り休憩を取った後、父上とおれは会見の為に古渡の吉姫の屋敷に向かった。
今回の会見は父上が備後守殿や吉姫に話があるとの事で、俺はあくまで同席し話を聞くだけだ。
屋敷を訪ねると、直ぐに備後守殿と吉姫が待つ部屋へと通された。
「備後守殿、吉殿、わざわざ場を設けてもらい忝い」
「なんの義元公、なかなかお会いする機会も無いところ、折角尾張に来られたのだ。
それに盟を結んだ間柄、吉との話がお役に立つならば、お役に立ててくだされ」
父上と備後守殿が、互いに気安い感じで笑顔で挨拶を交わす。
二人は長らく敵対し、幾度となく干戈を交えた間柄と聞く。
だが今は、かつてそんな間柄であったとは微塵も感じさせぬ。
次に父上が吉姫に話しかける。
「はは、そう言って貰えるとありがたい。
吉殿、早速であるが、以前の農地改革の話を覚えておいでか」
「はい、それは勿論。
黒ボクの話ですね」
父上の問いかけに吉姫が微笑む。
おれは微笑む吉姫を見て、何故か胸が高鳴った。
「左様。
あれから吉殿から頂いた書を農学者に託し、また手紙で色々と教えて貰ったが大いに役立った。
礼を言う」
「い、いえ。私はただお役に立てればと。
お役に立ったようで何よりにございます」
吉姫がまた微笑む。その表情が変化するたびにおれの胸は高鳴るのだ。
この様なことは初めてだ…。
「ふふ、変わらず奥ゆかしいな。
去年の秋に、人を使って大規模にたい肥作りを始めてみた……」
それからは吉姫の事だけが気になり、父上の話などは上の空で、父上の話に聞き入る吉姫に只々見入ってしまっていたのだ。
「……ははは。
義元公、儂は嘘は言っておらなんだでござろう」
唐突に備後守殿の笑い声が耳に入り、ハッと我に返った。
父上は吉姫と色々と話をしていた様だが、気が付けば話し終わっていたのだ…。
多分、秋の収穫が一段落した頃に父上がおれに話しておった、富士の御山の山裾に広がる痩せた土地で新たに始めた畑作の事だろう。
「如何にも。
これも不思議な巡り合わせよ。
だが、この縁は大事に致そう。
安定こそ繁栄の原資であることは間違いない。
不安要素がまるでないと言えば嘘になるが…」
吉姫は備後守殿と話を始めた父上の方を向き、真剣に話を聞いているように見えた。
吉姫とおれはそう歳が離れていない筈だが、この物腰、この落ち着き様、とても十六には見えぬ。
「北条でござるな」
「左様。
今は盟がある故、余程の事が無ければ駿河を攻めるという事は無かろうと見ておるが、隙を見せられぬ相手」
吉姫は、時折備後守殿の方に視線を向け、また父上の方に視線を戻す。
「しかし、関東での戦を収める為には北条は後顧の憂いは無くしたいと思われるが」
吉姫は既に裳着を済ませ大人として扱われていると聞くが、父上と備後守殿との間で交わされる大人の話も普通に理解できているようだ。
おれも嫡男故、元服前とは言え父上とたまにはまつりごとの話はするが、まだまだ子供の扱いでそれほど込み入った話などはしないし、された所でその様な物かとは思うが、それに意見が出せるわけでもない。
「如何にも。先の関東での大戦で北条は勝利したが全てを収めたわけではない。
破れたりとはいえ、関東管領たる上杉憲政殿の権威は未だ影響力が強く、再び号令を掛けて大兵力を動員して巻き返しを図らぬとも限らぬ」
父上と備後守殿の話が続く。
「ふむ…。
その辺りは義元公の見立て通りでござろうな。
されば、如何される。
もし、北条が望むだろう後顧の憂いを無くすために有利な条件で盟を結ぶのであれば、仲介の労は惜しみませぬぞ。
氏康殿とは定期的に文のやり取りをして居り、まったく知らぬ仲という訳でもござらぬ故。
しかし、逆に今川家、ひいては我らが盟の後の憂いを無くす為に攻めるならば、今でござろうな。
それに関東では、今年地揺れで大きな被害が出たと聞きましたぞ」
そういえば秋口の頃に、関東の地を大きく揺らす地揺れがあったのだ。
