閑話二十三 織田信秀 太原雪斎急襲
織田信秀が今川本隊の背後から衝きます。
天文十七年三月 織田信秀
早朝まだ薄明かりの頃、今川本隊が渡河を開始したとの報せを受ける。
儂は軍勢を率い密かに宿営地を発つと、見付を進み一言坂と呼ばれる丘陵地に陣を敷いた。
一言坂からはおよそ半里先の今川の渡河地点がよく見え、今川本隊は既に渡河を終えこちら側には荷駄や後詰を残すのみという状態であった。
しかしながらしっかりと柵を巡らせた陣地が構築されており、見事な手並みであった。
儂は戦を前に、諸将を集めると軍議を開いた。
「我等は見ての通り、敵方に察知されること無く今川本隊の後背に出る事に成功した」
諸将が頷く。
「此度の戦、遠江を平定し再び斯波武衛家に取り戻す事が目標である。
しかしながらここで今川義元を討ち果たし今川勢を完膚なきまでに叩いてしまうと、今川が駿河を保つことはもはや難しかろう。
我等からは今の所縁遠いが、この遠江そして駿河の北には武田が常に南下の機会を狙っており、また北条も駿河を切り取ろうと狙っておる」
守護代の織田伊勢守殿がそれを聞いて発言する。
「武田は精強と聞くが、我等が遠江を平定した後は、我等がこの遠江を武田からも守らねばならぬという事であるな」
儂は頷き言葉を継ぐ。
「如何にも。
我等が遠江を武田から守らねば、遠江の国人は勿論のこと民も再び斯波武衛家には心服せぬ。故に遠江の国人らを極力臣従させ、尾張からも有力な者を遠江に置かねばならぬだろう。
この上、更に義元亡き後の、弱体した駿河も守らねばならぬとなると我等の手に余る。
だからこそ、義元は生け捕らねばならぬ。
義元を生け捕り、三河や遠江の国人らの人質を取り返し、和議の上で同盟を結ぶ。
これがなれば、遠江は早期に安定するであろう」
諸将は頷き、口々に賛同する。
「我等はこの後、ここから見える今川の後詰を叩き、荷駄を頂戴する。
しかし、荷駄役など抵抗せぬ者に手出しする事はまかりならぬ。
後詰にせよ、逃げる者は追わずとも良い。
我等は義元の身柄さえ押さえれば勝ちである」
「「ははっ」」
「太原雪斎の居場所が未だ掴めぬのが気にかかるが、未だ確認が取れて居らぬ故もしかすると駿河におる可能性もある。
これだけの兵力を動員したのだ、駿河には恐らく多くの兵は居るまい。
武田がこの好機をただ見逃すとも思えぬのだが」
「物見を欠かさぬようにせねばなりませぬな」
「うむ。
既に四方に物見を放っておるが、戻らぬ者もおる。
敵方に討ち取られて戻らぬ者も居るやも知れぬな…。
物見の者をもう少し手厚くせよ」
「ははっ」
「では、川の向こうでは既に戦が始まったようじゃ、我等も行くとしよう。
本陣をもう少し前へ出し、鶴翼にて敵を包囲し叩くのだ」
「「「ははっ」」」
諸将らが持ち場へ戻ると、儂も本陣を前に進める。
そして陣形が整うと、陣太鼓を叩き備えを前に進める。
後詰の今川勢は川向こうの戦に釘付けで、陣太鼓の音が鳴り響くまで我等の接近気づかなんだようだ。
陣太鼓の音で慌ただしく動き出し、荷駄役でついてきた民が戦に巻き込まれぬよう川に下がっていく。
左翼は織田伊勢守殿の岩倉勢、右翼を織田大和守殿の清洲勢、中央の本隊先手衆を飯尾定宗殿が率いる我が弾正忠の軍勢が担う。
それぞれの軍勢が陣地に押していくと定石通り今川は我等に向けて矢を射かけだす。
我等の先手も矢を射かけながら矢楯を前に陣太鼓の音に合わせて距離を詰めていく。
兵力に数倍する我軍が程なく敵の陣地に取り付き、双方の大将の鼓舞する声に勇気づけられた兵達が柵を挟んで遣り合う。
流石今川、簡単に崩れることは無くここを守りきれば、川向うで戦っている本隊が三河勢を叩き潰せば後詰に来て一気に形成が逆転すると信じているのであろう。
何しろ川向うには総大将の今川義元が居るのだ。
決して旗色が悪い訳でもなく、戦は優勢に進んでおり陣地を落とすのも時間の問題であろうが、どうも儂は焦燥感を感じておった。
理由は解らぬが…。
先手が入れ替わった頃、先ほどまで我等が陣を敷いておった一言坂の方向から鬨の声が聞こえる。
何事かと振り返ると、翻る足利二つ引両の旗印。
既に軍勢は前面に押し出し、兵力が薄くなっておるこの本陣目掛けて坂の上から今川勢が真っ直ぐ突進してくる。
「そこにおったか、太原雪斎!」
如何なる経路を通ってきたのかは解らぬが我等に察知されること無く、丘陵地を上手く使いまんまと我等の後ろを取りおった。
「半介、敵を止めよ!」
「はっ!」
遊軍として後詰を任せておった、佐久間半介が後詰を率いると本陣と敵の間に移動し兵の壁を形成していく。
