新居=気付けば自爆発言に要注意だった中身
東区生活ももう数週間になる。お兄さんは最近忙しい。
何しろ超がつくほどの貴重品であった、何かの古代書物を焼失してしまったせいだ。
それもこれも、あの公国の令嬢が悪いのだが、公国の令嬢のせいだと言っても不始末は不始末、と解読のために貸していた神殿は、考えたようであり。
お兄さんの方も、保護が甘かったというせいか、絶対にあの理不尽な令嬢が悪いのに、お兄さんのせいにされてしまっている。
その結果、お兄さんには一生かかっても支払えないほどの借金……損害賠償らしい……ができてしまった。
それを返済するために、あちこちのフィールドに回るし、薬草の調合の手伝いをするし、今までとは一変した生活をしている。
おれはおれで、お兄さんとフィールドを回る事もあれば、調合のための薬草の下準備をする毎日だ。
今までと比べて目が回りそうな忙しさだし、色々なところで追いつけない。
お兄さんはもっと大変そうだとおれは、思う。
でもお兄さんはにこにこと、笑いながら
「別に命をとられるわけでも殺されるわけでもなし、借金で命を狙われるわけでもなし。じっくり返済すればいい。まああいつはそのうち、厳重抗議をまたするだけだ」
なんてどこかずれているから、おれはその借金の額に倒れそうにもなるってわけだ。
借金は知っている桁よりもゼロが三つも多かったのだ。
これって人間が背負う借金って額じゃねえだろ、と思いながらも、お兄さんはどこ吹く風で今日も、
「あんな重要な物を結果的になくしてしまったのだから、これだけの事を言われるのはある意味仕方がないのだ、それだけあの書物に書かれていた事は貴重だった」
と本気で神殿に殴り込みに行こうとするおれを、なだめるのである。
「だってだってお兄さん! お兄さんがあの状態で悪いっていうのおかしいじゃないですか!」
「あの時結界の外にはじき出していればよかっただろう、と周囲は言うだろうな。隠者ともあろうものが、相手の悪意を見抜けずになどと、簡単に賢者と同じ振る舞いを求める」
新たな住居の、玄関先、そこで盾を片手に、いつでも飛び出せる支度をしていたおれ。
そんなおれの腰に片腕を回して、動けないようにして言うお兄さん。
この人関節の限度を知っているから、こうして動けないようにされると、骨を折る覚悟しなければ、脱せない。
まして片腕に重たすぎるものを装備した状態では、振り解くのは夢のまた夢でしかない。
そしてお兄さんは続けるのだ。
「お前がいくら、あれがおかしい事だった、私にとってこの損害賠償はおかしいのだと言っても、神殿側が聞く耳を持つわけがない。彼等は命に代えてもこの書物を守ることを念頭に置いた後で、私に貸したのだから」
「だって家をいきなり爆破されて、守れるも何もあるわけないじゃないですか!」
おれのこの言葉に対して、お兄さんは笑いを増すばかり。
「だな。確かに家をいきなり爆破されて、守れるも何もあるものではない。だが神殿にはそんな物は関係ない、結果しかないのだ」
「結果しかって、それじゃああの令嬢には何の御咎めもないの、お兄さんの家を壊してお兄さんの生活を壊して、お兄さんの“今”をめちゃくちゃにしたっていうのに!」
喚いたおれのおでこに、自分のおでこを合わせて、お兄さんが頷く。
「無論私がそれに対して、何の思いも抱いていないわけがない。だがな」
お兄さんの表情が、至近距離でわかる瞳の中の何かが、面白そうに揺蕩った。
「あんなものそのうちに、どうでもよくなる事態に陥るな、あちこち」
その時のお兄さんの、なんとも言えない獣のような、大型の魔物以上の何かのような、そんな雰囲気に、おれは沈黙し。
「やっべ惚れなおしましたお兄さん」
そのなんとも言えない先読みの仕方と、懐の深さのような物に、ほれぼれとした。
それしか言いようがない気持ちだったのだ。
おれなんて思いもしない所でお兄さんは、色々な事をみているのが、すごい。
すごいったらありゃしない。
おれは目先ばっかりにとらわれる、この治らない癖があるけれども。
お兄さんは“トンデモナイ額の賠償金”という現在以上の先が、見えているんだ。
しかも、破滅じゃない先が。
その見通すような強さは、おれの持ちえない物で。
これがお兄さんとおれの、格の違いってやつなんだなと真剣に思った。
きらきらとお兄さんを見ていたら、お兄さんはすごくうれしそうな顔でおれの額に、唇をあてがった。
