第11章ー2
「南京事件」の後に勃発した日(英米)中限定戦争が停戦協定締結に伴って終結した後、中国国民党と共産党の合作は急速に進んだ。
また、北京政府から離脱した馮玉祥将軍率いる残党勢力とも連携し、反北京政府、反日英米帝国主義という大義名分の下、各地の小軍閥の糾合にも成功した。
確かに日(英米)中限定戦争は、軍事的には明らかに中国側の大敗だったが、政治的には中国側はそれを取り返してお釣りの来る結果となったと言えた。
何しろ蒋介石率いる中国国民党右派を自らの手を汚さずに叩き潰すことに成功し、中国国民党左派と中国共産党の合作が完全に成ったのである。
こうして成立した中国新政府への対応に、日本以下の諸外国政府は頭を痛めることになる。
1928年3月、中国新政府は、あらためて「北伐」の開始を宣言し、指導下にある諸軍を北京へと向けた。
そうしないと、軍閥同士の権益争い等から、中国新政府が崩壊しかねないという事情もあった。
(中国新政府の財政基盤は脆弱極まりないもので、ソ連政府の支援にかなりの部分を頼っていた。そのために北京へと進軍し、北京政府の資産接収が必要不可欠だったという。)
これに対して、張作霖率いる北京政府軍は局地的には勇戦することもあったが、基本的には各所で敗走するばかりで、1月余りで淮河以南、山西省以西は完全に中国新政府軍の勢力に落ちた。
そして、山東省に中国新政府軍は迫った。
山東省には、世界大戦の結果、日米合同で経営等に当たっている鉄道や鉱山が幾つもあり、これをどうするかで日本政府内部、米国政府は頭を痛めることになった。
話が前後するが、1928年2月20日は、衆議院選挙が日本で行われていた。
この選挙において、「南京事件」が起きたような場合に、中国へ派兵するか否かが争点の一つになった。
勿論、日本の国民が殺傷された場合に、派兵すべきというのは、与党の立憲政友会も、野党の立憲民政党も一致している。
問題は、英米人等、日本人以外が殺傷された場合も、日本は積極的に派兵すべきか、だった。
立憲政友会は、日本は世界の大国の一つであり、英国は同盟国、米国は日本の友好国でもあるので、派兵すべきときもある、と唱えた。
立憲民政党は、日本人ばかり血を流すのは御免蒙る、英米にも血を流してもらうべき、英米が派兵しないのなら、日本は派兵すべきでない、と唱えた。
このように立憲民政党が内向きな主張を取ったのは、結党以来の理念もあるが、日(英米)中限定戦争の結果を踏まえてと言うところもあった。
それ以前から、世界大戦で大量の死傷者を出していた日本国内では、戦争で国外に派兵することに消極的な空気が漂っていたのだが、日(英米)中限定戦争で、日本は海兵隊から海空軍まで開戦から停戦協定締結までに1000人余りの死傷者を出したのに、英米は併せても数十人しか死傷しなかったことから、日本人ばかり大量の血を流した、という想いが日本の国民の間には高まるようになった。
こうしたことから、日本国内では厭戦気分が広まっており、田中義一首相率いる立憲政友会が与党として選挙戦を行ったにもかかわらず、衆議院選挙の結果は、立憲政友会は第1党(獲得議席数218)にはなったが、立憲民政党(獲得議席数216)の議席数の差は2つに過ぎず、立憲政友会は衆議院(定数466)の過半数を握れず、第3党以下の少数政党がキャスチングボードを握るという、立憲政友会にとって不本意極まりない結果になった。
こういった国内政治情勢を踏まえた上で、田中内閣は、米(英)政府と協調して、中国新政府の「北伐」に対処せねばならないという難しいかじ取りを迫られる羽目になったのである。
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