草津千軒江戸構え ―前編―
「おい、これから出掛ける。お前にとっては、長旅になるからな……十分に支度しろ」
ある日突然、晋作が言い出した。
晋作はいつも唐突に物事を言う。
あの日の傷も、生活には何とか支障が無いという程度には回復していたが……遠出となると、話は別だ。
正直、あまり気が進まない。
「何処に行くのよ?」
「何処に行くのだ?」
私と玄瑞は、同時に尋ねた。
「喜べ! 上野国だ」
「こ……上野!? 何でまた、そんな田舎に?」
私は思わず目を丸くさせる。
上野と言えば、現代の群馬県。
距離で言うならば、東京からは100キロ程だろうか。
「何故、上野なのだ?」
玄瑞は、不思議そうに尋ねた。
「湯治さな」
「湯治?」
「江戸のモンに聞いたところによると、草津の湯は番付で、大関に位置する人気っぷりだそうだ。そんな湯に漬けときゃあ、コイツの傷も早く治るだろうよ」
「そうか……何だかんだと言ってはいても、お前も大層な仲間想いなのだな。感心、感心」
「……そんなんじゃねぇさ。そりゃあ、お前の考え過ぎだ」
玄瑞の言葉に、晋作は照れ臭そうに顔を背けた。
「でも、草津って……相当遠いよ!? 草津は上野の外れだもの」
「それだけ不便な場所にありながらも、多くの人が訪れる。という事は、だ……草津の湯は万病に効くというのも、あながち嘘ではあるまいよ」
「そうかもね。草津よいとこ薬の温泉って言うもんね」
「な……何だ、そりゃあ?」
晋作は、不思議そうな顔をする。
「上毛カルタよ。群馬県民の常識ね」
「はぁ!? 余計に意味が分からねぇ……」
「簡単に言うと……上野の名産物や有名な人を、紹介してるのよ。子供ながらに、遊びながら郷土の事を知るの。それに草津温泉は、私の時代でも有名だよ」
「お前、随分と詳しいな。ほとんど訳の分からねぇ知識だが……」
得意気な表情を浮かべる私を見た晋作は、口角を上げた。
どれ程歩いたのだろう?
百数十キロの道のりは、やはり辛い。
傷の痛みより、足の方が痛むようだ。
舗装されていない道というのは、長距離になればなる程足腰にくる。
この時代の人には、本当に感心してしまう。
どれだけ歩いても音を上げる事なく、その歩みをただひたすら進めるのだから。
「大丈夫か? 少し休んでも良いのだぞ」
「……大丈夫」
「無理をするな。お前は、私や晋作とは違うのだ。疲れたなら、疲れたと言ってくれて良い」
「私だって……そんなに柔じゃない……わよ」
「相変わらず、強情だな」
息を切らせながら二人に食らい付いていく私に、玄瑞は苦笑いを浮かべる。
二人が私の歩調に合わせてくれている事など明白だ。
その上、休憩したいなど……言えやしない。
きっと、くだらない意地だろう。
「おい……止まれ」
「はぁ!? 何言ってんのよ」
「良いから、止まれと言っている」
怖い顔をしている晋作にビクっと肩を震わせると、私はそれ以上口答えする事無く、それに従った。
「そこに座れや」
晋作は、近くにあった切り株を指差す。
休憩のつもり……なのだろうか?
私は仕方なく、そこに腰を下ろした。
「ちょ……ちょっと! 何してるの!?」
「ぎゃあぎゃあ、うるせぇ女だなぁ。良いから少し黙っていろ」
「だ……黙ってろって言われても……」
晋作に足を掴まれたまま、私は黙り込む。
「お前……いつからだ?」
「っ……分からない。足が痛いなとは思っていたけど……結構、酷そうだね」
「結構、酷そうだね……じゃねぇよ!」
「そりゃあ少しは痛むけどさ、まだ大丈夫だってば」
「お前、それで本当に医術を学んでいるのか?」
「ええ。学んで居ますとも」
私の返事に、晋作は大きな溜め息をついた。
「足の傷は、そのままにしておくと毒に侵される」
「毒?」
「毒は傷口から入り、やがては人を狂わす。そうなって、元に戻った者を私は知らない。皆、ただ死ぬのみだ」
「何それ!? 怖すぎるんですけど!」
「ならば、少しおとなしくしていろ。すぐに済む」
玄瑞は晋作から瓢箪を受け取ると、私の足の傷を洗い流すようにかけた。
足を酒で消毒されながら、私はふと考える。
玄瑞の言った毒とは何なのだろうか?
