西洋式病院
久坂サンと合流したその日の晩に、私たちは長州藩邸へと赴いた。
渡航準備が整うまでの間は、この藩邸に留まるそうだ。
長崎に着いてからしばらく経つが、上海に向けて出立する兆しは全く無い。
高杉サンはというと、毎日飽きもせずに遊郭などで遊びまわっているし……
五代サンは毎日尋ねてきては、久坂サンと小さな争いを繰り広げているし……
そんなくだらない毎日に辟易していた私。
出るのは深い溜息ばかり……
「浮かない顔をしてどうした?」
久坂サンは心配そうに尋ねる。
「私たち、いつまで此処に居るんだろうね。清国に向かう予定も定まらず、高杉サンは遊んでばかりだし……久坂サンは毎日、五代サンと争っているし」
「それは、あの男が懲りずに毎日訪ねてきては、お前に馴れ馴れしくするから悪いのだ! 高杉は……まぁ、そういう奴だから仕方がない。……とはいえ、確かに何の目的もなく日々過ごすのは飽きてしまうな」
私の表情を見て、久坂サンは呟く。
「ならば、何処か出掛けるか?」
「……何処に?」
「そうだな……お前が興味を持ちそうな所は何処だろうな?」
久坂サンはしばらく考える。
「養生所……そうだ! 小島郷の養生所はどうだ? 昨年できたばかりだそうだが、そこには医学伝習所も移転したと聞く」
「伝習所ってなぁに?」
「医術を学ぶ塾の様なものだ。養生所の評判は詳しくは分からないが……聞くところによると、かなり近代的な物だそうだ」
「行く!! 行ってみたい!!」
その言葉に、私は思わず久坂サンに飛びついた。
「やっと……笑ったな。お前が行きたいと言うのならば、行くしかあるまいな。今からでも遅くはない! 早速、向かおう」
「ありがとう! すぐに支度をするから待っていて?」
「わかった、わかった。ゆっくり支度を整えて来ると良い」
藩邸を出てかなりの道のりを歩いた。
小島養生所とは、日本で最初の西洋式の病院だと看護概論の講義で習った。
教科書に写真は無かったが、西洋風な造りなのだろうと期待に胸を躍らせる。
養生所……
これが近代的な病院?
その木造二階建ての古めかしい佇まいに、私は思わず立ち尽くす。
それは想像とはかけ離れており、思いっ切り期待していた分、その落胆も甚だしかった。
まぁ、当然といえば当然……か。
きっと、コンクリートなど無いのだろうし……
「久坂サン! これのどこが近代的なの? 見たところ普通の建築物じゃない」
私は久坂サンに説明を求める。
「私に聞くな! 最近出来た施設の事など分かるはずもないだろう?」
久坂サンはバツが悪そうに言った。
「あらあら、あなた達……此処に何か用でもあるのかしら?」
気付けば、三十代程の美しい女性が目の前に立っていた。
「これは失礼しました。私は長州の医者、久坂玄瑞と申します。こちらは私の弟子の美奈です。私共は、清国渡航の為に長崎に寄ったのですが……支度が整うまで日数が掛かる故、その間に是非ともこちらを拝見させて頂きたく参りました」
久坂サンは深々と頭を下げる。
私も久坂サンと同様に頭を下げた。
「あら……こんなに年若い娘さんが医術を学んでいるなんて、嬉しいわ。私はイネと申します」
「イネ、さん? あの! もしかして、お父様はシーボルトさん……ではありませんか?」
無礼を承知でつい、私は尋ねてしまった。
「貴女、父をご存知なの? まぁ……驚いた……」
シーボルトの娘、楠本イネ。
何を隠そう、この方は……日本で最初の女医サンなのだ。
まさか……こんなところで、そんな偉人に会えるとは!
