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異説・桜前線此処にあり  作者: 祀木楓
番外編
17/131

 


 いみな【諱】


 〔「忌み名」の意〕


 (1)生前の徳行によって死後に贈る称号。(おくりな)

 (2)身分の高い人の実名。生存中は呼ぶことをはばかった。


 [参] 三省堂 大辞林








「昔の人って色々な名前があるよね……何で?」


 診療所で後片付けをしていた私は、その手を止めると不意に尋ねた。


「昔の人って……なんだ、唐突に」


 久坂サンは首をかしげる。


「特に理由は無いんだけどね。ふと思ったの。ほら、子供の頃の名前とか雅号とか……色々あるじゃない?」


「まぁ……そうだな」


「名前が色々あるって楽しそうだけど、自分の本名が分からなくなりそうだよね?」


「さすがに、そのような阿呆はいないさ」


 久坂さんはフッと笑った。





 その晩


 診療所にはいつもの面々が集まる。


 高杉サンなどは、自分の屋敷の一つという事もありほぼ毎日この診療所に顔を見せているが、伊藤サンや井上サンらは数日に一度の頻度で訪れる。


 閉業後の診療所に集まった皆は何をするでもなく、夕餉を摂りながら酒を酌み交わし、政治談議や社会談義に花を咲かせているのだ。


 今夜も、高杉サンの家の女中サンが用意してくれた豪華な夕餉で、酒宴が始まろうとしていた。


 そんな中、初めて見る顔があった。


「久坂サン……伊藤サンと井上サンと一緒に来た、あの人は誰?」


 私はこっそり尋ねる。


「あぁ、そうか美奈は初めてだったな。あれは狂介という」


「きょう……すけ?」


「彼も村塾生の一人だ。とはいえ、私が紹介したのだが……」


 このメンバーに居るという事は、その男性も歴史的偉人の可能性は高いが……私には心当たりが無かった。


「狂介! こちらに良いか?」


 久坂サンは、その男性に向かって手招きする。


「お久しぶりです」


 そう一言だけ呟くその男性に、私はなんとなく暗い印象を持った。


「彼は山縣狂介だ。狂介とは藩命で京を訪れた際に初めて会い、帰藩後に村塾を紹介して以来、こうして付き合いがある」


 山縣狂介……なんだか聞いたことがあるような……


 必死に頭を働かせる。


「この娘は美奈という。私の元で藩医見習いとしての修業をしているところだ。狂介は初めてだろうが……この診療所も医術を磨くように始めたものだ」


 私と山縣サンはお互いに頭を下げた。




「おい、お前ら……さっさとこっちに来い。そろそろ始めんぞ?」


 高杉サンの言葉で、酒宴は始まる。




「そういえば私、皆の年齢を知りたいなぁ」


 私は不意に尋ねた。


「歳だぁ? んなモン知って何になる?」


 高杉サンはくだらないとでも言いた気な表情を浮かべる。


「まぁ、良いではないか高杉。齢は、だな……私が今22だ。高杉は一つ上だから23、狂介がその一つ上だから24だな」


 この時代は数え年、つまり生まれた時点で1歳という数え方をするので、私たちの時代になぞらえると久坂サンであれば21歳という事になる。


「井上が狂介の2つ上だったか? そうすると26だな。伊藤は私の1つ下だから21だ」


「という事は……私は伊藤サンと同じ年って事だね」


 20歳の私は、数えでいうと21歳。


 つまり、伊藤サンと同じ年という事だ。


 同じ年と聞くと急に親近感が沸く。


「他に何か聞きたいことはあるか?」


 久坂サンの言葉に、何かないかと考える。


「あ! そうだ。みんなの名前が知りたい!!」


「名前? 名前なら既に知っているではないか」


 久坂サンは笑いながら言った。


「違うの。本名……えっと、諱の方」


 その一言に、場の空気が一瞬にして変わった。


「えっと……何か変な事言った?」


 豹変した空気に、私は戸惑う。


「先程から思っていたのですが……」


 山縣サンが口を開く。


「この娘は何なのですか? 女のくせに、まるで礼儀がなっていない!! 六年にして之に数と方の名とを教え、七年にして男女は席を同じゅうせず、食を共にせず」


「何……それ……」


 山縣サンの言葉に、私は呆気にとられる。


「何だ、そんな事も知らぬのか……その学の無さでよくも医者が務まるものだ」


「なっ!? 貴方に何が分かるのよ!!」


