第11章ー7
実際、張学良は、父、張作霖の死を予期していたかのような手際の良さを、「張作霖爆殺事件」の際に発揮している。
こうしたことから、張学良が、父の爆殺を計画して実行した、そこまで行かなくとも、父の爆殺計画を察していながら、黙認していたのだ、という疑惑が出てくるのも、当然のことのように思えてくる。
ともかく、1928年6月4日早朝に「張作霖爆殺事件」は発生したが、張作霖は即死はしなかった。
奉天にある、爆発現場の近くの私邸に張作霖は息のある状態で担ぎ込まれ、そこで同日夕刻に張作霖は息を引き取った(張作霖の正確な死亡日時については、諸説があるが、少なくとも「張作霖爆殺事件」が起きた直後には、張作霖は生存していた、というその際に随行していた儀我誠也少佐の証言がある、)。
そして、「張作霖爆殺事件」の発生を知った(何時に知ったかも諸説ある。)張学良は、その時点では北京で中国新政府軍の攻勢を防ぐ奉天派の部隊の総司令官の立場にあったにもかかわらず、6月4日夕刻には事務引継等の必要な諸手続きを済ませて北京を発ち、奉天へと向かっていた。
更に6月5日の間に、奉天にある父、張作霖の私邸に入った張学良は、速やかに張作霖の生死に関する情報を統制すると共に、奉天派の将兵に対して自らに対する忠誠を訴えた。
皮肉なことに、満州内では日米の支援を受けた奉天派はそれなりに行政機関を整えており、徴税機構を整備もしていた(以前、奉天派内の郭松齢の反乱がうまくいかなかったのも、張作霖に味方した部隊には徴税機構を掌握している張作霖から(遅配が当たり前だったが)給料が払われたのに対し、郭松齢に味方した部隊には給料が全くなく、部隊の維持は略奪に依存せざるを得なかったためだった。)。
そして、張学良は、張作霖の息子として、奉天派を継承するのに有利な条件を予め備えており、こうしたことから、満州内の行政機構が相次いで張学良支持を表明するのと競い合うように、奉天派の将兵も張学良に対する忠誠を相次いで表明した。
このために張作霖の死で満州が混乱すると見ていた諸勢力(韓国、米国からソ連等々)は、張学良の下に奉天派が結束を固め、新たな満州の統治機構を築き上げようとすることに対し、後手に回ることになった。
張学良は、6月21日に「本日、父、張作霖が薬石功無く、死に至った」と発表すると共に、自らが東三省保安総司令に就任したことを発表した。
ここに、張学良は、張作霖の後を継承し、奉天派を率いることになったのである。
更に張学良は、日米を公然と裏切る行為に走った。
「張作霖爆殺事件」が起きた直後から、奉天派と日米の三者共同による調査委員会が設置され、「張作霖爆殺事件」の真相を解明しようとしていたが、その調査は中々進まなかった(その原因も諸説ある。日米は、奉天派の非協力を非難しているが、奉天派は日米が非協力的だったと主張している。)。
張学良は、調査委員会による真相解明が進まないのは、日米の妨害によると主張し、状況証拠から父、張作霖の死に日米が関与しているのは間違いないと声明をだして、日米を非難した。
これに対して、日米それぞれも反論した。
だが、日本は公然と後ろ暗いところはないかのように反論し、実際、張学良側も日本の関与がある筈、というばかりで、それなりに説得力のある証拠を挙げることができなかったのに対し、米国は違った。
張学良側の指摘する米国関与の証拠について、米国は事実無根と感情論に満ちた反論をするばかりで、反証をあげることをしなかったのだ。
こうなっては、中立の諸外国、英仏伊等も、「張作霖爆殺事件」について、米国の関与を疑うようになった。
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