突然の誘い
「お前…………俺と清国に行かねぇか?」
年明けまであと僅かとなったある日の午後、高杉サンは唐突に言った。
清国とは、上海の事だ。
今回、高杉さんは幕府から、長州の代表として上海渡航するらしい。
私が、文久元年の10月にこの時代に降り立ってから、早くも2カ月が経とうとしていた。
ここでの生活にも診療所での仕事にも慣れ、少しずつではあるが医術も身についてきたと思う。
久坂サンを通して、高杉サンや伊藤サンらとも親しくなれた。
だが
何故、高杉サンは私を上海に誘うのだろう?
高杉サンの意図が私には読めなかった。
「どうして私が高杉サンと清国に行かなければならないの? 女性を連れて行きたいなら、お妾サンを連れて行けば良いじゃない」
診療所の備品を整理しながら、私は尋ねた。
「女を連れて行きてぇ訳じゃねぇさ。お前だから連れて行きてぇんだよ」
高杉サンの意外な言葉に、思わず振り返る。
「クク……お前、何て面ぁしてんだよ? 勘違いすんな。そういう意味じゃねぇ」
「……そういう意味って何よ?」
回りくどい言い方に、少しだけ苛立つ。
「女をつれて行きてぇなら、俺ぁ迷わず違う女を選ぶ。悪ぃが、俺にゃ久坂の様に可笑しな好みは無いんでな? どうせならもっと淑やかで色気のある女を連れて行くさ」
「色気も淑やかさも無くて、悪かったですねぇ! 私だって……どちらかと言ったら、高杉サンより久坂サンの方が好みですよーだっ」
突然上海に誘っておいて、色気がないなどと散々に言われ……私は頬を膨らませ、高杉サンから視線を外す。
「まぁ、そう膨れるなよ。お前を連れて行きたい理由は……お前が先の世から来た者だからさな」
「そんな事を言われたって……清国なんて行った事も無いし、私なんかを連れて行ったところで、全然意味ないと思うけど」
「意味がなけりゃあ誘いはしねぇさ。お前はこの時代の人間とは異なる感覚を持っている。その感性でもって素直に感じた事を聞かせてくれりゃあそれで良い」
私は少し考える。
この時代の上海……確かに興味深いといえばそうだが……
「でも、久坂サンが何て言うか……。それにまだ藩医でもない私が、長州の者として幕府の使節団に同行するなんて、それこそ無理だと思うんだけど」
「何だ? お前は久坂が気になるのか? 久坂の方も、同行の手立ても既に考えてあるさ。あとはお前の返事一つだ。だが……この件は久坂にはまだ黙っておけ」
そう言うと、高杉サンは不敵な笑みを浮かべた。
それからしばらく経ったある日のこと。
診療所で教科書を読みふけっていると、門の辺りから何やら声が聞こえてきた。
久坂サンと……誰だろう?
聞き覚えのない声に、思わず表へ出る。
「久坂サン、お帰りなさい! えっと……そちらの方は?」
私は久坂サンに尋ねた。
「玄瑞、このお嬢さんが美奈サン……ですか!? 晋作はまったく……言いたいだけ言っておいて、その後捕まりもしないとは、本当に困ったものですよ!!」
見知らぬ男性は、私の姿を見るなり、何故か私の名を口にする。
「あの……私がどうかしたの?」
「どうもこうもありませんよ!! 晋作が突然、清国視察に女を一人同行させたいと言い出しましてね。聞くところによれば、その女性……つまり貴女は玄瑞の妾だそうじゃありませんか! 晋作が何を考えているのか……私には理解ができませんよ」
「妾じゃない!!」
「妾などではありません!!」
男性の言葉に、私と久坂サンは同時に否定した。
「はて? 違うとは……それは晋作の戯言でしたか? ……とまぁ、そんな事はどうでも良いのです。問題なのは、晋作が貴女を同行させねば清国には行かないと言い出したことなのですから!!」
「何それ、意味が分からないんだけど……。まぁ……ね、立ち話もなんだし……とりあえず、中に入りません?」
「あぁ……そうですね。庭先で騒いでしまって申し訳ありません。その様にさせて頂きましょう」
男性を中に案内すると、私は人数分のお茶を出した。
「で、私には全く話が見えないんだけど……一体何なの?」
私は久坂サンと、男性を見比べて言った。
「悪い……そうだったな、お前からすれば何のことやら……といったところだろうな。こちらの方は、桂サンだ。高杉の奴がまた面倒をかけたそうで……急遽、江戸の藩邸よりこちらに足を運ばれた次第だ。それにしても……あの馬鹿は何を考えているのだ」
久坂サンは簡単に紹介すると、険しい表情になる。
この人が……桂小五郎?