「弁が立たないからと、すぐに怒り出す……低劣の極みだな」


 初対面の人間に言いたい放題言われ、一気に頭に血が上る。


「どんだけ貴方が優秀かは知らないけどねぇ、初対面の人間にそんだけ悪態をつける貴方の方が人格を疑っちゃうわよ!!」


「なっ!? 女の分際で男を愚弄するとは許せん!! 刀の錆にしてくれる!!」


 山縣サンは勢いで刀に手をかけた。



「おめぇら、いい加減にしろ!!」



 突然の怒声に肩を震わせると、私と山縣サンは同時に声の主を見た。


「高杉……サン」


 私と山縣サンは同時に呟く。


「狂介……お前は頭に血が上りすぎだ。ちったぁ頭、冷やせや」


「ですが……身の程をわきまえぬこの小娘が……」


「誰がそんな事を頼んだよ? こいつぁ、これが普通だ。俺らもそれで良いと思っている。それに……久坂の奴が珍しく愛でてやがる稀有なモンだ」


「…………お騒がせして、申し訳ありませんでした」



 山縣サンが高杉サンにたしなめられて頭を下げたのを見た私は、心の中でほくそ笑んだ。



「おい、美奈ぁ」


「なっ、何よ?」


 突然、高杉サンに声を掛けられ驚く。


「お前もだ。気が強ぇのは良いがな……大概にしねぇと、命が幾つあっても足んねぇぞ? そもそも、この時代はな、お前の時代とは違ぇんだ。少しは学べや」


「っっ!! …………はい。ごめん……なさい」



 私は小さく謝った。



「そういえば、さっきの山縣サンの言葉はどういう意味だったの?」


「六年にして之に数と方の名とを教え、七年にして男女は席を同じゅうせず、食を共にせず……か?」


「そう、それ!!」


「こりゃあ孔子だな。七歳にもなれば男女の別を正しくすべきである。食事は共にせず、同じ布団にも寝かせるな……と」


「お……同じ布団!?」


「そっから転じて、男女各々の立場をわきまえろ……となるわけだ」


「ふうん……高杉サンってやっぱり物知りなんだねぇ。凄いなぁ」


 杯を片手にさらりと説明する高杉サンを敬仰する。


「じゃあさ、諱ってなぁに? 私はただの本名の事だと思っていたんだけど……」


「諱ってぇのはなぁ……その言葉の通り、忌むべき名前のことだ。本名だってのは、半分当たりだな」


「本名なのに、忌むべきもの……なの? 変なの」


 私は首をかしげる。


「理由は二つ。諱というのは古来より、死後の名前としての意味合いがあったそうだ。そのせいか、諱を知られるという事はたいそうな事で……その者の魂を縛り、呪をかける事ができると思われていたらしいな。最も、今じゃあ誰もそんな事ぁ思っちゃいねぇがな」


「じゃあ、今は何で諱を使わないの?」


「んなモンは昔の名残だろうよ? 今のこの時代だと、親や主君以外がそいつを諱で呼ぶ事は無礼だ……などという慣習があるからなぁ」



 私は今まで、諱イコールただの本名だと思っていた。


 諱にそういった経緯や文化があるとは……正直驚きだ。



「私……高杉サンの諱を知ってるよ?私の時代では有名だったもん。 えっと……春風……でしょう?」


「クク……よく知ってやがんな。そんなら俺ぁお前に魂を縛られちまうなぁ?」


「何で、怒らないの?」


「何に怒る?」


「だって……諱を口にしちゃったから……」


 高杉サンはフッと笑うと、杯を飲み干した。



「んなモンどうでも良いさ。そんなのもひっくるめて、古い慣習の全てを…………俺ぁただ壊すまで……さな」



 そう言った瞬間の高杉サンの目はどことなく、遠い先の未来を見据えているように感じさせられ、何故か印象的だった。




 その後、酔いのまわった皆にそれぞれの諱を教えてもらった。


 酔いのためか口が軽くなったのだろう。


 久坂サンは通武(みちたけ)


 伊藤サンは博文(ひろぶみ)


 井上サンは惟精(これきよ)というらしい。


 そして何とも驚いたのは山縣サンだった。


 山縣サンの諱は、有朋(ありとも)


 そう


 明治の世において、陸軍大輔や内閣総理大臣に就任し、教育勅語を発布した……かの有名な、山縣有朋だったのだ。


 歴史的に人気のある高杉サンや久坂サンの元に身を置き、明治政府の中核を担った伊藤サンや井上サンに山縣サンらと交流する。


 それは、何とも言い難い不思議な感覚だった。






 


 

 


 



 




 










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