眼奥=何がいてもあなたはあなただ
部屋につくまででぎりぎりだったんだ。本当に。
いや真剣に凍え死ぬ可能性が、頭をかすめたくらいだ。
お兄さんの凍る力はやっぱり、普通の魔術師が扱う物とは一味も二味も違う。
呪い本の術で温まった体をさすっていると、やっぱり指先が恐ろしく冷たい。
これ以上の距離を移動するのは、命がけになるだろう。
生き物は低体温になると冬眠する、そんな種もいるが人間みたいな見た目の奴で、冬眠ができる種はいない。
そしてオーガもエルフも冬眠なんてしないんだから、低体温は命の危機なわけだ。
「まさかお兄さん抱えて凍って死ぬかもしれなかったとは……」
想定外過ぎる。
しかし。
がっちりと首に腕をからみつかせて、離すまいとしている意識の殆どないお兄さん。
開いた眼の向こう側で何を見ているのか、おれにはわからない世界であり領域だ。
「お兄さん」
ちょっと試しに呼び掛けてみる。眼が開いているなら意識も、とちょっと思ったがそれはだめだったようだ。
名前を呼んでも、お兄さんの意識はこちらに向かない。
もう一回、もう一回。
三回呼びかけて見た時だ。
お兄さんがようやく振り向いたのだ。
ばちん。
眼のなかに何かがいる、というのだけははっきりとわかった。
お兄さんの長い睫毛のなかにある、深い深い海の底よりも深いだろう瞳のなかに、何かが泳いでいるのだけは、分かった。
そして泳いでいるなにかが、おれの呼びかけでこっちを見たのも。
ざわざわっと、背中の毛が一気に逆立った。やばいやつだこれ。
とんでもないものが、今、全ての意識をおれに向けている。
なんかとんでもない物、すさまじい物がおれをじっと、見ている。
お兄さんの目を通して。
口を開いても何も言えない、何も言葉になってくれない、本当にどうしたらいいのか。
固まっていても、お兄さんの腕がほどけるわけじゃないから、至近距離なのも離れられないのも変わらない。
つばを飲み込んだ。
ばちん。
またそいつが瞬いて、緩やかに笑った。
「あ」
お兄さんと同じ形の笑みだった。
お兄さんと同じ笑い方で笑うのか。
その事で少しだけ、怖いと思った何かが削れた。そうか。
これは怖がるだけではいけない物なのかもしれない。
だから何とかありったけの根性を、ひねり出して。
問いかけた。
「こんな堅い床の上じゃなくて、もっと柔らかい寝台で寝ませんか、どうせ寝るなら」
ばちばちん。
またそいつが目を瞬かせた後に、寝台の方を見る。
首を緩やかに横に振った。
「いやなんですか、またどうして。体が痛くなりますよ」
答えはなく、ただ、ただ。
(てをはなしたらそのとき、いなくなるかもしれない)
そんな意識らしきものが、おれの頭の中に入ってきた。
え、なにこれ。お兄さんの中のこれの意識?
さすがにぎょっとしていれば、それはまたその意識らしきものを流し込んでくる。
(いつのじだいも、ふれられなくなるのが、いちばんさみしい)
なんだよ怖がって損したな!? こいつただの寂しんぼじゃねえか!
その一言のために、おれの中にあった怖さとか遠慮とかが一気に消し飛んだ。
本当に消し飛んでしまって、残ったのは呆れたような思いだけだったのだ。
この寂しんぼどんだけ寂しんぼなんだよ、一人が嫌いなのか。
よしよしわかったわかった。
いつもはお兄さんの方が年上感満載で、大人なのにこの何かわからない、お兄さんの中に巣くっているぶつはおれより子供っぽいわけか。
「大丈夫ですよー。おれはお兄さんから離れないって決めてますからね。たとえ離れても何が何でも戻ってくるのが、おれですから。それに目の前にいるんだから、離れているも何もないでしょう。一緒に寝ますよ、あなた熱出して体が弱ってるんだから」
(へんなやつ)
意識がいくつか重なったような音を交えた。おい、いま何重奏だった。
軽く五人分の音だったぞ。
しかし、お兄さんは前に言っていたではないか。
己は体の中に悪魔を飼っているとかなんとか。
きっとこれがその悪魔の意識っぽいものかもしれないし、今の所おれに危害は加わってないし、お兄さんという意識が封じている物が顔を出した程度である。
顔出しただけで凍り付かせるとか、とんでもねえなこの悪魔?