駿河はそれ程の被害は無かったようだが、それでも村々で家が倒れて怪我人が出たと耳に挟んだ。
「駿河は幸いにそれほどの被害はなかったが確かに地面が激しく揺れ、北条の領内では大きな被害が出ておる様だ」
父上がそう答えたところで、吉姫の方をちらりと見た。
それを見て吉姫が薄く頷いたような気がした。
雪斎和尚が先に尾張を訪ねた筈だが、その折に何か話したのだろうか。
だとしたら、領地運営に関する事だけでなく武略にも通じているという事になるが…。
なんとも底が知れぬ姫だ。ただ器量が良いだけの姫であれば、吉姫と同じくらいの姫は探せば見つかるだろう。しかし…。
吉姫に向けた父上の視線に気が付いたのか、備後守殿も吉姫をちらりと見ると話を続けた。
「いずれにせよ、今が有利とはいえ大義名分無しで兵を出すのは武衛様が許さぬでしょう。
しかし、関東管領を攻めたとなれば別でござる。
それ迄、我らは我らに出来る事をし、出方を見るのも手ではござらぬか?」
父上はふむ、と暫し考えると返事をした。
「では、そう致そう。
今となっては余も戦は望んで居らぬ。決して臆するところは無いが、敢えて戦をして大事な領民を損じる事は本意でない。
まずは出方を見て、そして北条と盟を結ぶのもまたやぶさかではない」
「わかり申した。
もし北条が駿河に兵を出したなら、それは我らに兵を出したことと同じ。
二度と兵を出せぬ様にしてやりましょう」
終始笑顔であった備後守殿がこの時だけ、如何にも数々の戦を勝ち抜いて来た武将らしい凄みのある笑みを浮かべた。
おれは大人の貫禄溢れるその迫力に、思わず肝を冷やした。
この様な父の娘であるから、吉姫はあのような姫になったのか。
ならば、おれも東海道一の弓取りとも称される父の嫡男として恥ずかしくない男にならねば。
その為にはより研鑽を積まねばならぬ。
気が付けば父上の備後守殿の話は終わっておった。
ふと気になって吉姫の方を見たら、偶然にも目が合ってしまった。
おれは思わず視線を外したが、変に思われたろうか…。
「ところで、此度龍王丸を連れて参ったのだが、如何であろう。
我が息は、吉殿の相手に釣り合うであろうか」
唐突に父上が吉姫に対して大胆な事を聞く。
おれはいきなり名前を出されて驚きのあまり思わず吹き出しそうになる。
吉姫の隣に座る備後守殿は苦笑いを浮かべ、吉姫の方をみてただ頷いた。
これは吉姫に任せるという事なのだろうか。
吉姫は困った様な表情を浮かべながら暫し考え、簡潔に返事を返した。
「まだお会いしたばかりで、どの様な方かわかりませんので、お答えは出来ません」
つまりは当たり障りなく断られた、という事なのだろうか。
なのに、なぜか不思議とおれはほっとしたのだった。
しかし、父上はその答えは織り込み済みであったのか笑いだす。
「ははは。
確かに、吉殿の話すとおりであるな。
備後守殿どうであろう、龍王丸を藤三郎の下に一月ほど預ける故、こちらの学校に通わせては貰えぬか。
無論、手を煩わせるような事はせぬつもりだ」
な、今なんと!?
おれを尾張に置いていくと言ったのか?
おれは急な話に頭が真っ白になった。
「学校にござるか。
それは別に構いませぬが、嫡男が一月も領国を離れて大丈夫にござるか?」
「嫡男であっても遊学に出したりは普通にする。
警護の武士や世話役も用意するし、問題あるまい」
「ふむ。
それであれば…。
確かに将来を考えれば一度尾張をよく見ておいて頂くのも悪い話ではござりませぬな」
「うむ。
では、備後守殿、吉殿、龍王丸を頼みましたぞ」
おれの意思とは関係なく話はトントン拍子に進み、おれは尾張に一月程滞在する事になった。
その一月の間、古渡の今川屋敷より熱田にある学び舎に通い勉学に励むように、との父上からのお達しだ。
信秀と吉姫との会見を終えた今川家一行は駿河へと帰還し、龍王丸は数名のお供と古渡にショートステイです。




