179.儀式
皇太子の合図とともに、他の皇族達が祈るような姿勢をとった。
俺達も目を瞑り、黙祷を始める。
辺りを静寂が支配する中、変化は音もなく訪れた。
足元に冷ややかな空気を感じる。
ただし、冷気のような凍えるものではない。
俺の服を濡らすような湿り気を帯びた空気だ。
それは徐々に上へと昇っていき、ゆっくりと全身を包んでいく。
他者の息遣いだけが鮮明に聞こえてくる。
しばらくして、湖の方から誰かの息を飲む音がした。
そのすぐ後、乾いた木材を叩くような音が辺りに響き渡る。
「……皆、面を上げよ」
俺は皇太子の言葉を受け、ゆっくりと瞼を開ける。
視界には辺り一面を覆い尽くすほどの霧が立ち込めていた。
その中でも存在を主張するように、湖が青白く光り輝いている。
湖から溢れる神秘的な光を背景に、皇太子と思われる人影が大きく揺れた。
「――我らは、乞う。我らの故郷たるアールヴヘイムの元へ。我らは望む。我らの根源たる世界樹の元へ。我らは捧げる。我らの生来たる光の民の元へ。月明かり照らす境界の泉にて、我らが原点に敬想する。かつて安らかなる…………」
皇太子と思われる声が祝詞と思われる言葉を紡ぎだす。
ただし、俺には副音声のように2重の声が聞こえてきている。
この祝詞がエルフ語で発せられている為だ。
皇太子がエルフ語のスキルを習得したわけでは無い。
言葉としてではなく祭事の際の祝詞として、脈々と皇族に引き継がれていたそうだ。
皇太子も言葉を紡いでいるというより、音を羅列しているような感覚だろう。
……この祭事を儀式として成立させる要素がいくつかある。
まず、良く晴れた月夜である事。月は三日月である事が望ましい。
この状態で湖を囲んで祈りを捧げると、湖を中心に大量の霧が発生する。
どうやら、この儀式で発生する霧を森の広範囲に行き渡らせる必要があるらしい。
その為、皇族の指示で皇都の外壁は隙間の大きな柵で覆われている。
確かに木々生い茂る森の中では外壁の意味も薄いというのもあるが、それ以外にも理由があったのだ。
霧の発生源近くにいる俺は見る術がないが、アールヴ皇国の森全体に霧が立ち込めている事だろう。
最初の祈りで霧を発生した後は、代表者の祝詞に合わせて湖を囲う者達が舞を始める。
祝詞の始めが似たような韻を踏んでいるのは、舞のタイミングを合わせる目的もあるのだろう。
「……かつて、栄華を極めんとして母なる大地より現世たるアバンデントへと来たり。しかし、語りつくせぬほどの想いは今も故郷へと捧ぐ。再び我らが故郷への途を。我らの祈念は永遠に――」
皇太子が祝詞最後の小節を言い終えた。
すると、辺り一面を覆っていた霧がゆっくりと外へ流れていくのを感じる。
しばらくすると、視界はクリアになり先程までシルエットしか認識できなかった皇太子の背中が見えるようになる。
その肩はわずかに揺れていた。
「…………どうやら、成功したようだ」
舞を踊っていた人の息遣い以外一切物音が無かった為か、皇太子のつぶやきがやけに大きく聞こえてきた。
それは皆も同じようで、視線が湖へ集中する。
湖は儀式を始めた時と変わりない淡く幻想的な光を放っている。
立ち込める霧が無くなったので、よりはっきりと光る湖の様子を観察できた。
そして、湖の変化に気づいた誰しもが驚愕の表情をうかべて空を見上げる。
湖が映す月の姿が満月だったからだ。当然空には儀式を始めた時と変わらず三日月が辺りを照らしていた。
資料を読んで理解していても、実際に見るとやはり驚きを隠せない。
しかし、この異様な光景こそが儀式の成功を意味し、湖の先が今もなお存在している事の証明に他ならない。
皇太子は獣人の代表者を含めた数人を集め2、3言葉を交わした後、俺達に聞こえるように言い放つ。
「皆、見ての通り儀式は成功した。これから手はず通りに我々が先陣を切る。もし、数刻経っても我々が戻らなければ第二陣として数名の突入を許可する。ただし、異常があればすぐに引き上げて湖周辺の警戒に当たれ!」
その場にいる全員が皇太子の言葉に頷く。
皇太子はその様子を確認した後、数名を引き連れて湖の中へと歩を進ませる。
一団が1歩足を運ぶ度に、少しづつ沈んでいく。
足先、膝、腰、肩そして皇太子の頭が湖に完全に隠れたその時、大きな変化が起きる。
先ほどまで水面越しに見えていた皇太子の人影が突如として消えたのだ。
すぐ後ろを進んでいた人物は突然の事に思わず歩を止める。
しかし、第一陣に選ばれた人物だけあってすぐに動揺を抑え、皇太子の後に続くように湖の中へと消えていった。
一団の最後の1人の姿が確認できなくなった時、誰かが大きく息を吐く音が聞こえてくる。
それを皮切りに立ち会っていた文官や獣人達は持ち場へと移動していき、予備戦力のプレイヤー達は湖の傍で待機する事となった。
しばらくは待機状態が続くだろうという事で、騒がしくならない程度の私語は許可されている。
他のプレイヤー達はパーティーごとに先程の光景や今後の展望について話し合い始めた。
俺はと言えば従魔達と戯れたり、ボスパーティーやアート達と雑談しながら時間を潰した。
2時間ほど経過した頃だろうか。
プレイヤー達は話す事もなくなったのか私語が少なくなり、待機している衛兵や文官には不安の表情が浮かび始めた頃、突如湖の中に人影が浮かび上がる。
それを確認したプレイヤー達は色めき立ち、文官や侍女と思われるエルフ達が水を拭き取る布等を用意して湖の畔で待機する。
皆が固唾を飲んで見守る中、ゆっくりと湖から出てきたのは難しい顔をした皇太子だった。
法衣が透けたり張り付いたりしていない事から、湖の中を歩いたにもかかわらず濡れてはいないらしい。
皇太子は侍女から湿った布を受け取り、顔を拭うと周りに聞こえるように大声を張り上げる。
「我々は湖の先の様子を確認した。当初懸念されていたような危険な事象は発生しなかった。我々の先祖たる光の民は今もなお向こう側で暮らしており、神獣も健在であった!」
プレイヤーからは歓声が上がり、文官たちには緊張が走る。
各々の思いが交錯する中、皇太子は言葉を続けた。
「光の民は普段エルフ語を話すようだが、共通語も使用できるそうだ。そこで第一陣の者達は祖先達と話し合いをしている状態である。そして驚くべき事に我らが故郷で暮らす光の民は不老に近い程の長寿であり、儀式が行われなくなった経緯も全てご存じであった」
その話を聞いて、プレイヤー達にも緊張が走る。ひと悶着あるのかと。
俺としてはこれ以上の面倒事は勘弁願いたいところだ。
だが、続く言葉は予想とは違う内容だった。
「……光の民は、我々に怒りを向けるような事は無かった。むしろ、獣人とエルフの仲は修復されたのか心配されていた。私はクーデターから現在の経緯まで簡単に話した。光の民は悲痛な表情で私の独白ともいうべき説明を聞いてくださった。そして、今回儀式の復活に協力してくれた者達を湖の先で待機させていると伝えたところ、直接会って話を聞きたいそうだ。そこで、私だけ先にこちらへと戻り、この場にいる協力者全員を湖の先へ案内することになった」