「まあまあ。いつもは一緒に寝たりしませんけど、今日は特別一緒に寝てあげますよ。朝っぱらから暴れまわったりしてるから、熱の周りが早くてそんな事になるんです」
言いつつ抱き上げ抱え込み、おれは片手で寝台の敷布をめくり、おれごとその中に飛び込んだ。
それがよっぽどびっくりしたのか、じたばたと動いたお兄さんの体だったが、胸に頭を抱えて背中を叩き、子守唄を囁くうちに静かになった。
「……おれも寝よう。朝寝なんてなんて贅沢なんだ」
呟きつつ目を閉じながら、周囲の気配を探る。
あー、やっぱりいろんな奴がここに結界をはって、おれたちをこの中に封じ込みにかかってやがる。
なんでわかるか、勘だ。
そしておれのよく聞こえる耳が、ぶつぶつ言っているのを拾い、それを総合するとそう言う事だったわけだ。
まあしかし、外に出たけりゃぶち壊すまで。ララさんたちは閉じ込めるなんて言わなかったから、そんなことするのに事前の通知がないのが悪い。
そしてお兄さんが回復すれば、大概の術は敵じゃない。
つい笑いそうになりながら、おれはいよいよ抱き枕になる事にした。
風邪なんて、しっかり休めば一日で大体治る。体がしっかりしている冒険者なんて特にそうで、お兄さんもそう言った意味では例外じゃなかったらしい。
身じろぐ気配で目を覚まして、はてどっちが起きたのかと思ったら、
「子犬、柔らかい布団は嫌いだと言ったのに、どうした」
いつものお兄さんの声が降ってきて、反論するべく口を開く。
「お兄さんの中のお兄さんじゃない物が出て来て、しがみついて離れなかったんですよ」
「よく氷漬けにならなかったな、普通はそれで凍って死ぬんだが」
「呪い本の便利な術のおかげですね」
間違いなく。
欠伸をしながら体を起こし、お兄さんを軽くにらむ。
「一つ言わせてもらいますけどね、体調不良で外に出て風邪なんて悪化させるのは、ちっちゃい子供と同じですよ、お兄さんの扱いを格下げしなきゃいけないわけですか」
「……それは、すまないな。風邪なんてもう何年も引いていなかったから、すっかりそれの感覚を忘れてしまっていた」
「ちなみにあのなんかわからない寂しんぼ何者です?」
「あれが“寒空の祝福”であり、それが食らった意識の集合体だ。“寒空の祝福”を身内に宿しながら命が絶えると、あれに意識がこびりつくらしくてな。色々な人間だったり獣だったりの意識が、重なっている」
「……じゃあ皆さみしんぼだったのか」
思わず突っ込みをいれてしまう。どんだけ他者との交流に飢えてんだよ。
というかそういうか。
「お兄さんって本当に人身御供だったわけですね」
「何をいまさら」
「いやおれから見たらちょっと世間を棄ててるだけの強いお人だから、人身御供にされたというあたりがいまいち理解できていなかったというか」
死ぬ事を強制された奴っていう感じがしなかったのに、あんなもの体の中に封印しているというとなんか……しっくりくる。ああ、そうか、名前は伊達じゃなかったな、と。
「そうだな、私は歴代のなかで一番長生きだし一番あれを押し込んでいるから、子犬の目にはそう映るのかもしれない」
緩くおれの髪の毛をいじりながら、言われた。
お兄さんが一番?
当たり前だ。
「当たり前でしょう、おれのお兄さんが一番じゃなくて何なのさ」
「……」
おれを飼いならすようなことが簡単にできるんだから、おれの誇りを傷つけないで己のしてほしい役割を演じさせることができるんだから、お兄さんが一等賞だ。
心底そう言い切れば、お兄さんはおれの頭を思いっきり撫でまわし、顔をそむけた。
「やれ、顔が熱い」
耳まで赤いから、ああお兄さんちゃんと体温あがったな、と指先の温度も確認してほっとした。




