第11章ー1 山東出兵、張作霖の死
新章の開始です。
この世界では、21世紀まで続く日本の二大政党の一方の雄、立憲民政党が結党されます。
これによって、海兵隊等の軍部は翻弄されます。
中国で日本海兵隊等の総司令官を務めていた土方勇志提督が、蒋介石の降伏を受け入れていた1927年6月1日には、日本国内でも大きな出来事が起こっていた。
上野精養軒には、多くの聴衆が集まり、固唾を呑み、結党宣言の発表を待ち望んでいた。
「ここに立憲民政党の結党を宣言する」
初代立憲民政党総裁に内定(正式な決定は結党式の後の第1回党大会でということになっていたため)している浜口雄幸元蔵相が、立憲民政党の結党を正式に宣言した瞬間、多くの聴衆から万雷の拍手が沸き起こった。
反立憲政友会の新党として、この後、日本の議会政治において、平成の世に至るまで、立憲政友会に対峙する二大政党の一方の雄、立憲民政党が誕生した瞬間だった。
立憲民政党は元を辿れば、立憲改進党に至る歴史を自ら誇る政党である。
それに対峙する立憲政友会が、自由党から始まる歴史を自ら誇ることを考えれば、共に日本で大日本帝国憲法が制定され、議会政治が始まってからの歴史を持つ由緒ある政党と言うことになる。
だが、立憲民政党が誕生したのは、皮肉にも反立憲政友会に対する数合わせの側面が強い代物だった。
立憲民政党は、憲政会と政友本党が合併することで誕生した。
そして、憲政会は確かに立憲改進党の嫡流と自称して間違いない存在だったが、政友本党はそもそも立憲政友会の主流派の動きに反発した反主流派が、床次竹二郎を旗頭に脱党して結成した政党だった。
そんな2党が合併を決断したのは、昭和金融恐慌の早期収拾を見事に成し遂げた田中義一首相率いる立憲政友会に脅威を覚え、このままでは、立憲政友会が単独過半数を議会で握る圧倒的与党になりかねないと危惧したからだった。
若槻礼次郎率いる憲政会が、田中首相率いる立憲政友会に政権を禅譲したのは、あくまでも昭和金融恐慌を引き起こした政治的責任からであり、本音としては、すぐに与党に復帰したかった。
しかし、田中首相は見事に昭和金融恐慌を早期収拾して見せ、南京事件をきっかけに勃発した日(英米)中戦争で海兵隊等を果断に出兵して見せ、と国民の人気は高まる一方だった。
このままでは、立憲政友会の人気が高まり、立憲政友会が永久与党になりかねない、と憲政会と政友本党の議員の多くが危惧したのだった。
そのため、立憲民政党は結党早々に、多くの新聞から理念なき数合わせの新党として批判された。
それに対して反論するために、立憲民政党は、個人の自由と独創を尊重する進歩的な政党であると自己定義をした。
実際に立憲民政党は、この後、徐々に日本国内外から中道左派の政党として評価され、発展していくことになる。
そして、結党当初の立憲民政党は、対外政策において、自主外交を提唱した。
これはある意味、当然のことで、南京事件に伴い、海兵隊等を派兵している田中内閣の外交、軍事政策を対米英追従外交と非難するためだった。
もちろん、政治経済的な理由もある。
満蒙を除いても、中国本土の市場は、距離的な問題もあり、日本にとって重要な市場だった。
だが、英米にとっては、それほどでもなかった。
そのため、立憲民政党の議員やその支持者からしてみれば、英米は何かと言うと中国に対して軍事力を行使したがり、その際の軍事力を日本に頼るように見えてならなかった。
それに、世界大戦後の戦後不況から、関東大震災、昭和金融恐慌と不況に苦しむ日本の財界にとって、中国本土の市場が失われるというのは大問題と認識されていた。
こういったことから、立憲民政党は、対外政策において自主外交を提唱し、対中国外交については軍事力行使を回避する柔軟外交を提唱した。
これに、今後の海兵隊等の軍部は翻弄されることになる。
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