表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異説・桜前線此処にあり  作者: 祀木楓
第2章 藩医見習い
14/131

長州の海


昨日は、みんなのお蔭で診療所を何とか形にする事ができた。


今日は一日ゆっくりして、明日より診療所を開業する。


私の病院……そう考えるだけで、嬉しかった。






「美奈? 入るぞ」


久坂さんが私の部屋を訪れる。


「久坂さん、どうしたの?」


「特に用事……という訳では無いが。その、何処かに出掛けようかと思ってなぁ」


「お出掛け?」


私は首をかしげる。


「そうだ。何処か行きたい場所は無いか?」


久坂さんの問い掛けに、私はしばらく考えた。



「私、海に行きたい!!」



海の無い場所で生まれ育った私にとって、海は珍しいものだった。



「海……か。そうか、お前にとっては海は珍しいものなのだったな」


「そう。海なんて私が住んでいた所からは遠かったから、夏休みくらいしか行けないし……だから海がよく見える長州は大好き!」


「長州が大好き……か。嬉しい事を言ってくれるな」


久坂さんは小さく笑った。






「わぁ……海だ!! 綺麗だなぁ」


「喜んでくれたのなら、連れてきた甲斐がある」



キラキラと輝く水面と、果てしなく広がる水平線に、心踊る。



「海に入りたいなぁ……」


「この時期に海に入るなど、無謀だ」


「だよねぇ……でも足だけなら!!」


泳ぐことは出来ないが、海に入りたい一心で砂浜を駆け出した。



「あっ、おい!!」



 下駄や足袋を脱ぎ捨て着物の裾をまくり上げる。



「ひゃあ……冷たぁい」



海水は思ったよりも冷たく、身に染みる。



「こんな時期に海に入る奴があるか!」



久坂さんは、波打ち際で飽きれ顔をしていた。



「だって、海がこんなに近くにあるなんて……嬉しいんだもん!」


そう言いながら、先程よりも着物をまくり上げ、海岸から徐々に離れて行く。



「そんなに離れると危ないだろう。あまりそちらに行くんじゃない!!」


「大丈夫、大丈夫」



久坂さんの忠告などさして気にはせず、足に感じる水の冷たさを楽しんでいた。


気付けばもう少しで、水面が太ももまで届きそうな高さだった。


着物をまくり上げるのもそろそろ限界だと感じた私は、海岸に戻ろうと思い振り返る。



「あっ!!」



それは一瞬の出来事だった。



「美奈っ!?」



自分では浅瀬に居たつもりが、おそらく急に深くなる部分との境に居たのだろう。


それは、まるで階段を踏み外したかのような感覚だった。


水が染み渡る着物の重さと、咄嗟の出来事によるパニックから思うように泳げない。


水面に顔を出そうと、もがけばもがく程私の身体は水面から離れていってしまうような気がした。



「息……できない……よ」



水中から見上げる海面は日の光に照らされ、とても美しかった。






「………………い」



誰かに呼ばれている様な気がする。


だが、身体が思うように動かない。


やっとの思いで、重い目蓋を開ける。


「久坂…………さ、ん?」



眩しい日の光の中、私の目に入ったものは、心配そうに覗き込む久坂さんの姿だった。



「大丈夫か!?」



その声を聞くと同時に、ひどく噎せかえる。


気管に飲み物が入ってしまった時との噎せ方とは比べ物にならない程の苦しさに、涙がこぼれ落ちた。



「気がついて……本当に……良かった」


久坂さんは私の背中を擦りながら呟く。


ひとしきり咳込むと、私の呼吸は徐々に落ち着きを取り戻していった。



「久坂さん……ずぶ濡れだね」


「誰のせいだと思っている」


「私のせい……です。ごめんなさい」


「まったく……お前という奴は、危なっかしくて敵わない」



久坂さんは深い溜め息を一つ、ついた。



「私、死んじゃうのかと思った」


「医者の前で死なれては、私の立場がないだろう?」


「そう……だよね」



私は小さく笑った。



「さて、このまま此処に居たのでは身体に障る。戻って着替えなくてはな。だが、此処からだと屋敷まで、ちと距離があるなぁ……診療所の方に行くとするか」


私達は立ち上がると、診療所へと向かい歩き出す。






「高杉! 居るか?」


診療所の扉を開けると、久坂さんが中に向かって尋ねた。



「高杉さんなんて……居るの?」



私は久坂さんに尋ねる。



「わからん。だが、高杉のことだ。どうせ此処で油を売っているのではと思ってな」



久坂さんの呼び掛けに対する返事は無かったが、しばらくすると足音が聞こえてきた。



