消去の過程
筆記用具を持たない先生は、手持ち無沙汰にページを見返しながらゆっくり語っていく。
「大学については、家から通える範囲だろう。でなければこんなところに来ない。4月の入学に向けて準備をしているはずだ。感染症については5月からは第5類扱いになるからもうZOOM入学式なんてやらないだろうし。ただ、君の体力は把握不可能、通学時間に上限はない」
「そんなことないですよ。常識の範疇です」
「シャトルラン、最低いくつ?」
「最低? 高校だったら120くらいですかね」
「ほら。それだけあるなら片道3時間も余裕だ」
「いや、さすがに往復6時間はきついですって。1日の25パーセントも通学に使うのは頭悪いです」
「君はやりかねない」
「失礼な」
現代日本において発達した交通網を用いれば、東京を基準として3時間あれば北は福島、西は神戸まで行ける。その範囲内に当該国公立大学はいくつあると思っているんだ。知らないけど。
「真面目な話、行きたい大学であれば君は片道1時間前後くらいなら有りだろう? その範囲に存在するキャンパスは多くない。ある程度絞り込める」
「関東圏はよゆーで範囲内です。ぜんぜん大学は絞れてないじゃあないですか。それに、志望校対策は家でやってましたし、赤本だってここには持ってきたことないんですから、大学名は推理ではなくて予想でしか当てられませんよ」
わたしがそう主張すると、先生はコーヒーで喉を潤して「まだ科目について考察してない」とつぶやく。マスクをつけなおすと、耳に引っかかった黒髪を指で引き出す。
「先ほどの補足として、君がしていた英語の勉強は教科書や参考書をもちいた一般的な大学受験へ向けた勉強だったから海外大学受験のための語学力対策ではない。だから、第一志望というのは国内の大学である」
「ごもっともですね」
「……センター試験、違う、なんだっけ?」
「共通テスト」
「そう、それ」
右手でノートをぱたんと閉じながら、左手でぱちんと指を鳴らした。普通にやればキザなその仕草ですらどこか彼がまとう雰囲気が合わさるとずるいほど似合ってしまう。
「対策していたのは5教科8科目だから、私立は除外できる。2月に見せてくれたWeb合格通知は、浪人を避けるためだか合格経験が欲しかったのか知らないけれど、テスト利用で滑り止め確保だった。いまさら改めて報告する内容ではないから、あれらの合格通知で満足しなかったのは第一志望をまだ受験すらしていない段階だったから……つまり、第一志望ではなかった証左だ。したがって、第一志望は関東圏内の国公立大学に限定された。この時点で大学の候補は15くらいかな」
あらためて両手を組んで、顔の前に構える。テーブルの真ん中あたりの虚空を眺めながら諳んじるように言葉を続ける。
「さて。君の勉強科目は、英語、現文、古文、数学1a2b、化学、地理、政治経済、合計五教科八科目だったね。範囲を動かす前に下地を整えよう。国公立の、理系か文系か……効率性を考慮して、なんとかテストと大学個別テストで受験する教科科目は類似性は高いだろう。国公立受験において余計な勉強をしている余裕は基本ないのだから。国語と数学と社会の3教科を2科目ずつ、国公立のなんとかテスト指定において文理問わず国語と数学は2科目が課されることが多い。
しかし、理科社会は違う。理科は基礎または発展における地学・生物・化学・物理のいずれか、社会は現社・歴史・地理・政経・倫理のいずれかが課される。一般的に、理系は理科発展2科目・社会1科目、文系は理科基礎2科目・社会2科目の組み合わせが多い。ふたつ補足すると、理系の理科発展1科目または文系の社会1科目で受け入れられる国公立大学は無いし、理系のばあいは大学個別試験で数学3まで課されるから君のように範囲の微積分や複素数平面の手を抜くのはあまりにも傲慢だ。
……したがって、君の第一志望は、国公立文系だとわかる。
また、君の場合は理系科目に不安は少なかったし理科は化学が安定して得点できた。よく国文志望者に勧められるのは地学基礎と化学基礎の基礎2科目選択だが、実際に選択したのは発展1科目の化学のみ。先ほどはここまでから理系か文系か考察したわけだが、国文で理科発展1科目を受け入れているところは少ない。さて、これで大学は片手に収まり、学部もいくつかに絞られたね」
ひと息に言い切ると確認するように首を傾げられた。こういうところもずるくていらっしゃる。「ご明察です」と肯定したら満足そうに目を細めた。「これで7大学。さあ、ラストにむけてもう少し解像度を上げよう」先生にならってともに居住まいを正した。
「最終的な学部学科の特定については、政治が鍵を握った。苦手な自覚もあっただろう。実際、定期試験結果はいずれも酷いものだった。しかし、君は最後まで政治を捨てなかった。受験の必須科目だったから当然だ。しかし、なぜそこまで固執するのか……否、政治にこだわっているのではない。片割れにこだわっているんだ」
ここまで思考効率に格差があるともはや悔しくない。
「政治は単独ではない。一般的に、政治経済として扱われる。そう、経済を学びたかったんだ。壊滅な成績と自覚する政治を諦められないほど。君、変なところでこだわるからおそらく学部または学科、あるいはどちらにも〝経済〟が冠されていたのではないかな? 経済を学ぶなら、受験でも経済を使う、といったように。現社や歴史を使えば楽できただろうにね。変なプライドを発揮した君の、政経利用に拍手喝采したい……」
間違いを指摘しようと口を開こうとしたら、先輩は光の速さで筆箱を奪取した。「――ところだが、ね」と得意げに続ける。
「大学側も無意味に入学試験を用意しているわけでは無い。前述のとおり、なんとかテストと大学個別テストで受験する教科科目は類似性は高いし、国公立受験において余計な勉強をしている余裕は基本ない。学部学科に則した社会科目が課されることは十分ある。そう、大学個別テストに社会科目として政経のみが課されていたら? 苦手だ無理だと言っていられない。進学を望むのなら、必死にどうにかするしかない」
「なんとかテストの化学1科目で受験できる国公立大学の文系、個別テストに政治経済のみが使われている学部学科。まあ、君がおかしなところにこだわるのは事実だから〝経済〟が冠されている学部学科名であるのも採用していいだろう。こうして、答えが導かれる」
取り返した筆箱からペンを取りだすと、タクトを振るように宙に円を描いてわたしの視線を一点に留めた。
最後、解答を宣言する。
「伊月永。君の進学先は、修桜大学社会科学部行動経済学科だ」