坂の向こうは解らぬ故敵がどのくらいの兵力かは見えぬが、いまこの本陣と後詰を併せた兵数は互角。半介が崩れれば本陣が衝かれる事を覚悟せねばならぬ。
馬廻衆ら旗本が儂の周りを取り囲む。
今川勢は矢を射かけると、槍が突進してくる。
半介ら後詰も矢を射返すが、今川勢は怯むこと無く距離を詰め、あれよという間に後詰に激突。
激しい槍の応酬がすぐ目の前で繰り広げられ、半介が変わった槍を振り回しながら兵らを鼓舞する。
「小童、その様な子供騙しで戦が出来ると思って居るのか!」
「ぬかせ!年寄りは帰って寝ておれ!」
半介が言い返しその将に槍を振るうが、上手くいなされ槍の突きを食らう。
それを辛うじて躱すと今度は突き込む。
しかし、それも上手く躱される。
流石に半介を小童扱いするだけあって中々の猛将だ。
儂は興味を持って声を掛ける。
「その方、我軍でも猛者の半介を子供扱いするとは中々の武士ぶりよ。
なんと申される」
「我は天方城城主天方通興なり。今からその首貰い受けに行く故、暫し待たれい」
半介は子供扱いされ益々奮い立つがいなされるばかり。しかし半介もさるもの敵の攻撃を上手く躱し続ける。
だが、指揮する半介が防戦一方では後詰の兵らもじりじり押し込まれいよいよ拙い。
「半介殿、見て居られん故手助け致す」
本陣におった弓衆の一人が言うと、変わった弓を使いヒョウと弓を射つと見事敵の肩に矢が突き刺さる。
「一騎打ちに水を差すとはこの無粋者が!」
天方通興は顔を真っ赤に激怒するが既に槍を振るうことも出来ず、供の者が強引に後ろに引かせる。
半介は辛うじて助かるが、今川は新手を繰り出してくる。
「匂坂城城主匂坂長能参上。
小僧!安心するのはまだ早いぞ、次は儂が相手じゃ!
大人しく首になれい!」
今度の今川の将も相当な猛将で、半介は辛うじて防ぎ切るものの防戦一方。
そのうち肩を突かれて突き倒される。
上手く鎧の隙間を槍で突かれたのだ。
「うぐっ」
半介はそのまま突き倒される。
周りの兵らがなんとか押し返そうとするが、対する今川兵がすぐさま押し包む。
「半介!半介を討たせるな!」
儂は思わず声を上げる。
「お任せあれ」
先ほどの弓衆がまた弓をつがえるとその武士の肩を貫く。
なんと見事な腕前、そしてなんという威力だ。
「むうっ!」
その武士が矢をへし折り尚も半介を討とうとするが、更にもう片方の肩に矢が刺さる。
流石に両肩に矢が深々と刺さると、どうにもならず共回りの者らに囲まれて下がっていく。
手負いの半介の傷は深く、兵らが引きずって下げていく。
もはや後詰は抜かれ、馬廻り旗本らが眼前で戦い。儂も刀を抜く。
よもや、此処まで追い込まれるとはな。
まだ接敵しておらん備えが本陣に急行しておるが、間に合うかどうか。
本陣は既に乱戦状態で、馬廻りが一人一人と手傷を負い斃れていく。
「大将は目前ぞ、奮え者共!」
もう一押と、今川方の武将が兵らを鼓舞する。
そして、敵の将が名乗りをあげようかと言うところで、引き鐘が鳴り響く。
「むっ!?何事。
ちっ、大将が目の前におるというに。
勝負はお預けじゃ」
敵方は苦渋の表情を浮かべると、引き上げていった。
今川勢も波が引くように引き上げていった。
残されたのは惨憺たる有様の本陣と傷つき呻き声を上げる兵らであった…。
一体何が起きたのか…。
程なく、川向こうの信広から書状が届く。
『義元公捕縛せり。
今川勢を駿河へ逃がすのが条件故、通されたし』
「ふっ…。
そういう事か…」
陣地を攻めておった者らも本陣に戻り、惨憺たる有様に驚きの声を上げる。
「備後殿、無事でござったか…」
「よもや、我等がおった坂から更に後背を衝かれるとは。
危機一髪でござったな…」
「敵の陣地は全て平らげ、生き残りの兵らは降伏し徴用されておった荷役の民らは解放しましたぞ」
「各々方。
危うく討ち死にするところであったわ。
今川はやはり侮れぬな…。
恐らく、横槍の指揮を執っておったのは太原雪斎であろう」
「なんと、太原雪斎」
「まんまとやられましたな」
「後少し遅ければどうなったことか」
「兎も角、信広の書状によれば義元の捕縛に成功したとの報せである。
今川の敗残兵を駿河に戻す事が条件故、急ぎ道をあけよ」
「「ははっ」」
その後、敗残の今川兵が目の前を通り過ぎて行った。
我等も負傷者を収容すると後始末に一隊残し、曳馬城へと引き上げたのだった。
何とか勝ったが…。さて…。
権六にも知らせてやらねばな。
今川本隊の後背を衝いた信秀率いる尾張勢が更に太原雪斎に後背を衝かれ、危ういところでした。
兎も角、これで遠江の戦は終わりです。