人を狂わす、治る事の無い病。
考えただけで身震いする。
「ねぇ。さっきの話だけど……何て言う病?」
「何だ、恐ろしくなったのか?」
「うん……だって、今のでもし罹患していたら……」
「ツグイや牙関……傷風とも言う。痙病様……つまり、身体を痙攣させながら弓形になり、死んでいく。実際に見た事があるが、あれは忘れられるものではない」
「そんなに酷い病なんだ……」
その言葉に、必死に頭を巡らせる。
とはいえ、ツグイなんて聞いた事も無い。
牙関に傷風……
しばらくして、不意に思い出す。
「牙関緊急! 牙関っていう病は知らないけど、牙関緊急なら知ってる」
「牙関……緊急?」
確か、咬筋という筋肉の強直で口が開かなくなる症状だったような……
歯を食いしばる様にしたまま、口が開けられなくなる感じの。
あれは何だっけ?
玄瑞は、傷から毒が入るって言っていた。
牙関緊急と……そうだ、後弓反張。
後弓反張とは、玄瑞の言う通りの症状だ。
胴体を弓なりに反らせる背筋痙攣。
そう言われてみると教科書に、絵が載っていた気もする。
「答えは、破傷風ね? 牙関緊急と後弓反張。それに、傷口から入る菌だもん」
「破傷風……そういえば、そんな呼び名もあったな」
「えっ? あるの?」
「以前読んだ水戸の医学書には、そう書かれていたな。確か……三喜直指篇と言ったか」
「なんか……凄いね」
「何がだ?」
玄瑞は不思議そうな顔をしている。
何が凄いって……
医術を会得し医者として生計を立てているだけでなく、国学や漢学などを学び、洋書を読み……政論を唱えている。
現代で例えるならば、医師が議員になる様な感じだろうか?
晋作は……この時代でも現代に例えても、何ら変わりはない、資産家の息子とでも言ったところだろうか?
何にせよ……
彼らが現代人ならば、すぐにでも嫁ぎたくなる程の好物件なだけに、時代の異なりが何とも口惜しい。
「奇妙な面ぁして見てんじゃねぇよ!」
「晋作の言う通り、顔が……緩んでいるぞ? 一体、何を考えていたのだ?」
晋作と玄瑞は、不思議そうに尋ねる。
「何だろうねぇ……二人がこんな時代に居るのが、勿体無いって事かな?」
「勿体無い……ねぇ。良くは分からねぇが、手当てが済んだのならば行くぞ? 今日はあの宿に泊まりゃあ良い。お前は宿まで、玄瑞に背負ってもらえ」
「こんな時も、玄瑞任せ!? そこは格好良く、俺が背負ってやる……でしょうが?」
「何故、俺がお前を背負わねばならねぇんだ? 体格差を考えても、玄瑞の方が適任さな」
晋作は、そう言って背を向け歩き出す。
「そうですね! ちっさい晋作より、おっきい玄瑞の方が適任だもんね!」
「今……何と言った?」
クルリと振り返った晋作は、眉間にシワを寄せている。
そのまま私の前まで戻って来ると、私をヒョイっと担ぎ上げた。
それは、抱きかかえるとか背負うとか……そんな優しい物ではなく、まさに荷を肩に担ぐ様な感じで色気の欠片も無い。
「ごめん! ごめんって……謝るから下ろしてよ!」
「お前ごとき……俺でも持てる」
「持つとか持たないとかじゃないの! 荷物じゃないんだから……この担ぎ方は安定感が無いよ」
「暴れんじゃねぇよ。本当に落とすぞ?」
私は玄瑞に、無言の助けを求める。
その様子に気付いた玄瑞は、黙って私に手を伸ばした。
「余計な事を……してくれるなよ?」
「晋作……やはり、気配で気付いてしまったか。美奈、これは己の言動が仇となった事……致し方あるまい」
「そ……そんなぁ」
草津まで、距離にしてあと半分。
私達の旅路も、まだまだこれからだ。




