反動形成
かの有名な心理学者フロイトは、防衛機制を説いた。
防衛機制とは、人がストレスから身や心を守る為の行動と、心の働きだ。
「もう……一体、何なのよ! そろそろ離しなさいよ!」
先程の山道まで連れて来られた私は、一向に手を離す気配の無い沖田サンに痺れを切らした。
力では敵わないので、私は声に出して主張する。
それは至極当然の事だ。
私の声に、沖田サンは突然立ち止まる。
「っ……お前を見てると苛々するんだよ!」
「はぁ!? そんなのお互い様じゃない。だいたいねぇ……アンタがそんな態度だから、こっちも喧嘩腰になるのよ!」
この人は、そんな事を言う為だけに、わざわざ私をこんな所まで連れ出したのだろうか?
だとしたら……私は余程、嫌われたモノだ。
そう考えると、何だか余計に腹立たしかった。
「僕があれだけ忠告したのに、お前は何を聞いていたんだよ! 土方サンは手が早ぇから気を付けろって言っただろうが」
沖田サンは苛立ちを私にぶつける。
「何それ……意味分かんないんだけど」
「本当に馬鹿女だな……お前の頭の空っぽさには、ほとほと呆れるよ」
その言葉に私は、ついついカッとなる。
売り言葉に買い言葉……というヤツだ。
「馬鹿だとか気に入らないとか……そんな事言うなら、私に関わらなければ良いじゃない! それに、さっきだって……勝手にあんな事して……」
興奮しすぎた私は、ポロポロと涙を流す。
そんな私を見た沖田サンは、先程の様に苦しそうな表情を浮かべた。
「な……泣くんじゃねぇよ!」
「泣いてなんか……ない!」
「お前は馬鹿か? どう見たって、泣いてんじゃねぇか」
怒りと悔しさとで私の頭の中は、もう訳が分からなくなっていた。
沖田サンは小さく舌打ちをする。
「どうすりゃ良いんだよ……」
困惑しきった沖田サンは、私をすっぽりと包み込む。
「泣き止め! 良いから早く泣き止め!」
「訳分かんないのは……私の方だよ……」
「何で更に泣き出すんだよ! お前、馬鹿か?」
私の事を罵るクセに、どうしてこういう事をするのだろう。
散々悪態をつくこの人に、どうして私は……抱きしめられているのだろう。
「わ……悪かった」
「え?」
「悪かったって言ってんだろ? だから、頼むから泣き止んでくれよ……」
沖田サンの意外な一言に、私は沖田サンを見上げた。
「そ……そんな顔するなよ」
咄嗟に沖田サンは顔を背ける。
「何で……あんな意地悪したの?」
私は不意に尋ねた。
「意地悪って何の事だよ」
「だから、その……さっきの、アレ」
「はぁ!? アレじゃ分からないだろ?」
「っ……アンタって本当に性格悪いよね」
きっと真っ赤になっているであろう自分の顔を見られたくなかった私は、今度は自分から沖田サンの懐に顔をうずめた。
いい加減離れようとした時、小さく聞こえた言葉に、耳を疑う。
「……したかったから……しただけだ」
私は、再び顔を上げた。
もしや……
これは、反動形成?
かの有名なフロイトは言った。
好きな女の子に悪戯したくなるのが男の性だと……
いや、まぁ……それは嘘なのだが……これは結構、良い線行っている喩えだと思う。
しかしながら、フロイトさんはきっと、そんな低レベルな事は言いやしない。
そう……簡単に言うと、自分の本心とは裏腹の事を言ったり、その思いとは反対の行動をしてしまうのが反動形成だ。
……って
私、何でこんな事を考えてるんだっけ?