身長は175センチ程だろうか、久坂サンと並ぶとより一層、優男という印象を覚える。
何かの小説ではもう少し、がたいが良いように書かれていたのだが……などと、ぼんやり考えていた。
「それで、ですね。美奈サン……今回の晋作の言動に、何か心当たりはありませんか?」
桂サンは静かに尋ねた。
「えーっと。そう言われてもねぇ……確かに、以前誘われた気もするけど。そもそも冗談だと思ってたし! それに何が何だか私にはよく分からないっていうか、清国視察がどんなものかすらも良く分からないもの」
「そう……ですよね。突然申し訳ありませんでした。それでは、清国視察のいきさつからお話ししましょうか」
桂サンが話してくれた事の顛末はこうだった。
清国、つまり上海への視察は幕府によるものだそうだ。
上海の実情を視察することと、試験的に交易品を持ち込み、どの程度の利益となるかを知ること。
これが今回の視察の主な目的だそうだ。
「何故、晋作が清国に視察に行く次第となったのか……それは玄瑞、貴方にも解っていますね?」
「…………はい」
久坂サンは小さく答えた。
何故、高杉サンが上海に視察に行くこととなったのか?
それには久坂サンも深く関係していた。
長州藩主毛利家の家臣の中でも屈指の名門である長井家出身の藩士がいる。
名を、長井雅楽。
少し前にその長井サンという人は、『航海遠略策』という案を提出したそうだ。
それは公武合体と開国を謳うもので、簡単に言えば『天皇が統治する体制で、幕府自ら外国と交易すべきだ』という積極的な開国策だった。
藩主の信頼の厚かった長井サンの案は藩論として正式に採用されるばかりか、現時点では朝廷や幕府からも正論とされ、今やこの案は日本全体の国是となるところまで進んでいるそうだ。
これを良しと思わなかったのが、高杉サンや久坂サンら尊王攘夷派の人々だった。
あろうことか、彼らは長井サンの暗殺まで企てていたそうだ。
血気盛んと言うべきか何と表現すべきか、今後起こるであろう英国公使館焼き討ちといい……高杉サンも久坂サンも、なんとも危険なテロリスト達だ。
「久坂サン……医者のくせにそんなに危ないことを考えていたの?」
桂サンの説明に、私は苦笑いする。
「…………すまない」
そんな私の表情を見た久坂サンは、照れ臭そうに謝った。
暗殺計画を耳にした桂サンや、高杉サンなどの村塾出身の若者たちを支持していた長州藩の要職、周布政之助サンらが、その計画に待ったをかけた。
先走りがちであった高杉サンを、とりあえず日本から離れさせよう。
……という考えもあったそうで、幕府が募集していた上海への視察への参加を、高杉サンに勧めたそうだ。
「そっか……色々あっての清国視察、なのね」
話の流れを知った私は、思わず溜息をついた。
「まったく……晋作には、いつも振り回されてばかりですよ」
桂さんは苦笑いする。
「本当にあの馬鹿は……一体何処に行ったのやら。いつもいつも、桂サンに迷惑ばかり掛けおって」
久坂サンは、眉間にシワを寄せるとお茶をすすった。
「おい! 美奈は居るか!?」
探し求めていた人のその声に、私たちは思わず駆け寄る。
そこには、悪びれた様子など微塵も感じさせず、いつものように不敵な笑みを浮かべる高杉サンの姿があった。