柔らかい接触音だ。これは父さんも母さんもやっていた事で、いまだに意味は分からない。
でも、悪い意味の接触じゃないのは確かなのである。
何かしらのおまじないの一種、とおれはとらえている。
出かける時に、母さんは父さんにこれをしていたから。
きっと何かの守りなのだ。
「惚れなおすも何も、お前な。アラズ。そんな期待に満ちた光の瞳で見るな、どうにもこらえが効かなくなってしまう」
唇を放したお兄さんが、やっぱり至近距離で囁くように言う。
こらえが効かなくなるのが、問題だという声である。
でもしかし、だ。
「え。こらえが効かなくったって、問題ないんじゃないんすか」
首を傾けるおれ。
「いやだったら、おれ、お兄さんでも跳ね返してしまうと思いますし」
この前は雰囲気に流されて、色々あっという間だったけれども。
その後も何回か、同じような事になったんだが。
お兄さん優しいし、限界を察してくれるのもうまいわけだし。
別段、お兄さんのこらえが効かなくなっても、問題はないのだ。
おれは自分の実力を知っているし、腕力だけならお兄さんなんて三人束でもどうにでもなる。
さらに知らない事でいろいろ強化されているし、そういう行為になだれ込んだ時、跳ね返せるだけの物は持ち合わせているのだ。
アリーズたちはあれ、頻繁にやっていたしうるさかったから、声だけは意地でも出さないけどなあ。
まさかこの歳で、それも実地で、アリーズたちのしていただろう事を知るとは、色々人生って言うのは謎だ。
「妹背、……お前は嫌なのだとばかり」
目を軽く開き、意外だという顔で言う隠者様に、おれは続けた。
「周りがうるさいと嫌じゃないですか、だから声は出しませんし、お兄さんそう言うのするとなんだか、体ぜんぶ蕩けちゃって嫌って気持ちにはなりませんけど」
「……」
おれをしばし見たお兄さん、頭を抱えた。
「本人にこう言われてしまうともうどうしようもない……私とあろうものが……」
「なんか不名誉な事言いました、おれ?」
実際にお兄さんがそう言う意識で触る時、なんかふわふわして体が融けていって、なるほど誰でもこれにはまるのは道理、と思ったのはおかしいのか。
それともこれが常識と知識の違いなのか。
いまいちわからない。
あ、でも言いながら分かった事があるんだ。
「でもたぶん、お兄さん以外が同じことをするつもりだったら、四分の三殺しまでいっちゃうだろうなあとは、思いますよ。盾師が心臓許すの、なんてそんないないんですからね」
おれの続いた言葉に、お兄さんは顔を覆って動けなくなってしまった。
何だこの空気、おれが飛び出す飛び出さないをしていたはずなのに、止めていたはずのお兄さんが動けなくなっている。
混沌とでもいうべきなのか。
おれはしゃがみ込んで動けないお兄さんの前にしゃがんで、そのままぼけーっとそのつむじを眺めていた。
頭の形がいいなあ。
「いつか聞いた事がある事を、当の本人に言われるとは」
しばし動かないお兄さんが、ぼやくように言う。いつか聞いたって何を。
「何を聞いたんで?」
「盾師は守ると決めた者を守る性分だが、心臓の位置だけはよほどの相手でなければ許さないと。心臓を許すという言葉を使うこと自体が、あー……」
お兄さんが非常に言いにくそうに続けた。
「最上級の愛の告白だと」
「まあそうかもしれませんね、盾師はいつでも心臓の音を一定にしていなければ、務まらないって師匠が何度も言いましたし」
危機一髪という局面でこそ、発揮される盾師としての実力と覚悟なのだ。
そこで心拍数が跳ね上がったりして、動きに支障があってはならないのだと言われて、どんな時でも心臓の音を一定にする訓練ってやつを。
させられたっけな。あれは非常にしんどかった。
……ってあれ?
おれは自分で言いつつお兄さんの言葉も、思い返して。
自分の言った言葉が思いっきり跳ね返って、顔が真っ赤になった。
心臓の速さも音も一定なのに、血が回るってなんだこれ。
……つうか、自分がするりとお兄さんに、心臓許すって言った事自体びっくりだ。
そっかそっかおれ、実はもうかなり……
いやもう、かなりっていう所飛び越えて、おれは。
お兄さんが心臓の隣にあるっていう、特別扱いだったのか。
気付いた事がかなり爆弾で、おれも膝をついて顔を覆って、あまりのこっぱずかしさに動けなくなった。