私は、分かりやすい程に混乱しきっていた。
「か……固まってんなよ」
「アンタのせいで、私の思考回路がおかしくなったのよ!」
「ふぅん……じゃあ、そのまんまで良いや」
沖田サンはそう言うと、少しずつ顔を近付ける。
「いい加減に……しなさいっ!」
私は沖田サンからするりと抜け出すと、先程とは逆の頬に一発食らわせた。
「痛っ……何しやがんだよ、この馬鹿女! 今のはどう考えても、そういう雰囲気だったろ?」
「そう思えるアンタの頭の方が腐ってんじゃないの!?」
「何だと!?」
「恋人でもないのに、馴れ馴れしいのよ! 一回目のアレは赦してあげる。仕方ないから、犬にでも咬まれたと思って諦めるわ。でもね……今度あんな事したら……その時は……」
「な……何だよ」
「去勢してやるんだからっ!」
私は、沖田サンから顔を背ける。
「お前……やっぱり可愛くねぇの!」
「最後に良い事を教えてあげる。有名な脳科学の話よ」
「はぁ? 意味わかんねぇ」
「男はねぇ……一目惚れする脳になってるのよ。一目惚れした時点が10点だとすると、そこからだんだん女の嫌な所を見ていく内に、その点数が下がっていく減点方式なの」
「だから、何が言いたいんだよ」
「逆に、女は加点方式なのよ。一目惚れは珍しくて、知り合ってから徐々に好感度を上げて行くのよ」
沖田サンは、私の突然の講釈に困惑している。
「つまりはねぇ……貴方は私に一目惚れしたかもしれないけど、私がたった2日で貴方に惚れるなんて、まず有り得ないのよ!」
私は、沖田サンの前で仁王立ちになる。
「そんなに、私を落としたいなら……たっぷりと時間を掛けなさい!」
「チッ……可愛くねぇ女」
「何か言った!?」
「何でもねぇよ! 仕方がねぇから……お前の言うように……時間を掛けてやらぁ」
沖田サンは真っ赤になりながらも、そう吐き捨てた。
「そう。じゃあ、さ……仲直りしようよ」
「仲……直り?」
「私は、しばらくこの試衛館で暮らすの。アンタといがみ合ってたら、試衛館の雰囲気が悪くなるでしょう? だから仲直り」
「っ……やっぱりお前……変な女だ」
沖田サンは悪態をつきながらも、差し出された私の手を取った。
試衛館までの帰り道、沖田サンは不意に尋ねる。
「長州の女ってのは、みんなお前みたいなのか?」
「どういう意味?」
「だからさ……女らしくなくて、可愛げもなくて……男にも物怖じしない、変な女ばかりなのかと思ってさ」
「アンタねぇ、仲直りしたの忘れた訳? ……まぁ良いや。言っておくけど私、長州の女じゃないよ」
「はぁ!? じゃあ本当は、何処の出なんだよ」
私は少し考える。
「分かんない。でもこの日本の何処かって事は確かね! 長州に拾われたのよ。だから長州の皆にお世話になってるだけ」
「そうか……何か悪ぃ事聞いちまったな」
沖田サンは何か勘違いをしているようだった。
だが、まぁそれで良い。
「じゃあさ。お前このまま試衛館に居れば良いじゃねぇか。僕達はいずれ武士になるんだ。この剣一つで、幕臣にだってなってやる」
「それはありがたいけど……私は長州も好きなの。沖田サンに仲間が居るように、私にも仲間が居る。だから此処に居るのは期間限定ってとこね」
「ふぅん……でもさ、帰るまでにお前を惚れさせりゃ良いって事だろ? そしたら、お前が長州に帰る理由は無くなるもんな」
沖田サンは、呟くように言った。
「やれるモンならやってみなさいよ! 私を惚れさせる事ができたら……夫婦にでも何でもなってあげる」
「やっぱり……変な女」
「沖田サンもね?」
私と沖田サンは顔を見合わせて笑った。
「惣次郎……」
「え?」
「だから……惣次郎で良いって言ってんだろ」
「……惣次郎?」
私がそう呟くと、惣次郎は満足そうな笑みを浮かべながら、私の頭をふわりと撫でた。
その笑顔は、私が此処に来て初めて見る程に穏やかな表情だった。
「惣次郎!」
「ん?」
「惣次郎の夢は必ず叶うよ! 武士にだって、幕臣にだってなれる! 私が保障してあげる」
「……そっか」
試衛館に帰るなり私達は、近藤サンをはじめ兄弟子のみんなにこっぴどく怒られた。
何も言わずに飛び出し、日が暮れるまで帰らなかったから、かなり心配させてしまったようだ。
だが、私達の様子を見て仲直りした事を悟った年長者達は、何だか嬉しそうな顔をしていたのを覚えている。
「惣次郎と話がついたみてぇだな」
部屋に戻る途中、土方サンが私に声をかける。
「お蔭様で仲直りできたよ」
「そりゃあ良かった。それにしてもアイツは、まだまだガキだな」
土方サンはフッと笑う。
「惣次郎は……そんなにガキじゃなかったよ!」
そう言うと私は、土方サンに背を向けた。
「そ……惣次郎!? お、おい! ガキじゃねぇって……お前、そりゃどういう意味だ!?」
惣次郎への呼び方が変わっている事に気付いた土方サンは、面白い様に慌てている。
「フフ……土方サンには秘密っ!」
土方サンは何か勘違いしている様だったが、その様子が何だか可愛かったので、私はわざと振り返らずに意味深な答えを残して去った。
「惣次郎の馬鹿が! 俺らみてぇのが、長州の武家娘に手ぇ出すなんざ……さすがにマズイだろうが。あのいけ好かねぇ侍……怒んだろうなぁ」
そう呟いた土方サンは、深い溜息を一つつくと、空に浮かぶ月を見上げた。




