第10章ー1 南京事件
新章の開始です。
1926年7月に始まった中国国民党の「北伐」は、中国の民衆の熱狂的な支持もあり、順調に表面上は進んでいた。
これまで(中国の民衆の視点からすれば)、中国が分裂することによって、日英米等の列強により、中国の民衆は散々搾取され続けていた。
中国国民党の「北伐」が成功すれば、中華民族主義や革命外交を唱える中国国民党により、列強による中国の民衆からの搾取は止まり、偉大な中華が復活する。
そう信じた中国の民衆は、中国国民党の北伐への支持を惜しまなかったのである。
だが、それは当然、既成秩序を形成していた日英米の列強とのトラブルを産まずにはいられなかった。
1926年9月に楊森(以前、直隷派の軍人だったが、機を見るに敏で、中国国民党の「北伐」を見て、国民党に加入した)率いる軍が、四川省万県で日英とトラブルを起こした。
当時、楊森軍の兵は、しばしば乗船しても兵であることを嵩に着て、無賃乗船をしており、日英の船から乗船拒否をされていた。
それを逆恨みした楊森軍の兵は、日英の船を攻撃し、日英の船の乗組員に死傷者を出したのである。
当然、日英は、楊森軍と中国国民党に謝罪を求めたが、楊森軍はそれを拒絶し、中国国民党も実情をきちんと調査した上で、と謝罪を事実上拒否した。
乗船拒否した日英側が悪いというのが建前上の理屈だった。
事ここに至って、日英が黙っている筈もなく、万県の楊森軍の兵舎に対し、日英軍の砲艦が共同砲撃を加えて報復し、楊森軍の兵100名以上が死傷する事態が起こった。
この背景として、楊森軍が中国国民党への忠誠を示す必要があり、日英に強硬手段を執らねばならなかったという事情があったが、この事は、日英同盟復活の最初のきっかけになった。
1927年1月、とうとう、武漢三鎮の民衆が暴走し、中国国民党軍の無言の支持の下、漢口の日英租界を襲撃するという事態が起こる。
これに対し、日本の幣原外相は、中国国民党に対し、英米等と共同して抗議を行い、表面上は中国国民党政府も謝罪したが、現地の住民の襲撃は治まらず、万県事件の経緯から、武漢三鎮に駐屯していた日本海兵隊1個中隊(呉鎮守府より派遣されていた)は自衛のために発砲を余儀なくされ、中国の民衆が死傷するという事態が起こる。
ちなみに、この漢口事件については、日中双方の発表が完全に食い違っている。
日本海兵隊の発表では、威嚇射撃では中国の民衆の襲撃が止まらなかったので、止む無く実弾射撃を行ったものであり、多くても中国の民衆は数名しか死傷していない。
だが、中国国民党の発表によると、日本側は威嚇射撃等を行わず、小銃のみならず機関銃や迫撃砲まで持ち出して、徹底的な中国の民衆の虐殺を報復として事前に計画しており、実際にそのように中国の民衆は無抵抗の状態で一方的に虐殺された。
そのため、中国の民衆の死者だけで100名を軽く超え、死傷者全員で1000名に達するという。
なお、現地にいた英米人は、日本側の発表を支持したが、英米は日本の味方であり、真実を発表するはずがないと言って、独ソ等は中国国民党の発表を支持した。
日本の幣原外相は、この事態に至っても、漢口の日英租界につき、なおも中国国民党政府に対し、中国国民党軍による保護を依頼したが、中国国民党軍は表向きは保護依頼を受けつつ、実際にはこれを無視した。
ことここに至っては是非もないとして、漢口の日英租界は閉鎖されて、漢口の居留民は全員帰国するのだが、この漢口事件は、後の南京事件の導火線となり、日英同盟を復活させ、日(英米)対中(国国民党)の限定戦争を引き起こす直接のきっかけになったと言っても過言ではない事件となるのである。
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