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吉姫様の戦国サバイバル ベータ版  作者: 夢想する人
第五章 天文十八年 (天文十八年1549)
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閑話七十九 村上義清 伊勢攻め

義清視点の伊勢攻めです。





天文十八年六月 村上義清



農繁期に戦があるというのは百姓からすればいい迷惑だろう。


ただでさえ人手不足の時期であるにもかかわらず、一番の働き手を戦に取られる。

それでも無事に戻って来れば良いが、ケガで元の様に働けぬ身体で戻って来たり、悪くすれば戻れなかったりする。


乱取りが許されれば多少は出稼ぎの代わりにもなるが、殆どの場合は農繁期に自分の田畑を放り出す事の埋め合わせにもならぬ。

そして、その年の収穫には確実に影響を及ぼし、悪くすればその年の冬を越すのは命がけ。


無論、百姓から年貢を集める国人とて同じこと、確実にその年の収入が目減りする。


だからこそ、普段争う間柄であっても、基本的には農繁期には戦をしないという暗黙の了解がある。


しかし、織田の常備軍には農繁期など関係ない。

殆どの兵は領地を持たず、田畑を耕す事も無い。弾正忠家に銭雇いされて居る専業兵士であり、常日頃から身体を鍛え武芸を研き、集団での戦いの鍛錬をしながら普請仕事にも精を出す。


それ以外の事はやっておらぬのだから、日頃は百姓として田畑を耕しておる農兵などとは比較にならぬほど強い。


そんな強者どもを率いて戦に出るは誉と言えよう。


此度は、甲斐から来た国人らも郎党を連れて同道しておる。


秋山、工藤、原などこれ迄も武田の武将として名高き者共らであるから、たとえ野戦になっても良い戦が出来るであろう。



浜田氏の城である浜田城へと入城すると、現地で調略の任に当たっていた真田殿と落ち合い、現在の情勢の報告を受けた。


これから攻める楠城は、平城ではあるが海に面し、三方を川に囲まれた水城で攻めるのは容易では無いという。


城には楠正忠、正具親子が籠っており、近隣の神戸、北畠と誼のある国人らも入城しており、恐らく二千ほどの兵で守っているのではないか、との事であった。


城自体は大きい物では無いが、水城は如何にも厄介で力攻めは難しい。


同道してきた元甲斐の国人らも交え、軍議をした。


殿からお借りした兵らを大きく損じる事はあってはならぬ故、力攻めは論外であろう。


まずは軍勢を動かし、城攻めの構えを見せて、軍使を立てる事にした。


返事は「楠木流の戦の神髄をお見せする」であった。



兵糧攻めも手ではあるが、のんびりと構えていては北畠、神戸の軍勢が後詰に来てしまうであろう。

それが解っているが故に、強気の籠城ではあるが。


一応北畠、神戸の軍勢は、楠城を落とす迄関氏の軍勢が押さえておく、という話にはなっておるが、当代の北畠氏の当主は無類の戦上手と聞く。


我等としては相手にとって不足は無いが、楠城を落とせずに北畠勢との野戦になり、その最中に楠城から横槍が入るのは避けねばならぬ。


軍議を重ねた結果、投石器を大型船に載せて海から石を降らせる、という策を水軍を率いる将の一人である服部殿が提案してきた。


我らは専ら陸の戦ばかりで海の戦はあまり詳しくは無いが、水城というのは海からの攻撃に必ずしも強いわけではないらしい。


陸上でしっかりと組み立てて飛ばすほどには飛ばぬようであるが、十分敵の矢の外から石を降らせられるとの事だ。


殿に見せて頂いた投石器の試し撃ちを思い出せば、城に籠るは良いが、手も足も出ぬところからあの大きな石が雨霰と降って来れば、敵の士気は大いに下がるであろう。


服部殿の策をまず採用する事にし、船が到着するまでは遠巻きに囲み様子をみる事にした。


楠城はまるで動きが無く、睨みあいが続く。


城を囲んで一月近くになる頃、真田殿から北畠と神戸の軍勢が進発してここへの進路上にある関氏の亀山城を攻めている、との報告があった。


今しばらくもってくれると良いが、あまり時間は稼げぬやも知れぬ。



それから五日後、蟹江からやって来た投石器を搭載した大型軍船が、関船など水軍を従えて漸く楠城の沖に到来した。


彼らは直ちに船を城へと寄せると、城へと向けて石を飛ばし始めた。


沖から、人の頭ほどもある石が敵の城へと降り注ぐのだ。


殿からお借りした遠眼鏡で様子を見れば、流石の楠氏も城の兵もこれには参ったようで右往左往しているのが見える。


大きな石が勢い良く建物へと当たれば、屋根や壁を突き破り、それが分厚い漆喰塗りであろうと粉砕して大変な被害になっている。


城からも船に対して懸命に弓で反撃をするも殆どが手前の海に落ちてしまい、たとえ届いたとしてもすっかり力無き矢と成り果てており、全く意味をなさない有様だ。


ある程度石を打ち込んだところで、一旦投石を止めさせ、再び軍使を出した。


どうしても降伏せぬ場合の為にと殿から預かって来た書状を持たせたのだが、今なら真剣に読むのでは無かろうか。


一晩考えさせてほしい、との返事が返って来たが、翌朝城から白装束を着た一団が我が陣の方へとやって来た。


白装束の一団は、楠正忠、正具親子と城の主だった者達であった。



「備後守様のご厚情、謹んでお受けいたす。

 我等が首と引き換えに、城の者の助命を何卒」

 

「待て待て。殿からは、降るのであれば命は取るな、と命じられておる。

 特に楠正忠殿親子は、我が殿が是非にもお会いしたいとの仰せなれば、

 ここでご両人に腹を切られては、拙者がこまる」


「なんと…」


「既に一月あまり対陣し、我らをここで食い止めたのだ。

 北畠、神戸への義理は十分果たしたでござろう。

 一先ず城は退去してもらわねばならぬが、戦が終わればまた戻されよう。

 それでよろしいか」

 

「ははっ」


後で聞けば、投石により城兵に少なからぬ手負い討ち死にが出ておったようだ。

敵と切り結んで討ち死にするならまだしも、一方的に大きな石を城に撃ち込まれ、しかし相手には全く手も足も出ない状態と言うのは、城の将兵にとっては如何ともしがたいものがあったであろう。


しかし、これで伊勢に残るは亀山城を攻めておる北畠、神戸の軍勢のみ。


尾張へと移送する楠氏らを服部殿へ預け、我等は直ぐに軍勢を進発させた。


途中長野氏の軍勢と落ち合い、関氏の城である亀山城へと軍勢を急がせた。


次の戦は確実に野戦となろうな。




一先ず楠木流の楠木氏は投石器で岩の雨を降らせて降伏させました。

義清が渡した殿からの手紙は、楠木正忠親子を家臣として召し抱えたいといういつものお誘いの書状です。


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