「何だお前ら……こんな時期に揃いも揃って水遊びか?」



高杉さんは私たちを一瞥すると、気だるそうに言った。



「海に行ったのだがな……訳あって、この通りだ。何か着物を貸して欲しいのだが……手配してくれぬか?」


「しょうがねぇなぁ……おい。とりあえず、お前はここの風呂を沸かしてくれや」



高杉さんは振り返ると、後ろに居た女性に言った。



「はい、承知致しました」



女性は小さく返事をすると、廊下を小走りに去っていった。



「先程の女性は誰だ?」



久坂さんは高杉さんに尋ねる。



「あぁ、あれか? ありゃあ、うちの女中だ。新入りなモンでなぁ……ちぃとばかし遊んでやってたところだ」


「なっ!? 女中にまで手を出すなど……お前はどこまで節操が無いのだ!」


「まぁ、そう怒るなよ……お前とて、俺とそうは変わんねぇだろ?」



高杉さんは私を眺めると、口角を上げた。



「っ……お前と一緒にされては困る!」


「あぁ……そうかい、そうかい。だが、あまりもたついてると……お前の大事な美奈も、あっという間に誰かに持ってかれちまうぞ?」


「大きなお世話だ!」



久坂さんはそう言うと、眉間にシワを寄せた。






「お湯……沸きましたけど」



先程の女性が訪れた。



「そうか。美奈、お前はとりあえず風呂にでも入って来いや」



高杉さんは、女中だという女性に私達の着物を用意するよう伝えると、私に声を掛けた。



「久坂さん、先に入ったら?」


「いやいや、美奈が先に入れば良い」


「でも……」



ずぶ濡れのお互いを思い合って、二人して譲り合う。



「面倒臭ぇ奴等だなぁ……譲りあってるくれぇなら一緒に入ってくりゃあ良いじゃねぇか」



高杉さんは溜め息をつきながら面倒そうに言った。



「なっ!? そんなの無理に決まってるでしょう? もう! 私が先に借りますからね!」



そう告げると、浴室へと向かった。




冷えきった身体に温かいお湯が染み渡り、生き返るようだ。


お風呂から上がると既に着物が用意されており、その着物に着替えると、浴室を後にした。




広間では、高杉さんが独りでお酒を飲んでいた。



「ねぇ、こんな時間から飲んでるの?」



高杉さんの隣りにちょこんと座る。



「お前も飲むか?」


「せっかくだし……貰おうかな」



高杉さんから杯を受け取ると、そっと口をつけた。



「そういや、お前らは何で二人揃ってずぶ濡れだったんだ?」


「それはねぇ……私が海で溺れたから」


「この時期に海で泳ぐたぁ、お前らは馬鹿か?」


「違うよ。足だけ入ってたつもりが、急に深いところに来ちゃってたみたいで……それで、ああなっちゃったの。でも、此処に高杉さんが居てくれて本当に助かったよ……ありがとう」


「……そうか」



高杉さんは素っ気なく呟くと、杯を一気に飲み干した。



「そう言えば、あの人は高杉さんのお家の女中さんなんでしょう?」


「あぁ、そうだが。それがどうした?」


「新入りの女中さんを気遣って、気晴らしに一緒に出掛けてあげるなんてさ、高杉さんって案外良い人なんだなぁって。女中さんの仕事って大変そうだもんね……悩み事とかも聞いてあげたりとかするの?」



私の言葉に、高杉さんは驚いたような表情を浮かべる。



「お前が何をどう勘違いしてるか知らねぇが……俺が聞いてやるのは悩み事でなく、睦言だ」


「睦……言? …………何それ?」



聞きなれない言葉に、私は首をかしげた。



「分からないなら久坂にでも聞きゃあ良い」



高杉さんはフッと笑った。



「何を私に聞くのだ?」



久坂さんは、私と高杉さんの間に腰を下ろしながら言った。



「噂をすれば何とやら……だな。折角、久坂が来たんだ。聞いてみろよ」


「えっとねぇ。睦……言ってなぁに?」



私は久坂さんに尋ねる。



「なっ!?」



「何かね、高杉さんが女中さんに聞いてあげるのは、悩み事でなくて睦……言なんだって。私にはその言葉の意味が分からなくて……」


「答えてやれや、久坂ぁ。村塾一の秀才が分からない言葉なぞあるまいよ?」



高杉さんは、久坂さんの反応を楽しむかの様に言った。



「そ、そんなこと……美奈は知らなくて良い!」



「えー、何で教えてくれないの?」



「クク……お前ら面白ぇなぁ」




顔を赤らめる久坂さんと、頬を膨らませる私。



その様子を見て笑う高杉さん。



いつの間にか此処での生活にも慣れ、居心地が良いと感じ始めていた。








評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