思わず目が輝く。
「見学かしら? とはいえ、参考になるものが有るかは分からないけれど……可愛いお嬢さんの為ですもの、案内しましょうね。さぁさ、こちらへどうぞ」
「ありがとうございます!」
私と久坂サンは同時に頭を下げた。
中に入ると外観との違いに、驚嘆した。
古めかしい佇まいの外観からは全く予想もできない様な世界が、そこには広がっていたからだ。
「あれ? イネさん、お帰りになったのではなかったですか?」
一人の男性がすれ違い様に、イネさんに尋ねる。
「帰ろうかと思ったんだけどね、面白い拾い物をしてしまったのよ」
「面白い拾い物?」
男性はイネさんの後ろに居た私たちを一瞥した。
「このお嬢さんはね、医術を学んでいるそうよ。ね? 面白いでしょう?」
「ほう? イネさんの様な女性が居るとは、正直驚きですね。彼女は医学所に入りに来たのですか?」
「いえ、今日は見学だけよ。きっと興味を持って頂けると思うのだけれどね」
「そうですか……あ、僕はこの辺りで失礼します。これから良順先生に書簡を届けた後、ポンぺ先生のところにも行かなければなりませんから」
そう言うと、男性は足早に去って行った。
良順……それって、松本良順?
新選組の医師をしていた、あの松本良順!?
というか……ポンぺって、この時まだ日本に居たの!?
ポンぺが今居るって事は、後任役のボードウィンはまだ居ないのね?
頭の中で、歴史的背景を必死に整理する。
「ポンぺって、ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトですよね? 良順って、松本良順ですよね? 凄い、本当に凄いですよ!」
教科書に載っている様な偉人と、大好きな新選組に関与した医師。
そんな非現実的な体験に、つい興奮してしまう。
「あら、お嬢さんは物知りなのね。偉いわ」
イネさんは穏やかな笑顔で、優しく言う。
「病院を見学させて頂いた後、ポンぺさんに会わせて頂けますか?」
「そうねぇ……うん! 彼もきっと貴女に興味を持つと思うわ。後で行ってみましょうね」
私をじっと見ると、イネさんはそう答えた。
「さて、まずは館内を案内しましょうね」
私たちは、イネさんに説明を受けながら病院内を付いて回る。
「ここは病室よ。この養生所にはね120程の病床があるのよ。素晴らしいでしょう?」
「120も!? 確か、ここでは食事もあるんですよね? それに……患者の身分を問わないとも聞きました」
「そうよ。ここでは侍も町民も関係ないわ。医学の前では人は皆平等なのよ。それにしても……貴女、よく勉強しているわね。感心するわ」
「ありがとうございます。私、ポンぺさんの言葉が印象的だったんです。だから此処の事も、記憶に残っていたんです」
私は目を輝かせながら言った。
医師は自らの天職をよく承知していなければならぬ。
ひとたびこの職務を選んだ以上、もはや医師は自分自身のものではなく、病める人のものである。
もしそれを好まぬなら、他の職業を選ぶがよい。
これがその有名な言葉。
私が目指すものは看護師だが、医師というこのフレーズを看護師に置き換えても、その意味を成すと思う。
そういった事から、私の中では特別印象に残ったのだ。
「貴女は不思議な娘さんね。ここまでよく知っているのは何故でしょうね?」
「あっ…………」
あまりに興奮しすぎた私は、ついつい話しすぎてしまっていたのだ。
学校で勉強した私にとっては知っていて当然の事……
しかし、この時代の一般人であれば知らなくて当然の事……
「その表情は……何か事情がありそうね? でも、まぁ良いわ。色々な事情があるのは私も同じこと。医学を学びたい気持ちさえ本当ならば、女の事情などさしたる問題ではないわ」
イネさんの事情……それは何を指すのだろうか?
ハーフである事?
それとも、お子さんのこと?
複雑そうな表情を浮かべるイネさんに、それ以上深く聞くことはできなかった。
「さて、と。案内もこんなところかしらね? 何か聞きたいことはある?」
「あの! ここには多くの患者が居ます。そして多くの医者や学生が居ます。ここには……看護婦は居ないのですか?」
「看護……婦?」
イネさんは首をかしげる。
「患者の療養上の世話とか、医者の診療の補助などを行う人のことです!」
「そうねぇ……医術に関しては全て医者が行っているわ。たいていの患者には、家の者や女中などの付添婦が居て、その方々が身の回りの世話を行っているわね」
「そう……ですか」
おおかた予想はしていたが、もしかしたら……という淡い期待を抱いていた私は、ガックリと肩を落とした。
「さぁさ、そろそろ先生のところへ行ってみましょうか! 私など比較にはならない程、先生は遥かに膨大な知見をお持ちだから、貴女もきっと得るものがあるはずよ」
そう言うと、イネさん率いる私たちは、ポンぺさんの居る部屋へと向かった。




